main | ナノ
Q、あなた達は正常ですか?

A、グモンですね。ワタクシたちは――


ニンゲンというのは完全なセイジョウを保っていられない生き物らしい。それは誰から聞いた言葉だったか。エメット?いや違う。自由奔放に、ただ欲に従う生き方をしているアレにとてもじゃないが考えられるモノではない。じゃあ部下の――。候補に挙げるべき名前を浮かべようとした思考がそこでピタリと止まった。ぶらりとだらしなく下げて行き場を無くしていた腕を掴まれたからだ。後ろから急に。驚きはしたが、怒りなんて汚い感情は湧き出したりしない。ああ、また。またやってしまったか。それを受けて自分という存在を責めたい衝動に駆られはしたが。
動揺しているクセに平常を装って。理由など分かっているクセにどうかしましたかと尋ねる。握られた手から背中まで、一定の体温を保たせている愛しい存在に。熱過ぎず、冷た過ぎずの生ぬるさを身に纏ったカノジョはこれに対して、寂しそうだったから。ただ一言を寄越してくれた。そんなことはないですよ。その返事は震えなかっただろうか。


「ただ少し、考えゴトをしていまして」
「考え事?」
「ええ、とてもくだらないことですが」


ふーん。そっか。平坦な声で返ってくる。興味が引かれなかったのか、はたまた元からそこまで内容には興味がなかったのか。どちらにせよワタクシはそんなカノジョに愛しいという感情しか抱かなかった。未だに優しいぬくもりに包まれた手首。それが答えだ。ワタクシの気を惹くためだけに状態を保っているというのはとても気分が良い。しかし、どこか――。
だからわざと乗せられた。その表現はとてもピッタリだと思うのだ。振り返ることで一度カノジョの手から逃れ、きょとんとした様子のところへつけ込むように抱きしめたコトは。もしかするとこれはカノジョにとって計算の内だったかもしれない。ふと頭に過った仮想。しかしワタクシにとってそれが真実か否かというのはどうでも良いコトだった。

ナマエ――片時も忘れることはなかったくせに呼ぶのは久しぶりの名前を口にする。ナマエはワタクシと違って気にしていない。なあに?暢気なものだ。これから訊こうとしたコトをぶつけるのに躊躇ってしまうほどには。ああ、やはりやめといた方がいいか。ワタクシはカノジョを――。それ以前に何故こんな質問を考えた?これではまるで――。結論に辿り着く前に死んでいくそれらを尻目に息を呑む。全ての戸惑いを振り払い、意を決するために。


「オマエは良いのですか、このままで」
「いい?何が」
「……この生活を続けていくことに不満はないのかと訊いているのです」


身体の外へ出て空気を伝わり、カノジョの耳に届いてしまうことを恐れていた言葉はいとも簡単にワタクシの中から抜け出した。抜け出し、すぐさま今までの鬱憤を晴らすかのようにナマエの元へ。ああ、これでは自分から終わりの誘いをしたかも同然だ。いくらワタクシと一緒にいることに慣れ始めたカノジョでもこの質問で我に返るだろう。思い出すだろう。

この生活が始まる前は自分の肌の色は今と比べ物にならないくらい健康的だったということを。

この生活が始まる前は作り物ではない光とたくさんの笑顔に囲まれ、明るい日々を送っていたということを。

この生活が始まる前は血を分けたエメットを差し置いて、ワタクシと顔も性格もよく似たオトコを愛していたコトを。

全て、全て思い出すだろう。そして気づく。それらを過去として受け止めている今は可笑しいと。イジョウだと。ナマエの身体というものはどこも何の不便もなく自由に動かすことができる。だから、元通りになれば辿り着くのは一つだろう。カノジョにとっては幸運なコトに。ワタクシにとっては悲運なコトになる。だってワタクシはカノジョを失うことになる。だからと言って私の元から離れて本当を取り戻しに行くカノジョをジャマするつもりはないが。本当はいつだって心のどこかで後悔していたのだから当たり前だろう。この重くて辛い罪悪感から逃れることができるのであれば、間違った方法によってもたらされた喪失感を一生背負うコトなどワタクシはいとわない。

しかし。そう強く、これから訪れる未来に覚悟したというのに。

ないよ。十分だよ。

カノジョはそう言った。


「ナゼですか。拒否しても殴ったりしませんので、正直に言って……」
「本当だよ?私、この生活が好きだし何より」


貴方のことは大好き。心から愛してるの。
信じられない。
そう思ったワタクシのことなどお見通しなのだろう。力など、とうに抜けてしまったことをいいことにナマエはワタクシの肩を軽く押した。確認しろ。そういう意味なのだろうか。ワタクシは言葉に甘えて、出来た距離からカノジョの顔を伺う。ニッコリ、そんな効果音が似合いそうな笑顔だった。幸せそのものだった。ウソなど吐いているようには到底思えない。どうして、そんな表情をする?この生活を始めた――いや始めるコトを思いついた時から壊れてしまった脳では考えるコトもままならない。


「だって、ワタクシは。オマエをここにムリヤリ……」
「うん」
「オマエがあんなに愛していたオトコだって……」
「うん」
「それなのに、ワタクシを愛していると?」
「うん」


迷いなんて一切見受けられなかった。機嫌を取るために本心を殺しているようには見えなかった。
何てバカなことを言うのだろう、このオンナは。想いを寄せるオンナに向けるものとしてはこの上なく最低だが、そう思った。でも心のずっと奥底でワタクシは確かに安堵したのもまた事実だ。

勘違いをしてはいけない。ナマエは混乱しているのだ。精神的に疲れているのだ。だから安らぎであった彼女の恋人と瓜二つのお前に依拠している。本物はいないから。ようは錯覚だ――入ったら抜け出せない暗い世界を目の前にすると、そんな声が聞こえた気がした。声色はまるであのオトコにソックリである。いもしない神の戒めのつもりなのだろうか。


彼女を解放したいのだろう?
ええ。
なら今すぐに彼女を外へと追い出せ。彼女に自由を返してやれ。
できません。

――何故だ?

――簡単なコトですよ。


逸らされるコトなく送られ続ける視線。それに捕まった以上、放ってしまうことなど無理な話。せいぜい今の発言でこの生活は許可を得たものと化したことにし、カノジョと一緒に生ぬるい幸せに呑み込まれてしまうコトしかワタクシには。


「……くだらないコトを訊いてしまいましたね。スミマセン」
「いーえ。もう今さらでしょ?」
「それも、そうですね」
「それよりご飯にして早く寝よ?明日から遅いんでしょ?」
「ええ……でももう少しだけこのままでいても?」


頼りない声色で告げたワガママにもう、インゴは甘えん坊さんだなあ!子どもに接するかのように作った声を披露しながらナマエは笑った。ようやく名前を呼ばれたことに心を満たされたワタクシも小さくそれに続きながら、何となしに。何となしにカノジョの手を取る。持ち上げれば当然の如く手首もついてくる。それに残された爪痕だって同じだ。今はもう必要ないと判断して、取っ払ったモノがカノジョに植えつけた痕だって。


「また外そうとバカなことをしているのですか、オマエは」
「は、外してください!というかここから出してください!あの人に、会わせ……」
「ウルサイですね。ソレを外すこともこの部屋から逃がしてやることも、ましてやアレに会わせてやることも叶いません。幸運なことにワタクシはアレとよく似ています。だからコレで諦めなさい」



まだホンモノの幸せには程遠い、表面だけで一方的な幸せの味しか知らなかったあの頃の記憶が駆け巡る。ついさっきまで自責の念しか抱いていなかったが、今はどうだろうか。ホンモノに近づくための一歩であった。そう思ってもバチは当たらないだろうか。

インゴ?――心配そうな呼び掛けに引き戻される。不安そうに揺れる瞳が視界に入った。ワタクシがそうさせたのだ。ならばようやく本質へと入ったこの生活を終わらせることができる存在が現れるまでワタクシはその責任を取るべきだろう。大丈夫、心配いりませんよ。

そう言って追撃をかわすようにすぐそこにあった手首に唇を落とす。瞼を閉じて、考えを悟られないようにしながら。

いつの間にかあの声は聞こえなくなっていた。まあ、いい。これからのワタクシたちに第三者が割り込んでくるコトなどあってはならないのだから。

A、少なくともセイジョウではないでしょうね。ワタクシもナマエもこの生活に幸せを感じているようですから。


どうか僕が瞼をもう一度だけ明けた時、そこに広がっているのは生暖かく暗い幸せだけでありますように


草涙さんから誕生日プレゼントを頂きました…!
軟禁しときながらちょっと弱気になっちゃうインゴさん…しかし手放す気はないインゴさん…!!
仄暗い盲目な幸せですね!私も幸せです!本当にありがとう!!
「#寸止め」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -