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『助けてほしい』

それは懇願だった。目を離せないほど悲痛な叫びだった。僕は自分から手を伸ばすことはしないけど、伸ばされたならその手をとろうと思った。

ノボリは最後までナマエと関わることに反対していた。僕たちには手に負えないって。僕も何となくそうかもしれないと思った。ナマエが背中に何を背負っているのか、僕らは彼女の言葉以外では知る由もなかった。それはもしかしたら予想もつかないようなとんでもない爆弾なのかもしれない。
でも、そこにいるのは震える、小さな、常識のない少女でしかなかった。彼女は背中には何かを背負っているかもしれないけど、必死にこちらに伸ばす両手には何も持っていない。『僕が勝手にするから大丈夫』ノボリはしぶしぶ首を縦に振った。


僕だって何とかするとは言っても一から十まで面倒を見られるとは思わなかった。だから、とりあえず伝手を頼って孤児院に引き取って貰えないか打診してみた。戸籍もない親もない子供なんですが。見てもらえませんか。思ったより快く彼らはナマエを引き取った。それから色々ごまかしつつトレーナーカードを取得して、スクールに途中編入させて。


ナマエがまた悪さをしていないかどうか、僕は割と頻繁に孤児院とスクールを訪れた。そしてそのどちらでも、心底不思議そうな顔で聞かれるのだ。「彼女は一体何なんですか?」「ナマエちゃんは一体今までどんな生活を送っていたんですか?」

「僕に聞かれても…」

僕だって出会ったばかりなのだから。

「何か人のものを盗ったりしてるんですか?」
「まさか!もの静かで模範的な子ですよ。ただ…」
「ただ?」
「いえね、彼女…ポケモン学全般に関しては、もうスクールに通う必要はありませんよ」

ナマエの成績、特に社会のそれははじめ壊滅的だった。目も当てられない。しかしナマエはその点数でさえどういう意味を持つのかわからなかったのか、酷い成績を見ても目を瞬かせて首を傾げるばかりだった。そこで改めて、この子は何も知らないんだと知った。浮き世離れした言動(例えば裸足で色んなところをうろついたり、教科書を突然音読したり)で時折先生を困らせているらしい。
ただ、ポケモンの生態に関する知識には目を見張るものがあると。カントー、ジョウトのポケモンはもとより、イッシュの生態系も図鑑を見るなりすぐに吸収してしまった。
大人でもかなわないその知識と理解と才能を、特に孤児院の院長は絶賛し評価しているようだった。実のところ僕はそれをあまり快くは思っていなかった。彼はその温和な顔つきに対して少し、打算的過ぎるきらいがある。ほとんど収入のない施設を経営していく上、仕方ないことなのかもしれないけれど。彼の孤児院のスポンサーにはポケモンの研究所がいくつかあったはずだ。



「ナマエー」
「!クダリさん」

院に顔を出して手を振ると、本を読んでいたナマエがすぐに駆け寄ってきた。

「どう?最近は」
「ええと、スクールでは色んなことを教えてもらえます。今日は、イッシュの伝説のお話があって、あの、私、えっとあとは」
「落ち着いて、ちゃんと聞いてるから」
「はい」

ナマエは急いでたくさんのことを思い出していっぺんに僕に話そうとしているようだった。話したいことがついていかない口の間から形にならないままぼろぼろとこぼれ落ちる。ナマエはひどくもどかしそうに、しかし慎重に、落ちたものたちを拾ってそれに正しい言葉をあてがおうとしていた。そしてそれはうまくいかなかったらしい。ナマエはぱっと顔を上げると、くるりと髪を揺らして部屋の中にぱたぱたかけていった。僕はただその場に取り残された。

驚いているうちにナマエはまた戻ってきた。銀色の、ステンレスの容器を持って。僕が何か言うのを待ちきらないうちに彼女はその銀の蓋を開けた。

「あの、私、初めてお弁当を作ったんです、今日。それで、スクールで食べようと思ったんですけど、その、時間がなくて食べられなくて。あの、」
「食べていいの?」
「!はい、まだ悪くはなってないと、思います。」

その差し出されたお弁当箱に入っているものたちは、お世辞にもおいしそうとは言えなかった。どれも必要以上に濃い色の焦げ目がついている。それでもナマエが少し不安げな目をするから、僕は卵焼きに手を伸ばして指でつまんで口に運んだ。

「……おいしい」
「ほっ、んとですか?」
「うん。これ、卵焼き、おいしいよ」

…ほんのり出汁の香りのする卵焼きは、これはお世辞でなく確かにおいしいと思った。焦げの苦味さえなければかなり、いけるんじゃないか。あとは見た目。
表情の少ないナマエが喜んでいるのかは僕にはよくわからなかった。けれど、ナマエはそわそわ弁当の蓋を開けたり閉めたりしていいだけかぱかぱといわせた後、「ありがとうございます」と言った。


「…たくさん知らないことがあって、たくさん人がいて、私、楽しいです」
「そっか」

ぽつり。ナマエは簡単で、でもまっすぐな言葉を溢れてくる気持ちに与えたようだ。気まぐれに頭を撫でて髪を乱してみる。ナマエはきゅうと目を細めた。





働ける年齢になってすぐに、私はバトルサブウェイに就職したいと願い出た。

三年弱のスクールでの生活はそれは夢のようだった。同年代の人たちと話すのも、教科書を読むのも、みんなで温かいご飯を食べるのも、何もかもが私を夢中にさせた。すぐにそれが私の世界の全てになった。

私の全てを与えてくれたあの人に、私の全てで感謝したいと心から思った。今までの、自分が生きることだけに必死で何も見えていない私から考えれば信じられないことだった。誰かのために何かしたい。させて欲しい。


「うーん…難しいかもしれないね…」

院長は眉間にちょっと皺を寄せて困った顔をした。
温かい笑顔をたやさない、とても親切で柔らかな人。この三年、何も言わずに私を広い心で受け入れてくれた人。

「君はもうしばらくここに住んでいるから、この街で、この地方で、サブウェイがどれだけ大きな組織かわかるだろう?」
「はい」
「君は…優秀だけど、二年とちょっとしかスクールに通っていない。そして大きな組織というのはあまねく、履歴というのを気にするんだ。もちろんサブウェイも例に漏れない。わかるかい?」
「…はい」
「ナマエはポケモンに詳しかったね。紹介したい仕事もある。どうだい?」


働けるなら、働かせてくれるところで精一杯働こう。そうして生きることが私の憧れで、目標だったのだから。


ただ私はどうしても諦めきれなかったのだ。だからスクールの卒業の日に顔を出してくれたクダリさんに直接言った。


「卒業おめでとう」
「クダリさん」
「大きくなったねえ」
「あの、私、」
「どうした?」
「…私、バトルサブウェイで働きたいんです」
「いいんじゃない?」
「えっ」



申し訳ないことに、クダリさんはしばらくこのことで色々な人ともめたようだった。院長、スクールの担任、サブウェイの委員会、それに、ノボリさん。私には教えてくれなかったけど。

私はクダリさんが持ってきたテストのようなものを解いて、テーマに関する論文を書いて、ちょっとした面接を受けただけだった。私は、履歴書を書かなかった。書いたとすれば名前の欄以外は真っ白になってしまうそれを。

それがどれだけ特別なことなのか、今ならよくわかった。私は一方通行の恩を受けるばかりで、何も返せていない。




「ようこそ、バトルサブウェイへ」


精悍な笑顔が私を出迎える。鉄道員の制服とは違う、グレーのスーツ。ちょっと窮屈なそれに腕を通して、開いたドアの先ではまた新しい世界が私を待っている。
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