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「ナマエ、ぼーっとしてないで、」
「あ、はい」

声をかけられて初めて、自分が深い思考の海に沈んでいたことに気づいた。ここ三年ほどの、夢のような現実。最近は腰が落ち着いてきたからか無意識のうちにそれを振り返ることが多くなってきた。


『君はスクールに行ってきちんと勉強したほうがいい。お金なら、なんとかするから』


  忘れようもない、その言葉から始まった現実だった。





「…クダリ、思慮のない発言は控えなさい」
「人のこと考えなしみたいに」

目をまん丸く剥いていた黒い男がやっとのこと言葉を発する。
私のほうも人のことは言えなかった。口を開けて何も返答できないくらいには、白い男が言っていることに混乱していた。意味がわからなかった。それは、誰に向かって言っているのだろうか。

「この娘をどうするおつもりですか」
「ただスクールに行かせるだけ。学がないからスリなんてする。この子もわかってる。だからこのまま繰り返すって言ってる」
「わたくしどもで何とかなる話だと?」
「この子は自分がジュンサーさんにお世話になるようなことをしてるのは知ってる。自分で呼べって言うくらいだから、多少なり罪の意識も償いたい思いもあるんでしょ。それでも今までそうしなかった。いつでもできたのに。理由があるんじゃないの?」

黒い男と向かい合って会話していた白い男の視線が突然私に向けられて、肩がひくついた。「別に僕らジュンサーさんじゃないし、誰にも言わないから言っていいよ」ぶっきらぼうな、でも、何かの鍵を手探りで開けるような言葉だった。

「どういう…意味、ですか」
「なんで今までジュンサーさんのところに行かなかったの」
「…捕まりたくなかったから」
「それはそう。じゃあ何で今逃げる努力をしない?」
「それは…」
「はい、君のボール。デンチュラ戻って。ドアの鍵は開いてる。さあ、どうぞ」
「クダリ!」

白い男は持っていた三つのボールを私に手渡して、黄色いポケモンをボールに戻した。どうしていいかわからずに手の中に戻ってきた重みと、相変わらず私を見下ろす笑みとを見比べる。

「流れに身を任せることは、簡単で楽で、時に無知で無責任で、罪だ」
「……」
「君は変えたいと思ってる。僕はそれに手を貸すことも、君を元の場所に追い返すこともできる。ここで悪さをしなければ、別に僕は構わないから」
「……」
「何で今までジュンサーさんに頼らなかった?君が呼べって言うなら、呼ぶよ。逃げたいって言うなら逃げればいい。助けてほしいなら、それなりの説明が必要だ。自分で決めな」
「…どうして、」
「僕の自慢のデンチュラの糸、簡単に解く女の子に興味持っただけ」

黒い男が信じられないといった表情を白い男に向けていた。白い男はわざとなのか、それを一瞥もしない。


「……殺人犯の話をします」


白い男はキャスター付きの椅子をきゅるきゅる転がして私の座るソファの向かいに二つ並べた。背もたれに腕と顎を載せて座る。黒い男は白い男に勧められて、仕方なくといった様子で腰掛けて足を組んだ。あのポケモン シャンデラは、まだふよふよとソファの周りに漂っていた。





『一人では生きていけない』


あの男の人は何度も私に向かってそう言った。口癖のようなものだった。

両親の記憶はもうほとんどない。高名な研究者だった、らしい。これは聞いた話。
幼い私はほとんどの時間を彼らのポケモンと過ごした。


「人は、何かよりどころがないと、上手く呼吸さえできないのですよ」
「よりどころ?」
「貴女にはまだ難しかったですか」

あの男は上品に笑う人だった。
私が乗って遊んでいたブランコの隣のブランコに腰をかけ、おもむろに話しかけてきた彼としばらくおしゃべりをしたのが出会いだった。何を話したか、細かいことはもう覚えていない。しばらくそうしていると同じ服を着た二人の男の人が彼に近づきぼそぼそと話しかけた。「今は私が、彼らのよりどころなのですよ」二人が去ると彼は立ち上がり、優しい笑みで私の手をとった。

そうして公園から手を引かれて連れて来られた場所が、私の新しい家になった。


その日を境にして色々なことが変わった。
私は外に出られなくなった。家は広くて、本で溢れていた。おもちゃもあった。それを好きにしていいという許可もあった。


「ねえアポロ、私、公園に行きたい」

朝食を食べている時に一度だけ言ったことがある。窓から降り注ぐ陽光は私にとって、室内で浴びるには毒でしかなかった。

「いけません」
「どうして?こんなにいいお天気なのに」
「あまりわがままを言って私を困らせないでください」

眉尻を下げてアポロが言った。別に彼を困らせたい訳じゃなかったから、私はそれっきり口をつぐんで黙々とご飯を食べた。
次の日、朝起きると傷だらけになった両親のポケモンが部屋でうずくまっていた。私が泣き叫ぶとアポロがやってきて、「ナマエがいい子にしていればすぐ直ります」。私は彼に逆らわなくなった。ポケモンたちは、人を見るとびくびくと怯えるようになった。

家の玄関にはデルビルが居座っていた。アポロのポケモンだった。アポロがいないときに私が外に出ようとしたら噛みつくようにしつけられていた。あの子たちがボールの外に出るのを怯えるようになってからは、このデルビルがもっぱら私の話し相手だった。
玄関に続く廊下の壁に寄りかかって、「がう」としか相槌をうたないデルビルに向かって話し続けた。家にいても何も起こらないから、本で読んだことばかりだったけど。デルビルは静かに私の話を聞いてくれた。

両親は私のもとに現れなくなった。もともとそこまで一緒に過ごした訳じゃなかったけど、ずっと会わなかった。幼かったとはいえ、それが異常なのだと私は感じていた。でもアポロにそのことを聞いたりはしなかった。私はもう彼を恐れていた。


そうしてどれだけの年月を過ごしたのだろう。アポロは私が退屈しないようにと、時々人を家に招いた。気さくで優しい人ばかりだったけど、教わったのはピッキングや縄抜け、変装の方法とか、そういうことばかりだった。スリの方法もこのとき教わった。それらのほとんどが明確に、社会的に犯罪なのだと知ったのは、もっと後になってからだった。

アポロが一つ間違えたことがあるとすれば、私にたくさんの本を与えたことである。家には絵本やポケモンに関する研究書しかなかったけど、絵本は大まかな倫理を、研究書はポケモンの知識を私にくれた。

十二歳の誕生日を迎えたとき、小さなケーキを食卓に並べたアポロに私は久しぶりの質問をした。


「ねえ、アポロは私の何?」


アポロは少しも動揺しなかった。ナイフとフォークを置いて、薄い笑みを私に向けた。

「私は貴女のよりどころです」
「わからない」
「私がいなければ、貴女は生きていけないでしょう?」

私は少し考えた。この家の外がどうなっていたのか、私はちっとも覚えていなかった。絵本の中のような、温かくて優しい世界がそこにあるのだろうか。少なくともこの家の中では、アポロが突然消えれば、私は生きていけないのかもしれないと思った。

「そうかもしれない」
「ふふ、いい子ですね」
「でも、他人」
「おや、違いますよ?」
「え?」
「私は貴女の父親です」

アポロを見た。何でもないことを言ったように、涼しい顔をしている。

「嘘つき」
「本当のことです」
「私、パパもママもいる」
「覚えているのですか」

ナマエがもっと幼い頃の話なのに。アポロが言う。忘れていると思われていたらしい。事実もう顔は思い出せない。ただ、両親が確かにいたのだという証拠が、私のポケットの中にしっかりしまっているボールの中に息づいている。

「そうですね…そろそろ、いい頃合いかもしれません」
「?」
「ナマエ、貴女の父親は今、この私です」
「嘘」
「養子というのを知っていますか?」
「えっと、シンデレラの…シンデレラと新しいお母さんの…?」
「違います。が、まあそんなところです。私はナマエの新しい父親です」
「パパは?ママは…?」
「いませんよ」
「どうして?」
「亡くなったからです」

アポロはあまりにもこともなげに言った。だからかもしれない、私は少し心臓のどきどきが早まっただけで、自分でも驚くほど冷静だった。

「どうして死んだの?」
「ナマエは本当に、落ち着いたいい子に育ちましたね」
「答えて」
「殺されたんですよ」
「殺された」
「そうです。…しかし、この言い方は少々語弊がありますね」



「殺しました。私が」

言いながらアポロは上品にフォークを口に運んだ。じっと私の目を見つめながら。

「そっか」
「ええ。ナマエの両親は優秀な研究者でした。私たちを裏切らなければ」
「私たち?」
「何人かもう会っているでしょう?」
「仲間の人?」
「そうですよ。貴女もそうです」
「私?」
「ええ、もう、仲間です」

アポロは優しく目を細めた。私はフォークでイチゴを突き刺した。


「おやすみなさい」

食器を片付けて部屋に戻る。布団に潜り込んで、ポケットに入れていたボールをぎゅうと握った。またこの子たちが傷つけられるかもしれないと思った。

もうこの家にはいられない。ただでさえ恐れていた男は、私の両親を殺した殺人犯だった。一体私をどうするつもりなのだろう。

がちゃり、音を立てて部屋のドアが開いた。ベッドに歩み寄る足音に体がこわばり、かたく目を瞑った。足音が止まる。


「恐怖も愛も依存ですね、ナマエ?」


さらりと私の髪に冷たい指を通して、「おやすみなさい」。アポロは部屋を出た。



次の日、私はアポロが家を出たのに続いて家を出た。デルビルは本当の主人ではなく私についてきてくれた。家を出ると頬を撫でる風に身震いした。嬉しかったのか怖かったのかよく覚えていない。
周りを見ても自分がどこにいるかなんて全くわからなかった。履ける靴がなくて裸足だったから、とりあえず街路より森を選んで歩き始めた。持っているのは二つのボールと三匹のポケモンだけ。そうして私の旅は始まった。





「行く先々で親はどうしたと聞かれる度に、恐怖でどうにかなりそうでした。あの人は他人だけど養父です。きっと連れ戻されるのだと。そして仲間を裏切った私は殺されるのだと。
ジョウトでは食べられるきのみは自生していないので、すぐに食べるものに困りました。草を食むだけでは長くはもちませんでした。私はいつか教わった通りに、スリを働きました。ばれることはありませんでした。少しずつ盗んで、拾って、港から船に乗りました。とにかく遠くに逃げなければいけないと思いました」

旅をする中で多くのことを知った。私と同年代の子はスクールに通っていること。何をするにもお金が必要なこと。たくさんの仕事があって、みんな働いてお金を稼いでいること。「働かせてください」と私が頼めばすぐ、親を呼ぶ話になること。


「私はあの人と何も変わらない」


後ろめたさに目を背けて、生きるためと言い訳して。


「誰かに、助けてほしい」


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