そこには特に感慨なんてものはない。その行為自体に興奮だとか喜びを感じるほど倒錯しきってはいない。あるのは、ほんの少しの醜い罪悪感とたくさんの美しい言い訳。何の足しにもなりはしない。罪悪感だって言い訳だって、私が持つべきものではない。それは、ずるいことだから。
生きるため。これは言い訳。まっとうに生きることが、本当にできないのか。
知識がなかった。これも、言い訳。そう。確かにあの時は、まっとうに生きるだけの知識がなかった。今はどうか。私は知っている。本来私が行くべき場所を。そこに行ってどうなるのかは知らないけれど。臆病な私は、一度入り込んだ路地からもう後戻りができないだけである。
ズボンの後ろのポケットに、皮の長財布。あなたが不用心なのよ。言い訳。決して自慢できない慣れた手つきで抜き取って、人ごみに紛れる。
七枚のお札、何度も人の手を行き来しているのだろう皺の寄った一枚を選んで自分のポケットに突っ込んで、「すみません!」未だ気づかないあの人を追った。
「追いついた!お財布、落とされましたよ!」
「ええ?あ、ほんとだ!ありがとう、お嬢ちゃん」
じくりと胸を痛めるのは、私には許されない。心を殺して、「いえ、気をつけてくださいね」二度と私みたいなのに狙われないようにね。
根無し草。誰に追われているわけでもないけれど、同じ場所でこういうことを続けるリスクは悲しいかな、わかっている。街を変え、地方を変え、せめて働ける歳までは。ずるくても汚くても死にたくない。死にたくない。
ショップに入って食料を買い込んだ。これで5日はもつ。少し残したのは移動のため。切符を買って次の街に行こう。
街中のベンチに腰をおろして買ったパンを頬張った。賑やかないい街だと思う。地下鉄のターミナルに遊園地、スポーツ施設にミュージアム ほとんど私には縁のない話。
かたかたと揺れる腰のボールから相棒を出して、パンの残り半分を渡す。街のはずれに森があった。そこで一晩過ごして、早く次の街に行こう。この街は私には少し眩しすぎる。
◇
地下鉄には見たこともないほどの人がいた。来る時間を間違えたかもしれない。券売機の前には長蛇の列ができているし、自動改札は電子カードをかざす人の流れで大河のようだった。出直そう。しばらくそれを眺めて、私は踵を返した。もう一度昼に来よう。
外に出る階段までの人の流れの中でふと、スーツの男の人のポケットが目についた。財布が半分以上外に出ている。随分無防備で用心のないことだ。
あと5日分の食料……
斜め前のその人のポケットにす、と手を伸ばした。
「今何したの」
財布を抜き取った瞬間、ぐい、ともの凄い力で反対の腕を引かれて、人の流れから飛び出した。
抜き取った財布は手を離れて地面に落ちていく。いまだ掴まれている腕がみしみしと変な音をあげた。
「今何したの」
「いっ…はなっ、離して!」
「いやだ。ここで悪さする人、僕は許さない」
白いコート、駅員だろうか、迂闊だった。連れて行かれるの?連れて行かれたらどうなる?怖い。怖い!
「ノボリ、スリ捕まえたんだけどっうわっ」
小さな機械に向かってしゃべるその人の目を盗んで、腰のボールから相棒を出した。ざわざわと注目が集まって、決まりが悪い。
驚いて力が緩んだ隙に手を振りほどいた。人垣が邪魔で出口が見えない。
「へえ」
駅員は不気味に笑みを深めた。後ずさる。相棒―ヘルガーは、私と駅員の間に入って駅員を激しく威嚇した。
「そっちがその気なら、僕も手加減しない」
駅員のボールから出てきたポケモンが、カチカチと怒ったような鳴き声を立てる。
「行って、デンチュラ、エレキネット」
「ヘルガー、火炎放射」
逃げなきゃ、逃げる、どこから?
タイプ相性もあってかヘルガーが相手を圧している。「強いねえ君のポケモン!」ことさら嬉しそうに駅員が言った。
「ヘルガー、終わらせて」
「何を遊んでいるのですか」
ぞくり、背筋が凍る。寒気がするほど冷たく固い声のもとを見れば、人垣がさっと割れた先に黒いコートが立っている。
「朝のこの忙しいときに」
「えへへ、このスリ意外と強くて楽しい」
「この方ですね」
「ヘルガー気をつけて!」言う暇なんてなかった。黒いコートの隣に浮かんでいるポケモンの攻撃がまっすぐ私に…え、私に?
「地下鉄の安全を乱す方を許すことはできません」
急に頭が重くなって、その場に崩れ落ちた。床にお世話になる直前に視界に入ったのは、倒れたヘルガーの上に陣取る黄色いポケモンと、白い男の蔑んだような笑みだった。