「面会謝絶って、お願いしたはずなんだけど」
彼女はあからさまに眉間に皺を寄せて言った。白い壁、白いシーツ、白いベッド 白に包まれた彼女の病的に白い肌はまるで滑らかな陶器のようだ。僕はそれが嫌だった。彼女の白はあまりにも美しく、完成されすぎている。壊れることを待っているみたいに。
「夫ですって言ったら通してもらえた」
「ノボリもその手を使うの。卑怯よ、私は何度も否定してるのに、信じてもらえない」
僕は色とりどりの花の中から少しばかりしなだれかけた花の一束を選んで抜き取ると、新しく持ってきた生き生きとした薄桃色の花束を代わりに挿した。小さな箱のような病室では、僕らが次々に持ち込む花と彼女の豊かな髪、黒々とした瞳だけが色彩を持っている。ここを植物園にでもするつもりかと彼女に怒られても、僕らは花を持ってくることを止めない。
「日頃の行いがいいからね」
「どうだか」
花がなければ、この病室はどうにも生気が薄すぎる。息苦しい。ノボリも口には出さないけれど、そう思っているはずだった。ほとんど僕ら二人しか見舞いに来ないはずの病室には(彼女は本当に面会謝絶している)、僕の見覚えのない花がいつも生けられている。
曖昧でぼんやりとした生と死の間に立ち尽くす彼女は自分の生気なんかにはまるで無自覚で無関心で 刈り取られ、固く細長くおよそ無機的な花瓶にたてられた花たちで以てようやっと危ういバランスを保っている(有り体に言ってしまえば、ほんの少し生に引き寄せられ傾いて、生きながらえている)ようにさえ、僕には見えた。僕は他に何の見舞いを持ってこようと、花束を持ってこずにはいられなかった。
ところで、僕は本当にナマエの夫だと偽って面会している訳ではなかった。正直なところ、彼女との関係をどう形容するべきか、僕にだってよくわからなかったのだ。『ご家族の方ですか?』そうでなければ、入れてもらえないだろうか。逡巡した後、しかし、僕はほとんど嘘のない素直な言葉を言った。
どうして僕らは通してもらえたのか。それは僕らのついたただひとつの、ほんのちょっとした嘘のせいでもあるだろうし、彼ら(家族やお医者さん)もまた、僕らと目的を同じにしているからでもあるかもしれない。
「椅子、借りてもいい?」
返事を求めているわけではなかった。丸椅子をベッドサイドまで引き寄せて腰掛ける。ナマエは僕から顔を背け、ただひとつの窓を見遣っていた。
「…仕事は?」
「ん、今日はお休み」
「じゃあ、出かけてきたらいいと思うよ」
他人事みたいにあっさりと呟く。僕はそれを無視して、鞄から文庫本を取り出す。しおりを挟んだページを開いた。
「出かけてきたらいいと思うよ」
ナマエは返事がないのを気に入らなかったようだった。
「うん。今日は家から出てここに来た」
「っそういうことじゃなくてっ」
ばっとこっちに顔を向ける。薄い肩を細かく震えさせて、でも叫ぶ程の力はないから縋るような声になる。
「来ないで、病院になんか来ないでよ…来て欲しくないから面会謝絶してるのに…」
「やだ。来る」
「やめてよ、私の気持ちも考えてよ…!」
ナマエの気持ち?そんなの、最初から知ってるよ。成功するかわからない手術を受けて、自分の知らない間に自分がいなくなるのが怖い。やつれて変わってしまった自分なんて誰にも見て欲しくない。
綺麗な思い出だけ胸に持って、緩やかな死を受け入れてる。
そんなの許さない。絶対。
「出てって!もう嫌い!」
「おっと、取り込み中でしたか?」
がらりとドアを開けて暢気な声のノボリが入ってきた。ノボリは後ろ手にしっかりとドアを閉めてから、僕と同じように右手に持ってきた花を生け始めた。
「受付の方に不審がられましたよ。あれ、さっき部屋にいませんでしたか、と。クダリも来てるの忘れてました」
「いつもどっちかしか来てないからね。で、なんて?」
「忘れてた、もう受付済ませてたね、と言ってさっさと突破して来ました」
「何それ!すっごい不審者!」
ノボリの声マネが面白かったのかナマエは一瞬雰囲気が和らいだけど、またはっとしたように目を釣り上げる。
「何しに来たの」
「病院に来るときは大抵、診察か検査か見舞いですよ」
「ふざけないで!」
ノボリはちょっと肩をすくめてみせた。
「ふざけてなどおりません。見舞いです、あなたの」
「いらない!帰って!帰ってよ、お願いだから、もう来ないでよ…」
ナマエは必死だった。これ以上何も入れてしまわないように。一度入ってしまえば、ナマエの柔らかなこころはそれが出て行ったときに隙間を埋めることなんてできないからだ。
彼女は拒む。僕らが二度と出て行ったりしないことなんて知らずに、頑なに。
ナマエは小さな両手で顔を覆ってしまった。時々肩を上下させて。
僕はノボリと顔を見合わせる。
どちらともなく頷いて、僕はベッドの右側に、ノボリは左側に腰掛けた。
「ナマエ、顔あげて?」
「いや…」
「ナマエ、わたくしを見てくださいまし」
「いや、いや」
じりじり距離を詰めて、僕らはとうとう足までベッドに上げた。硬くて狭い。
「ナマエ、大丈夫だよ」
「わたくしたちがおりますから」
「そんなっ、簡単に…!」
ぱっとナマエが顔を上げる。眉間に皺が寄っている。
僕は彼女の耳に口を寄せた。
「部屋を買ったの」
「見晴らしのいい部屋です」
ナマエは困惑した表情で交互に僕らを見る。
「駅も遊園地もよく見える」
「夜景もなかなか」
「ナマエの部屋は僕の隣ね」
「わたくしの隣でもあります」
「お風呂も広い」
「キッチンは対面式です」
「もうナマエのベットも机も買っちゃった」
「カトラリーも揃いのものを」
「広いベランダもあるよ」
「花を育てますでしょう」
「やめて…」
「ナマエ一人で行かせたりしない」
「置いていくこともしません」
「大丈夫、僕らがついてる」
「心配はいりません、ずっと」
「一緒にいよう」
「やめてよ…」
ナマエ、君がもし頼んだって僕らは君を一人になんかしてあげない。「死にたく、なくなる」ナマエの手をそれぞれ包む僕らの手をナマエはすごく弱々しい力だけど握りかえしてきて、だからきっと、「恋人です」なんて僕らがついたちっぽけな嘘もそう遠くない未来に現実になる。
極彩色の未来
白いカンバスに君と描く
¶名無しの味噌汁様・300000hit企画「手術を嫌がる夢主を説得するサブマス」