「はっ、っはぁっ」
目的もなく、とにかく走りつづけた
急に飛び出したところで私にあてなんて、あるはずもないのだ
何も考えてなんかいなかった
ぼーっとしてくらくらして、平衡感覚までなくなってきて
よく事故を起こさなかったな、と思う
ただ走った
お腹も足も頭も、心も痛い
息を吸う度に喉の奥に走る切るような痛みもしかし、じんじんと疼く頬の熱を忘れさせてはくれなかった
「ふ、ぅ」
どうして、なんで
私は間違ってない
必死に守っていたものをあっけなく壊されたように、締め切っていた場所をこじ開けられたように、体中に冷たい風が行き渡ってうち震えるような、名状しがたい感覚がした
前に進もうと出し続ける足も、体力が尽きてちっとも動かなくなった
ふらふら足を引きずっておあつらえむきにそこにあったベンチに腰掛ける
どこかの公園だろうか
息を落ち着けると、思い出したようにぶわり、汗が噴き出した
少し冷静になってあたりを見渡す
ずっと住んでいるライモンシティのはずなのに、暗いからか自分が今どこにいるのか全くわからなかった
はあ、はー…、深呼吸
落ち着け、落ち着かなきゃ
ノボリさんに、ぶたれた
温厚で、小うるさいけど何をやっても手をあげたりしなかった、優しいノボリさん
誰かにぶたれたことが一度もないわけじゃない
どの家庭にもうまく溶け込めなかった私は、それを暴力で示されるのも一度限りのことではなかった
どうしてこんなにぐちゃぐちゃの気持ちなの
いつもと同じ、いつも通りなのに、全然いつもみたいに穏やかでいられない
いっそ泣き叫んでしまいたかった
自分で名前のつけられない、この持て余した気持ちを、深夜だとか関係なく、思い切り吐き出してしまいたい
「こんな夜中にランニング?」
「うっ、ぇ?」
しんとした空気が突然暢気な声に破られた
はじかれたように顔を上げる
嗚咽みたいな変な声が出た
「感心しないな」
「えと、クダリ、さん」
「そう、クダリおじさんだよ」
サブウェイマスタークダリ、書類上は、今私の叔父にあたる人
白いスラックス、ベージュのコート、ブラウンのビジネスバッグ
制帽のラインに不自然な跡がついた跳ねる銀髪、あの人と似た顔をにっこり綻ばせている
クダリさんはポスターや雑誌で見たことはあっても、親戚として会ったことはほとんどなかった
それこそノボリさんとの縁組みが決まった翌日の顔合わせくらい
ノボリさんと一緒のことがまずないし、会う機会もない
「あれ、ナマエちゃんだよね?」
「…はい」
気づいた途端に逃げ出したくなった
クダリさんの方もしっかりとは私を覚えていなかったらしく、私の隣に腰掛けてじっと顔を覗き込む
きっとノボリさんに連絡がいって、またあの鉛のように重苦しい部屋に逆戻りすることになるのだ
立ち上がろうとどんなに足をなだめすかしても、それは疲れからか緊張からか細かくぷるぷる震えるばかりでどうも要領を得ない
「…お仕事、ですか」
「ん?そう、今終わったとこ」
「ノボリさんは家に…」
「ああ、ノボリ最近は頼んでも休日出勤しなくなったねえ」
何がおかしいのか、からから笑う
「―で、どうしたの?家出?」
「っ!」
「あれ、図星?」
「、違います!」
「じゃあなあに?」
「あそこはっ!私の、家じゃない、ですから…」
家出じゃない
私の家じゃない
私のじゃない、ノボリさんの家
私はたまたま運良く住まわせて貰ってる、だけ
私は何も持ってない
私の両手には何もない
「ふうん」
さも興味なさげにクダリさんは言った
「なんだっていいけど夜中にするもんじゃないよ、スクール生が」
「……」
「ここも一応都会だしね、ナマエちゃん今ポケモンも持ってないでしょ?」
「…はい」
「若いんだから他の何より君の身体を大切にしなきゃ、こんなとこ座ってたら、危ない人に連れて行かれちゃうよ?」
「……」
ほんの少し、それでもいいんじゃないかと思った
誰にも望まれない、いない方がいいなら、連れて行ってくれる人について行けばいい
「よくないこと考えてる」
クダリさんの凛とした声が、もやもやした考えにぐさり突き刺さる
「見つけたの、僕だったからよかったけど、君が傷ついてしまったら僕には何もしてあげられない」
「…すみません」
「ノボリに連絡する?帰りづらいなら僕んち来てもいい、それともどっか泊まるならお金あげるけど」
他人に何かをすることに、この兄弟は思慮とためらいがなさすぎる
同情か優しさか、どちらにしろこんな小娘にぽいとお金を渡すなら、丸めて募金箱に突っ込んだ方がまだ有用だ
何も言わない私の返事をどう解釈したのか、スラックスのお尻のポケットから皮の財布を取り出すクダリさんを手で制す
いらない、何も私に与えないで
「何を、しているのですか」
息を切らしたあの人の声がして、ぼんやりした街灯が長い影をつくった