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「もしも、もしもの話だよ?」

ナマエの話は唐突だった
今こうしてナマエの隣に座っているのは本当に珍しいことで、だからなのか、俺が何の連絡もなしにナマエの家を訪れてから会話の一つも交わせていないのは
同じソファに腰掛けているはずなのにどこかよそよそしい、何となく距離があると感じるのは、俺とナマエの間の目に見える物理的な隔たりのせいだけじゃないと思った
彼女から手渡されたなみなみとアッサムが注がれたマグをサイドテーブルに置き、彼女の話に耳を傾ける
向かい合うわけでもなく、同じ方向を向いて、ぽつり、と一言吐き出したナマエと次の言葉をただ待つ俺

ソファは窓に面していて、生け垣の隙間から穏やかなミシロの町並みがのぞいていた
特に感慨や郷愁の念がわくわけでもない
俺はここに越してきて、その日に旅に出てしまったから
ただ、あるのはこの町独特の、何故か何もかもをすっぽりと包み込んでくれるような安心感だけだった

「もしも、何?」
「…ううん、やっぱりなんでもない」
「言えよ、気持ち悪い」

多少乱暴な言葉遣いにも、慣れているのかナマエは特に気にしている風ではなかった

「もしも、私がこの町からいなくなったら、どうする?」
「は?」

窓の外から隣のナマエへと視線を移せば、彼女は手の中の自分のマグの中身をじっと見つめていて、目は合わなかった
横顔からはその表情はうまく読み取れない
彼女の視線をたどってみれば、銀色のスプーンが突き立てられた、淡い、ほとんど乳白色の液体が揺れるばかりで、スプーンがマグの壁に触れる度に鳴る澄んだ音だけが無言の空間に浮いていた

「なに、引っ越すの?」
「ううん、そういうわけじゃなくて、だから、ただのもしもの話」
「ふーん…」

再び窓の外に目をやる
日が傾いてきた
赤橙色の西日が部屋に差し込んだ
そろそろ、行かなければならない

「だったら、俺がナマエのいるところに行くだけだよ」
「…そっか」

期待した答えでなかったのか
明らかに落胆した様子のナマエは散々かき回して冷めきったマグをサイドテーブルに置いた

「どうしたんだよ、急に」
「ただなんとなくよ、ユウキこそ、どうしたの、急に来たりして」
「…ただ、なんとなく顔見たくなっただけ」
「行かないで」
「え?」
「行かないで」

いつの間にか、俺とナマエの間にあった空間はなくなっていて、ぴったりと俺に寄り添い、小さく袖を掴んで俯くナマエが、そこにいた
小刻みな震えがナマエの手から俺の袖、腕へと伝わってくる

「お願いだから、行かないでよ…」
「なんで」
「私は、ユウキに会いに行けないの!」

怒気を孕んだ声に今度は俺の身体がびくり、と揺れた

「どうして、どうしてユウキなの?どうして他の人じゃだめなの?」
「ナマエ」
「どうして、みんな知らないふりして、全部ユウキにやらせようとするの?」

救世主なんてくそくらえよ、みんな、結局誰かに縋って、責任から逃れたいだけだわ


太腿に何度も生暖かい感触が落ちてきて、それにだんだんと温度を奪われ太腿が冷たくなるにつれてナマエの声は弱々しく萎んでいった

「ナマエ、」
「…」
「俺、もう行かなきゃ」
「…」
「絶対ナマエのところに帰ってくる、だから、俺のこと、待っててくれないか」「…」

ナマエの言うとおりだと思った
十歳そこそこのガキに世界を預けようなんて、狂ってる
陸が増えようが海が増えようが、俺は知ったことじゃない
でも、よってたかってまつりあげられた俺に選択肢なんて残されてはいないのだ
申し訳程度の正義感と、押しつぶされそうな期待と責任に促されて俺はここまで来てしまった

「行かないでよ」
「ナマエ、愛してる」

そう呟いて、俺はナマエの顔を見ずに家から出た

愛してる、なんて、よく言ったものだ
こんな言葉が相応しくないなんてわかっている
ませた子どもの薄っぺらい軽口だ
でも、これしか思いつかなかったんだ
身体も心も大人になりきれないまま、俺たちはこうして大人になることを強いられている

母親のいる家には顔を出さずにボーマンダに乗って町を出た

『行かないで』

何度も何度も繰り返し縋るナマエ
俺はそれを見たくて、それだけを確認したくてこの町に戻ってきたのかもしれない
結局は俺も何かに縋って生きているのだ

「愛してる」

もう一度呟いたそれは冷たい空の中に吸い込まれていった



ノスタルジアは貴女に

この町が俺に優しいのは、この町にナマエがいるからだ
絶対、ナマエの所に帰ってくる


¶ふさみ様・10000hit企画「ユウキ夢」
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