家庭科室の前を通ると中からいい匂いがした。
中を覗いて見るとぽつり、と小柄な女の子が一人こちらに背を向けて立っていた。何か作っているらしい。こちらには全く気づいていないようだ。何だか気になってすぐ後ろまで近づいてみると、彼女が作っているのは肉じゃが…の、面影があるなにかだった。
不意に、気配に気づいたのか振り返った彼女は一瞬驚いたように目を見開いて、戸惑いながら言った。
「…えーと、食べます?」
差し出されたそれはお世辞にも美味しそうであるとは言えなかった。じゃがいもは完全に煮崩れしているし、人参や玉ねぎの大きさも不均一で不格好だ。
しかし、勝手に入ってしまった手前差し出されたそれを拒むのも悪いと思ったので俺はそれを受け取って、一気にかきこんだ。
「…………うまい」
思わずぽろり、と漏れたそれは本音だった。いい意味で見た目からの予想を大きく裏切る味だった。
彼女はぱああ、と向日葵のように笑ってみせた。
「ほんとですか?!うわあーよかったあー、吐き出されるかと思ったのに」
「吐き出されるようなものを食わせたんですか」
「あはは、自信なくって。でも、よかった!」
彼女は毎日放課後には家庭科室にいた。
俺が一週間に何度かの放課後だけ、彼女と会うようになってわかったことはいくつかある。
彼女が俺の一個上の先輩だってこと、調理部の部員だってこと、調理部の活動は一週間に一度しかないこと。俺のことは知らなかったらしいってこと。
「調理部になったら無断で家庭科室が使えるの」
「へえ、そうなんですか」
「都合がいいのよ、こうして毎日でも練習できるから。だから調理部に入ったの」
ああ、また一つ知った。
「家では作んないんですか?」
「下宿に住んでるの、でも、早く出たいから。あと、」
「あと?」
「ここだと、食べてくれる人がいるでしょう?」
いつもありがとう、ふわりと彼女は笑った。
彼女は俺が行くうちの三回に一回の頻度で肉じゃがを作っていた。
味は相変わらずおいしかった。こういうとおかしいけど、どこか懐かしい、お袋の味みたいだな、と思う。
見た目だって練習してるだけあって段々よくなってきた。包丁を使うのが苦手みたいだ。でも、まだごろごろしていて不格好ではあるけど材料の大きさはほとんど揃っている。
俺はそれがどうしようもなく嫌だった。
不格好な肉じゃがだけが彼女と俺を繋いでる。この肉じゃがが不格好でなくなったとき、彼女はきっと家庭科室には来なくなるし、俺じゃない誰かにおいしい料理を作ってあげるのだろう。
そんなの、嫌だ。
◇
「一年のユウキです。よろしくお願いします」
調理部に入った俺を笑う奴もいたし惜しいと勧誘してくる奴もいたけどそんなことはどうでもよかった。
「ユウキくん、パスタ茹でといてー」
「はい、先輩」
最初は驚いたナマエ先輩とも今ではこうして一緒に料理を作っている。それに、俺が思ってたよりもずっとずっと料理は難しくて、退屈なんてしなかった。
まあ、ナマエ先輩と違う班のときはよっぽど休もうと思ったけど、サボリ魔だと思われたくなかったから毎回きっちり出席した。
◇
「今日はチョコ作りでーす」
…おかしい。今日はナマエ先輩と同じ班のはずなのに。テーブルには名前も知らない人しかついていない。
「あの、今日ナマエ先輩は来ないんですか?」
「ユウキくん!あーナマエは甘いものだめだからねー、サボるかもね」
(多分)部長に聞くと、信じられない言葉が返ってきた。今日は来ない?
…じゃあ、俺も来なきゃよかった。チョコを刻みながら、切実にそう思う。先輩がいなかったら、高校生男子がこぢんまりチョコ作りなんてこんなのただの罰ゲームでしかない。
トントン、と規則的に包丁を落とす音は耳に心地いい。先輩はこういうの、苦手なんだろうな。
…最近はナマエ先輩がいてもいなくても、先輩のことを考えてる気がする。
先輩、来ないかな
「遅れてごめんね」
ああ、こんなにも胸が躍る。俺は必死にその軽快なリズムが表にでないように、嬉しさを押さえつけた。
今日は、もう聞けないと思ってたのに。
「はい、待ってましたよ」
いそいそとエプロンを着て小走りでやってくる先輩はやっぱり可愛い。
………可愛い。
「私ギブ」
突然そういってかけてく先輩の背中をぼんやり見つめた。ああ、途中から顔色よくなかったけど、ほんとに甘いものだめだったんだな。我慢して来たんだ。
そういうところも、可愛い。
だめだ。溢れてくる訳の分からない気持ちは止められなくて、先輩に会いたくて、先輩の手料理も、先輩も、誰にもとられたくない。
俺は冷蔵庫に入れたばっかりのチョコを取り出して調理室から抜け出した。
先輩、料理うまくなんなくていいよ。
先輩の肉じゃがは
これからずっと予約済みだから。
覚悟、して。