‘明日は1日空けておきなさい’
一方的なメールにはナマエは慣れっこだった。その強引さは彼の生来のものであるらしい。彼の実弟のエメットからそんな愚痴話をよく聞く。
ナマエに投げかけられる言葉はしかし、(ナマエの感覚からしてみれば確かに一方的でややもすると横暴だったが、)それでもまだかなりましな方らしかった。
『一単語のメールなんてアタリマエ!ひっどいスラング並べ立ててくるときだってあるんダから!』
見る?と向けてきたライブキャスターを覗き込もうとしたところで、スコーン!と小気味いい音を立ててエメットの頭に分厚いファイルの角が落ちて、するりとライブキャスターがインゴの手に持って行かれたのは、いつの話だったか。‘bloody fool’の二単語だけ見えたが、きっとあまりいい意味ではないのだと思った。
長い付き合いになるが、付き合い始めた当初からインゴのぶっきらぼうなところは変わらない。
『オマエは本当にのろまデスね。荷物をよこしなサイ』
『どうせ暇なのでしょう?今日は付き合いなサイ』
『…ワタクシのためだけに、朝食を作りなサイ』
初めこそひどく戸惑ったし、インゴの一挙手一投足にいちいち悩みもしたけれど、彼の命令はいつだって慈しみと恋情に溢れていた。素直になれない中学生の男の子のような。これを言うとインゴはきっと怒るので、ナマエは自分の胸に秘めていたけれど。
だから今回のメールも何かインゴの考えあってのことだと思った。
それよりナマエが驚いたのは、そのメールが彼の勤務中に送られてきたということだった。インゴは決して勤務態度がいいとは言えないが、上に立つものとしてのメリハリは少なからず持ち合わせていた。そもそもにして彼はあまりメールをしない人であるし、明日のことなら家に帰ってきてからでも直接言えばいい。
小さな疑問を残しながら、まあそれこそ帰ってきてから聞けばいいか、と、ナマエは返事が返ってこないとはわかっていながらも、『わかりました。お仕事がんばってね』と返信した。
◇
「遅いなぁ…」
ここ最近で一番遅いかもしれないとナマエは思った。よほど忙しいのか、一週間ほどインゴの帰りはひどく遅かった。日こそまたぎはしないものの、うとうとと眠くなるまで帰ってこないことはざらにあった。
毎度玄関に迎えにいくたびに、『先に寝ていなさいと言ったデショウ』と怒られるのだけど、それでもどこか嬉しそうに落としてくるただいまのキスを享受していれば、先に寝ているなんて考えは自然萎んでいくのだった。
もちろん疑っているわけではないのだけれど、玄関先でナマエを抱き寄せるインゴからは、酒や香水や他人の煙草の臭いはしなかった。それどころか彼が好んで吸う煙草さえ香ってこないところをみると、インゴは煙草も吸わずに仕事に勤しんでいるようだった。
ナマエはまたちらりと時計を見た。11時も半分を過ぎ、このままでは次の日になってしまう。( その日のうちに帰ってこれないなら、メールをしてきたのも頷ける)
一分一分と針が時を刻むにつれて、ナマエは次第に不安な気持ちが募ってきた。インゴさん、大丈夫かな、まだ遅くなるのかな…もしかして事故にあったのかもしれない…
どうしようもなく悪い予想ばかりが頭を占めて、心臓がうるさく鳴りだした。手が震えて、目の前が霞む。いよいよギアステーションに一度電話をしようとナマエがライブキャスターを手に取ったときだった。
「 !」
呼び鈴の間の抜けた音がぴんと張り詰めた静かな部屋を震わせた。
インゴは呼び鈴を押さない。彼は鍵を持っていたし、遅くなるときは特に、ナマエが寝ているかもしれないことに配慮して、なるたけ音をたてないようにひっそりとドアを開けるのだ。
いよいよ日付が変わろうとしている。そんな夜中に、帰ってこない夫と突然の来訪者。ナマエの予想はついに最悪のパターンまでいきついた。夫に、インゴに何かあったのだ!全ての冷静さを失ったナマエは、街が寝静まった深夜だということも忘れて、ばたばたと足を忍ばせずに玄関へ駆けた。どうしよう、どうしよう!
「ただいま戻りマシタ」
性急にドアを開けたナマエが迎え入れたのは、若干息の上がった愛しい夫の声と、それから、いつものように彼女を包み込む彼ではなく、視界一杯の赤い花卉だった。
「あ、あぅ、え…」
「ナマエ?」
ナマエの口の端からは意味をなさない言葉が次々と溢れ出た。頭も気持ちもいっぱいいっぱいで、今起こったことまでうまく処理しきれない。
何の反応も見せないナマエに、真っ赤なカーテンの向こう側からひょこっとインゴが顔を出した。
「なっナマエ?!ナゼ泣いているのです!もしかしてもう寝ておりマシタか?スミマセン、両手が離せず、鍵を出せなかったのデス」
「いっインゴさん、ち、がうんです、私、インゴさんに何かあったと思ったから、よ、よかったです、ちゃんと帰って来てくれてっ」
薔薇を抱えたままオロオロと戸惑うインゴと、インゴの顔を見た瞬間、堰を切ったようにぼろぼろと泣き始めたナマエ。二人はナマエが落ち着いていささか冷静さを取り戻すまでの一分ほど、そのままその場で立ち尽くした。
「…インゴさん、その薔薇は?」
「ああ、」
インゴは大きい花束の向こうから、腕を伸ばして懸命にナマエの目元を拭っていた。妻を泣かせてしまった。ただ、この涙が自分のためだと思うと、薄ら暗い優越感は禁じ得なかった。
ナマエが埋もれてしまうほどの赤い花束を押し付けるように手渡し、一歩玄関に進んで後ろ手に鍵をかける。腕時計を一瞥すると、薔薇を抱えて目を白黒させるナマエの顎を掬った。
「Happy Valentine,ナマエ」
胸と胸でほんの少し薔薇を潰して、ちゅ、とリップノイズを響かせる。唇を離してナマエと目を合わせれば、一瞬の間の後、ぼっと音がするほどナマエの頬が赤く染まった。
くつり、と喉を鳴らして笑う。
「遅くなってしまってスミマセンでした。ギリギリ間に合いマシタね」
「…心配、しました」
「エエ、そのようで」
ナマエは花に顔をうずめて、また一粒だけころりと涙をこぼした。どの花より何より、自らのために朝露に濡れたすべらかな二つの赤い花が、インゴの心を狂おしいほどに惹き、乱してやまない。
「九十九輪ありマス」
「?」
「…最後の一輪はコチラに」
小さく精巧なシルバーの薔薇のモチーフに、吸い込まれるような深い紅のストーンが、コートのポケットから出たインゴの手の中で揺れた。顎に添えた手が頬をすべり、ナマエの耳に触れる。先にそこにあって控えめに鈍く輝いていた黒いストーンは、新しい華奢なピアスに取ってかわられた。
耳に空いた小さな穴は、インゴが唯一ナマエに刻んだ傷だった。ナマエの方耳で揺れる一輪に、インゴは満足げに頷いた。同じ輝きが、インゴの方耳でも揺れた。
「…ずるいです」
「What?」
「ありがとう、ございます」
俯くナマエにさらに笑みを深くし、リビングに向かうナマエに続いて家に上がった。
「あ、あの、インゴさん」
「どうしマシタ?」
「どうして、明日は空けておけと?」
「あぁ、明日はワタクシ休みを取りましたので、一日オマエと一緒にいようかと」
「え?!も、もしかしてそれで最近お仕事遅かったんですか?」
「エエ。全て終わらせてきマシタ」
「お、お疲れ様です」
「たまには動けない妻のためにあれこれするのも悪くナイと思いましテ」
「動けない?」
振り返ったナマエが見たのは、振り返ったことを後悔するほどの凄絶な微笑みだった。ピアスを指で弄び、耳に吹き込むようにインゴは言った。
「今日の夫婦の営みは、手加減できそうにありマセンので」
一日かけて一生懸命作ったチョコレートを渡したらもっと手加減してもらえなくなるのではないかと、ナマエはふと思った。
¶2013.バレンタイン企画「新婚インゴ夫婦」