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「ただいまーっ」


それはもう、元気よく。荒っぽくドアを開ける音とクダリ兄さんの帰りを告げる朗らかな声が部屋に響き渡った。びくっと盛大に肩が揺れる。嘘、まだ5:30だよね?!学生さんだってもうちょっと帰り遅いから!

兄さんが玄関で「ナマエ〜?いるんでしょ〜?」ともたついている間に目の前に広がっているものたちを急いで片付ける。せっかく準備したのに、ここまできて失敗なんて絶対に嫌。戸棚に、冷蔵庫に、流しに。道具やら何やらをぽいぽい放りながら、まな板の上に人参をセッティング。いかにも『私今からご飯作るところです』的な雰囲気を整えたところで、未だに玄関でとどまっているらしい兄さんからぷりぷりと非難の声が上がった。

「ナマエー!そこにいることはわかってるんだ!はやく出てきなさい!」
「はいはい」

どこのサスペンスだ。私はさながら人質をとって立てこもる犯人といったところだろうか。
平静を取り繕って、呆れたように大きく息をついて玄関に向かう。内心すごくどきどきしているのだけれど。

「おかえり、兄さん」
「もー!遅い!」

クダリ兄さんは玄関で靴も脱がずにじだんだを踏んでいた。何歳児だ。はい、26歳児です。ぷう、と頬を膨らませて、いじけて、まるで大きい弟みたい。

「そんな悪い子にはこうしてやるー!」
「ぐえっ兄さん!ギブ!ギブ!」

振る舞いこそ幼稚園児だけど、顔と体格、力はしっかり26歳成人男性のそれな訳で。近づいた私を熊でも捕縛するようにぎゅうぎゅう締め付けてくるものだから、早々に広い背中に降参のタップを繰り返した。

「しょーがないなー…」

まあなんだかんだいって、兄さんは私が本当に苦しがっていたらすぐにやめてくれる。今度はいつものただいまのハグくらいの緩さでぎゅっと包まれた。

「兄さん今日早くない?」
「んー?お仕事頑張った!」
「ノボ兄は?」
「……知らない!」
「それ知らなくないよね、また仕事押し付けたの?!」
「知らないもーん」

クダリ兄さんは靴をばらばらに脱ぎ散らして私の横をするりとすり抜けていった。ちょ、ほんとに子供か!

「ちょっとクダ兄ぃ!まだご飯できてないよ!」
「んーそうみたいだね」

僕人参きらーい、と声が聞こえてきた。…よかった、バレてないみたいだ。
私の靴よりふたまわりは大きい白い革靴を揃える。こうして並べるとなんだか子供と大人みたい。

リビングに入るとクダリ兄さんはコートも鞄も散らかしてソファに座っていた。床に散らばる兄さんの抜け殻を見てわざとらしくため息をつくけど、流石にそこまでは世話してやらないんだから。兄さん二人は(特にクダリ兄さんは)一歩後ろを着いて回って甲斐甲斐しくお世話してくれる撫子な嫁を早く貰った方がいいと思う。

クダリ兄さんは目をきらきらさせながら私を見て、ぽんぽんとソファを叩いた。

「ご飯の準備するからちょっと待ってて」
「ノボリが帰ってきたらやらせればいいよ」
「可哀想だから!流石に!」

仕事押しつけられたうえに三人分の夕食作るとか罰ゲームすぎる。
それでもクダリ兄さんはちょいちょいと私を手招きして「お話しよ!」と言ってきた。

歳が離れているからか、ノボリ兄さんもクダリ兄さんもお父さんのように私とよく話してくれた。歳の近い兄妹だったらこうはならないと思う。クダリ兄さんに関しては子供っぽいところもたくさんあるし、私も家事の分担に入っているから(例えば夜遅い兄さん達の夕食の準備とか)、全く親子のような関係かって聞かれたら、必ずしもその限りではないのだけれど。親子にしては歳も近いし。

しぶしぶ促されるままクダリ兄さんの隣に腰掛けた。クダリ兄さんが一回言っても折れないときは、それ以上もう何をしても無駄なのだと、長い妹生活で十分学んでいる。膝を抱えてソファの上で三角座りをしたら、くっついてきた兄さんが真似して膝を抱えた。

「まねっこー」
「真似しないでくださいー」
「えー」

今日は嫌に上機嫌な兄さんはもともとの笑顔をさらに輝かせてくすくす笑った。

「今日はスクールで何があった?」
「うーんとね…あっ、聞いて!数学の小テスト、クダ兄に教えてもらった問題出たよ!」
「でしょー?僕の勘ってよく当たるんだよね!」
「さすがサブウェイマスターですな」
「まあねー!あとは?」
「あと?えっと…なんだろ、今日は特に何もないかな」
「何も?なんか渡すもの、ないの?」
「なによ、確かプリントもないと思うけど…」

今日のクダリ兄さんはいつもの二割り増しでしつこい。笑顔も機嫌も二割り増し。早くしてくれ。ノボリ兄さんが帰ってくる前に準備してあげなくちゃ。

「ほんっとーになにも?」
「えぇー…ちょっと考えさせて」
「…じゅう、きゅう」
「えっずるいずるい時間制限とか聞いてない!」
「…ごーよんさんにーいちぜろっ」
「クダ兄ぃせこい!最後めっちゃ速いじゃん!」
「はーい時間ぎれーナマエがくれないなら自分からもらいまーす」

クダリ兄さんは立ち上がってキッチンに足を向けた。そこでようやく私ははっと気づく。渡すものって、スクールからのとかじゃなく…!

「ちょ、ちょっと待って兄さん!夕食作るからあっちでおとなしく待ってて!」
「ナマエちょっと重くなった?」
「うるさい!馬鹿!」

腕にまとわりつく私に構わず兄さんは私を引きずりながらキッチンに入った。まるで知っているようにまっすぐ一直線に戸棚を開けて…


「ふふ、今日の晩ご飯はとってもあまぁい匂いがするんだね?」


最終手段だと目を隠しにかかった私の手を片手であっさり両方まとめて、クダリ兄さんは戸棚からデコレーション途中の小さめのチョコレートケーキを取り出した。
ばっちり目を合わせてきて、うっすら細めて。

…ひどい。それは、疲れて帰ってきた二人に、ほんのちょっとだけサプライズしようと思って、せっかく昨日から買い物して準備して。今日もスクールの友達からの誘いを断って急いで家に帰って作ったのに。…台無しだ。兄さんのせいで。…もう知らない。知らない!


「それ、スクールの人にあげるやつだからやめて」


乱暴に手を振りほどいて、チョコレートケーキの乗った皿を取り上げた。キッと兄さんを睨む。
あげる人なんて、あげたい人なんていない。それにケーキなんて繊細なお菓子、スクールには持っていけない。そもそも誰かにあげるにしたって、バレンタインデーは今日だ。明日あげるのはかなり不自然だろう。…こうなったら全部自分で食べてやる。
兄さんは一瞬呆然と驚いた表情をして、それからさらさらと砂が床に落ちていくように、目から、口から、表情が消えていった。「ふうん?」と兄さんは呟いた。

「あげる人、いるんだぁ」
「…いるよ」
「明日はバレンタインじゃないけど?」
「そんなの関係ないもん」
「…どんな人?」
「……クダリ兄さんより、優しいひ、とっ」
「ナマエ」

クダリ兄さんは隙をついてケーキを私の手から取り返した。それを調理台の上に置いて、温度のない目で私を見下ろす。

「ナマエ、嘘は三回までしか許されないよ」
「うっ嘘じゃないもん!」
「ナマエ、嘘吐くとき下唇舐める」
「嘘っ」
「うん、嘘」

でも、ナマエは四回嘘吐いちゃったね

反射的に下唇に触れたけど、私にそんな癖はなかったみたいで、まんまとクダリ兄さんに一杯くわされた。急にいつもよりずっと強い力で腕を掴まれてぐいぐい引っ張られる。

「いたっいたい兄さんやめて!」
「だめ。僕今からナマエにお説教する」

またソファへと逆戻り。ぼすんと乱暴にソファに座らされて、目の前にはクダリ兄さんが仁王立ちする。


「…ね、もっかい聞くよ?あれ、誰にあげるんだったの?」
「すっ、スクールの人って言った!」
「だから、誰?」
「なんで兄さんに言わなきゃいけないの!」
「だってナマエ嘘ついてる」

スクールに持ってくんだったらわざわざケーキなんかつくんないもんね?ぐちゃぐちゃになっちゃうもん。それに普通今日持っていって渡すでしょ?あ、もしかしてこれからどっかで会って渡すつもりだったの?

「そんなのダメだよ」

こんなに遅い時間になってナマエを外に一人でなんて、危なくて行かせられないからね。どうしても行くって言うんだったら僕も一緒に行くけど。でもナマエが昨日からずっと一生懸命準備して作ったこのケーキはあげられないかな。だってそしたら僕、その人に何しちゃうかわかんないもん。

「ナマエから、お兄ちゃんにちゃんと教えてほしいなぁ」

ね、誰にあげるの?



  …にいさん、」



クダリ兄さんはひどく嬉しそうに顔をほころばせて、私をぎゅうぎゅうソファに押しつけた。
『ノボリには内緒だよ』なんて、まぶたと頬にご褒美のキスを落とす。ちゅ、ちゅ、という可愛らしいリップ音に少し満たされたような気持ちになる私は、やっぱりこの人の妹でしかないのだと思った。


¶2013.バレンタイン企画「シスコンクダリ兄さん」
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