甘やかされるよりも、甘やかす方が好き。鬼ごっこにも少し似ているかもしれない。私はいつだって進んで手を挙げて鬼になった。追いかけられるのは、怖い。それは私の干渉し得ない範囲の意思で行われるから。いつ追いかけるのもいつ追いかけるのをやめるのも、全ては彼の一存なのだ。一度心を許してしまえば、私の手の届かないところで、それは終わってしまうかもしれなかった。
その点甘やかすのはいい。ただ追いかけるのと同じ。私は思う存分、追いかけて、ココアみたいな甘い言葉を振りかけてあげればいい。
それに、彼はまた甘え上手なのだ。甘やかす人を無意識にしろ喜ばせる方法を知っている。私に依存していると、思わせてくれる。もっとも私の方が彼に依存して溺れきっているなんて、私自身が一番わかっているのだけれど。
◇
「ナマエー」
「…クダリ、おいで」
ソファに座って雑誌を読んでいると、隣に座ってきたクダリが私の肩に頭をもたげてきた。
雑誌を閉じてサイドテーブルに置く。
「どうしたの?」
「んー」
すりすりと首筋に鼻先を寄せる。こそばゆいけど、それすらも愛おしい。優しく頭を撫でた。
今日はクダリの部屋に来ていた。仕事帰りにそのまま。昼間に『今日はお家に来れる?』なんてライブキャスターで呼び出されたのだ。
いつものように、もらった合い鍵を使ってドアを開けようとすると、ひとりでにドアが開き満面の笑みを浮かべたクダリに出迎えられた。ベージュのブイネックにジーンズ。珍しい。普段なら私がクダリが帰ってくるのを待つ方なのに。私がここのところ年末年始で仕事が忙しく、今日も帰りが遅かったのもあってか、クダリはすでに帰宅していた。
家の中に通されて、座ってて!と半ば強引にソファに座らされてから10分ほど経った。
「ぎゅー」
「ふふ、どうした?疲れちゃった?」
「…それは、ナマエでしょ」
今日はいつにも増してひっついてくるな、と思った。もちろん嬉しいのだけど、少し不安になる。それが何の前触れもなく突然ならなおさら。どうしたのかな?
思ったことをそのまま口に出せば、にわかに批判めいた声色になってクダリは私から離れた。訳がわからなくて首を傾げる。私?
「…ナマエ、忙しくてもたくさんぎゅーってしてくれるし、僕が頼めば疲れてたって来て何でもしてくれる。…でも、僕だって、僕だってナマエのために何でもしたいもん」
「…私、疲れてないよ?」
事実だった。確かに仕事は忙しいし嫌なことだってたくさんある。遅くまで酷使した身体や頭は、クダリに会う直前までは必死に休養を求める信号を出している、かもしれない。
でも、クダリと会えばそれだって全て忘れてしまえた。私には、クダリ以上に優先する事項なんてなにもないように思われた。
「嘘」
「嘘じゃないよ」
「嘘だもん」
とん、と軽い衝撃が走って、脳が揺れるような感覚におちいった。何が起きたのか理解するよりも早く、身体の側面が柔らかいものに沈んだ。それがソファだと気づいてもやはり、何が起きたのか、頭はきちんと働かない。
「普通の人は、こんなに軽く押されたくらいじゃ倒れない」
「え?」
「ナマエが寝てないのくらい、わかる。馬鹿にしないで」
クダリの声はいよいよ怒気を孕んでいた。それに反射的にびくりと肩が震える。
「ナマエは何にもわかってない」
身体を捩って天井を仰ぎ見ると、表情の読めないクダリが私を見下ろしていた。
徐に手が伸びてきて、思わず首が竦む。
「…怖い?」
「っ…」
その手は一瞬空中をさまよって、躊躇いがちに私の頭に落とされた。くしゃりと撫でられる。
「ねえ、僕、ちゃんとナマエのこと好きだよ」
「……」
「伝わってないみたいだけど」
クダリはうっそりと目を細めて、私の頭を優しく撫で続けた。そんな表情、知らない。
手は次第に後頭部へ。もう片方の手は腰の下に潜り込んできて、私は身動きを取れないうちに、上体を起こされた。
「ん、ふ」
「ぅ、んぅ」
小さい子供のようにクダリの膝に向かい合わせに座らされて、啄むようなキスを繰り返される。
普段は私からするはずのそれを何度も何度も。大きくて少し骨ばった手は相変わらずひどく優しく私の頭を撫でた。思考がうまくまとまらない。
「僕、そんなに頼りない?」
「ふ、ぇ」
「もっと甘えて欲しいなぁ」
キスの合間にぱっちりと目を合わせて言う。
「ナマエが欲しいって言ったら何でもあげるのに」
「っでも、」
「不安?知ってるよ、ナマエが怖がりなのも」
クダリはまた唇を合わせた。今度はなかなか離れる気配がない。さらに唇の隙間を舌でなぞって入ってこようとした。私はぎゅっと力を入れてそれを阻止しようとするのだけど、息が苦しくなってきた頃合いを見計らって脇腹をなぞられてあっさり陥落した。
どのくらい経ったのか、かなり長かった気がする。頭は息苦しさに、無視しきれない生理的な疲れもあいまってか、ぼうっとしてしまっていた。
「かわいい。好き」
「う…」
「ナマエは?」
「……」
顔なんて見れなかった。ただクダリの鎖骨あたりに目を泳がせた。怖い。与えられるものを受け取って慣れ親しんでしまえば、それがなくなったときに私が耐えられないことなんてわかりきっていた。
「…今日はねー、ご飯も作ったんだよ!ナマエのためだけに。ねえ、でもまだだめだね」
胃のあたりに浮遊感を感じて、フローリングが遠くなった。目の前には銀灰の髪の毛と首筋。クダリは私を膝に座らせた状態からそのまま抱えて立ち上がったようだった。小さい子を抱っこするみたいに。
「く、クダリ」
「大丈夫!」
怖いなんて間違っても思わないくらい、たくさん愛してあげるからね!
「とりあえずお風呂に出発進行ー!」
私はもがくこともままならずに、そのままバスルームへ放り込まれたのでした。
◇
「きもちいねーナマエ」
「……」
返事は返ってこなかった。僕の足の間に抱き込むように座らせているのだから、顔も伺えない。逃げないように回した手でゆるりとお腹を撫でるとぴくりと身体を動かした。その振動が僕にも伝わってくる。かわいいなぁ。
ナマエの耳の後ろが真っ赤になってるのを見つけて、それがお風呂の熱さのせいなのかそれとも僕のせいなのか、わからなかったけどそれでも気をよくした僕は熟れたそこを軽くはんだ。
「んっ…」
今度こそはっきりと肩が揺れた。声は我慢してるのか、始めのかわいい喘ぎ以外は聞こえてこなかった。
ナマエのことは大抵わかると自負している。身長、体重、スリーサイズ。ほくろの位置なんて、本人も把握してないんじゃないかな。それに大切なこと。ナマエは自分に自信がなくて、とっても臆病な子だってこと。ナマエは僕に何でも与えたがったけど、何か欲しがったりは絶対しなかった。一度僕から与えられて、そうして僕がいつかナマエにそれをあげなくなることを怖がってた。気が大きい、お姉さんを振る舞っていた。だから僕はそれに乗った。ナマエは僕のこと、大好き。自惚れでもなんでもなくて。僕もナマエが大好き。だからナマエが僕にくれるものも進んで受け取る。
ただ、一つ問題があるとするならば。
彼女が僕らの関係を、どちらかが与えるのをやめることで一方的に断ち切れるような薄弱なものだと認識していることだった。もし、ナマエが僕に飽きて与えるのをやめたら?彼女はこの関係に終止符を打とうとするだろうか?
まあ、そんなこと、させないんだけどね。
「…うん、洗ってあげる!」
「?!」
一通り両方の耳で遊んでナマエがぷるぷる震えだした頃に、ざぱー、と音を立てながら立ち上がった。ナマエを抱えて。
「いい!いい、自分でする!」
「やっとしゃべったー」
無視して無理やり逃げるナマエの頭でシャンプーを泡立てたら、諦めたのか大人しく僕に委ねた。細い髪の毛に丁寧に指を通す。あ、少し気持ちよさそう。そうそう、これから長いんだから、諦めて黙って受け取った方がいいよ。心の中で小さく呟いた。
僕はナマエよりずっと怖がりだ。そしてもう手遅れなほどすっかり溺れてしまっている。
だから。ナマエも沈めてしまえばいい。窒息、してよ。水の中でしか息ができないようにしてあげるから。そうして深いところで、二人きりでキスをしようね。
¶紡木様・170000hit「仕事で疲れた主を癒すクダリさん・甘」