「寒…」
呟いた声は、耳が痛くなる程静まり返ったホームの冷たい空気に溶けていった。雪が降っている。らしい。地下鉄の駅の構内では今の天気を知ることもままならない。たったいま私の座るベンチから数メートル離れたところに立ち止まったおじさんの肩には薄く白い雪が積もっていた。
ふう、と吐いた息はもやもやと白いかたまりになっては消えていく。身体に残った疲れも心に残ったわだかまりも、白くなってかたまって消えていってくれればなあ、と思う。
いつもだったら、こんなに感傷的にもならないのに。粛々と、淡々と。毎日を乗り過ごしていけるのに。
いつからだったか、こんなにも毎日に色がなくなってしまったのは。仕事、上司、責任。幸せになっていく友達。
小さい頃は大人はなんでもできると信じてやまなかった。早く大人になりたかった。
私は憧れた大人になったのだろうか。
頑張っても頑張っても足は空を蹴るばかりでちっとも前に進めやしない。
電車はまだ着きそうになかった。
「コーヒー、飲む?」
「え?」
自分のつま先を見るともなく見ていると、突然声をかけられた。驚いて顔をあげれば、隣にはアッシュのコートを着た男の人が座っていた。全然気づかなかった。
「あ、あの」
「ココアがよかった?」
「いえ、」
「よかったー!僕、コーヒー飲めない。はい、どうぞ」
「あう、ありがとう、ございます」
勢いに負けておずおずと差し出された缶を受け取る。冷え切った指先には熱いほどの温度に、ほんの少し、じんわりとした。
「…心配しちゃった」
「?」
「落としもの、しそうだったから」
男の人の長い指が伸びてきて、私の目の下をかすめた。
その指先に乗った水滴に、この人が言わんとしていることに気づく。
恥ずかしい。慌てて目をこすると、隣から腕が伸びてきてそれを阻んだ。
「赤くなっちゃう」
「う…」
そのままその人の手は私の頭をぽんぽんと撫でた。見知らぬ人にこんなことをされて、恥ずかしくて仕方ないのだけれど、ぽんぽん、そのリズムが妙に心地よくて、不平はお腹に落ちていった。
「コーヒー飲めるなんて、すごいね。僕、苦くて飲めない」
「…すごくないですよ」
「ううん。すっごく大人」
大人。
コーヒーを飲むようになったのはいつからだったっけ。初めて飲んだとき、苦くて酸っぱくて、泥水みたいだなんて思ったのを今でも覚えている。
今もそんなに好きってわけじゃない。缶コーヒーしか飲まないし、それも仕事中か眠いときだけ。
私がコーヒーを飲むのは、周りの大人が飲んでいるからだ。
「大人じゃ、ないです」
「どうして?」
「今日も仕事でミスをしました」
「うん」
「すごく、怒られました」
「うん」
「男の人と付き合ったこと、ないし」
「うん」
「今、泣いてます」
「そうだね」
「私、かっこわるいです」
私はなんてことを喋っているんだろう。冷静にそんなことを考える心の中とは反対に、止まることのない頭を撫でる手に促されるようにしてぽろぽろと弱音が口からこぼれていった。口から出てしまった言葉も、頬に落ちていった雫も、すくいあげて元に戻すことはできない。
「ごめんなさい…」
「?きみ、悪いことしてない」
「でも…」
「あのね、僕も今日仕事、失敗しちゃった」
「え?」
「書類に不備がある、って。真面目にやれって怒られちゃった」
僕すっごい真面目!本気で頑張った!!
そのことを思い出したのか、男の人はむー!と口を尖らせた。
「でもね、」
にっこり笑顔をこちらに向ける。コロコロ表情の変わる、せわしない人だな。
「僕、もっと真面目にやればできるって思われてる。何か足りないこと、補えばちゃんとできるって。でないと怒ったり、僕に仕事させたりしない」
「…」
「それってきっと、怒られないよりも素敵なこと」
いっぱい期待されていっぱい怒られるのもつらいけどね
向けられた笑顔は苦笑に変わった。
「君は、毎日お仕事頑張ってる、ちゃんと大人だよ」
もう限界だった。この人が初対面だなんてもう知らない。昔からこの人を知っていたような、そんな気さえする。私の涙の堰は無惨に決壊した。声は必死に押し殺して、私はぼろぼろ泣いた。時折漏れる嗚咽に、立っているおじさんが訝しげにこちらを見ていた。それも、知らない。隣のその人は、やっぱりぽんぽん私の頭を撫でた。
「大人も泣くよ」
「うっえぅ」
「それにね、大人も彼女いない人、いっぱいいる」
例えば僕とかね!
ふわりといたずらっこみたいに微笑むその顔に、心底ずるいと思った。傷心につけいるようなこと、無意識にやっているのだろうか。
「あなたは子供みたいですね」
「あー!ひどい!僕大人だもん!」
「でもコーヒーは飲めない」
「う…頑張れば一口は」
ようやく涙は止まった。頭を撫でる手も止まって、それを少し惜しいと思った。その手は親指で私の目の下をぐい、と拭って去っていった。目が合って思わずくすくすと笑い合う。
「あの、名前、教えていただけませんか」
「ん、僕クダリ!君は?」
「ナマエです」
「ナマエ」
「クダリさん、私、実はコーヒー苦手です」
「あはは!何それ!ナマエ見栄っ張りー」
「の、飲めますけどね!」
「ふふ、僕のココアはんぶんこしよ」
もう大分軽くなった缶を手渡される。恐る恐る、一口含んだ。甘い味。けれどもどうしようもなくかっこいい彼は、私が憧れた大人に間違いない。
電車がやってきた。「この電車だよね」「終電ですからね」私の手を引くクダリさんとガラガラの電車に乗り込んだ。色鮮やかなこの世界なら、もう少し大人になれそうだ。繋がれた手を少し強く握った。