main | ナノ
「あれ、ナマエ来てたんですか?」
「来てた来てた。上がってるよ、お邪魔してまーす」
「はいはい」


部屋のどの位置からでも玄関が見える狭い1Kのアパートをノボリは借りていた。もう少しいい部屋を借りることなんてノボリにとっては何でもないことだと思うけど、彼は必要以上のものというのにとことん執着がなかった。よくも悪くも。人が一人二人起きて寝るだけの部屋に、ノボリはどうやら六畳以上のスペースは必要ないと感じているようだった。


「何のお構いもできませんが」
「いつものことじゃん」
「わたくしもいささかあなたを気にかけるだけの心は備えておりますので」
「お心遣い痛み入ります」


ノボリは真っ直ぐに窓際に置いてある大きめの机に向かう。机と本棚が多くの場所を占めているこの部屋では、二人が寝泊まりすることは実質不可能と言っていい。まあ、そう言っていつも泊まるのだけど。文字通り、重なり合って寝るしかないのである。


よく言えば、憎まれ口も叩ける気の置けない仲。悪く言えば  考えたくもない。付き合ってから段々と理解していったのだが、彼には確かに申し訳程度の気遣いは備わっているものの、その対象はほとんど友人以下の人なのだ。ノボリの生活に干渉すればするほど、彼はそれに頓着しなくなる。なかなかに皮肉である。多くの時間を過ごすにつれて、より彼が冷たく感じるのだから。
それが喜ばしいことなのかはよくわからない。少なくとも私は、手放しでは喜べないというのが本音なのだった。


「なかなか終わらないねぇ」
「そう簡単に終わるものでもありませんから」


ここ何週間か、彼が特に忙しくしているのは、論文を書いているからだった。こと勉学に関してはノボリは真面目を人の型に流し込んで固めたような男だ。ゼミだか教授に提出するだか、私にはよくわからない。口出しする気もないし、できない。

ただ一つ言えるのは、私もこの関係に慣れ始めたということである。私の自惚れでなければ、ノボリは私を、私との関係を気に入っているようだった。自分から別れを切り出さない程度には。

パソコンに向かって作業をしているノボリの背中を見つめた。時々手元の資料にさっと書き込んだりしている。

わがままを言っていいのなら  来る者には躊躇って欲しいし、去る者は見かけだけでも追って欲しい。ただ、こういう類のお願いが、一番鬱陶しいのだということを私は心得ていた。“来る者拒まず去る者追わず”という自分の基本的なスタンスに無自覚なノボリにとって。
追われないどころか追い出されるのではないかとすら私は危惧していたのだ。ノボリに干渉するうちに、知らぬ間に同じだけ私の生活にノボリが染み込んでいたことに、少なからず私はおののいた。

私は、どうしようもなくノボリが好きなのだ。ノボリと過ごす時間が好きだし、一緒にいたいと思う。彼の無愛想や無頓着を差し引いたとしても。

かたかたとタイピングの音が響く。…離れるよりだったら慣れた方がましだと、本気で思っていた。いつかこの音さえも心地よく感じるようになったなら、もうこっちのものだ。


「暇なのですか?」
「まあねー」
「では少々いいですか」


振り返ることなくノボリは言った。見つめられていることに気づいたのだろうか。
立ち上がって、狭い部屋では元々大してない距離をさらに詰める。覗き込んだパソコンのモニタには細かい字が羅列していた。ノボリは私に持っていた書類を手渡した。何かのデータの上に、時折整った字で訂正が入っている。


「上から順に…そう、ここです。一列ごと。読んでいただいても?」
「はーい」


座るノボリの隣に立ち、少しかがんでノボリ側の髪を耳にかけた。ゆっくり、読み上げる文字を、ノボリは淡々とタイプする。カーテンを通して窓から暖かな西日がさした。







「おかえりー」


アパートへ戻りドアを開けたわたくしを迎え入れたのは、間の抜けた声とほんのり甘い香りでした。ナマエはのんびりと、足を折りたためる簡易式のテーブルに肘をつき、文庫本を開いておりました。
ナマエは時折こうしてわたくしのアパートに来ては、何かと片付けなどして、一晩泊まって帰って行くのでした。
片付けなど自分でできますし、してもらっていることに多少なりとも申し訳なくは感じているのですが、それが彼女がここに来る理由なのではないかと思うと、自ら片付けようなどという気にはなりませんでした。掃除も食事もそこそこに、ほんの少しだらしない生活を送っていれば、ナマエはアパートを訪れて、呆れとちょっとした心配の言葉をかけてくれるのでした。

ナマエは不思議な女性でした。彼女は何かしたいだとか、こうしろああしろなどということを、ほとんどわたくしに言いませんでした。わたくしとて、多少なり甲斐性は持ち合わせているのですが。彼女が広い部屋に引っ越せと言うのなら、その気もないではなかったのです。(ただ、彼女とより近くに居られるこの部屋が気に入ってはおりますが)
彼女の口から出てくるのは、軽口や冗談、ほんの少し暖かな慈しみの言葉ばかりでした。

いつの間にかそんな彼女は自然わたくしの日常にすっかり溶け込んでしまいました。特別なことをしていなくても、ナマエといるだけの時間がどこか、心地いいものだと感じてさえおりました。そしてわたくしの自惚れでなければ、ナマエもそう感じているはずでございます。自らわたくしの元に足を運ぶ程度には。

ただ、どうしようもなく不安に思うこともあるのです。ナマエはわたくしに対しておよそ執着というものを見せませんでした。嫉妬心だとか悋気だとか、そういうものを彼女はわたくしには抱いていないようでした。わたくしが誰と話そうと何をしようと、特に気にしている風ではなく  そうしていつか、彼女は突然わたくしの前からいなくなってしまうのではないか。
そういうときは決まって自分の愛想のない顔と言葉を恨みました。ナマエを引き留めるだけの術を、わたくしは持ってはいないのです。初心な娘のように、どうしようもない不安と焦りに戦慄くしかないのです。


データを打ち込んでいるとふと、妙にしんと静まり返った部屋に、まさにわたくしはその不安に絡め取られました。今振り返った先に、ナマエがいなかったら  
自らの恐ろしい予想を、わたくしは自らの内で消化し払拭することができませんでした。文字を打ち込む指は完全に止まり、思考は海の底に沈んだように重くなりました。振り返ることができない。怖いのです  


「暇なのですか?」
「まあねー」


独り言のように掠れる声で呟いた言葉には、すぐに返事が返ってきました。ああ!安堵の息が漏れるのを耐え、ナマエを呼び寄せる。
真剣にモニタを見るナマエの横顔を見ていれば、不安という不安はすべて、もとからなかったかのように溶けて消えていくのでした。







目を覚ませば、西日は入りきってしまったのか部屋は薄暗く、机の上で誰も見ていない書類を照らすスタンドライトのぼんやりとした光だけが頼りだった。ノボリの手伝いを終えた後、どうやら寝てしまったらしい。
上半身を預けていたテーブルから体を起こすと、さらりと肌触りのいいブランケットが肩から落ちていった。


「ノボリ…?」


名前を呼んでも反応はなかった。申し訳ないことをしてしまったと罪悪感を感じる反面、珍しいものが見られたとどこか浮き立つ気持ちもあった。
ノボリはテーブルに伏せて、顔だけこちら側に向けて寝ていた。狭いテーブルに肩を寄せるようにして、同じブランケットにくるまって寝ていたのだろう。テーブルを避けないと布団をしけないから仕方なくそうしたのかもしれないけれど、私を起こさなかった優しさに、少し胸が暖かくなった。

またブランケットをかけ直して、さっきと同じようにテーブルに伏せた。ノボリの顔は影になっていて表情はよくわからない。
起きていないことを何度も確認してから、額と唇に軽くキスをして、再び目を閉じた。







「ありがとうございます」
「いえいえ、読むだけならいくらでも」


データを全て読み上げ終えたナマエは書類を机の上に置いて一度そっとわたくしの額に手を触れると、また座って本を読み始めました。


「…えっと、ごめん、邪魔なら帰るけど」
「ああ、いえ、いてくださいまし」


作業を再開しないわたくしを不審に思ったのか、ナマエは本から視線を上げて眉尻を下げました。すぐにパソコンに向かい、文章を打ち込みます。データが全て入ったので、今日はもうそろそろやめましょう。



「ナマエ、終わりました…」


窓からのオレンジ色の光も次第に弱まり、夜の帳が降り始めたところでわたくしはノートパソコンを閉じました。今度は躊躇いなく振り返って告げるも、言葉は尻すぼみになって消えていきました。


「ナマエ…?」


ナマエはうつ伏せにテーブルに伏せて、すうすうと静かに寝息を立てておりました。声をかけても反応はなく、ぐっすりと眠っている様子。何やら少し微笑ましい気持ちになりながら、ナマエがしっかりと握る文庫本をそっと取り、しおりを挟んで本棚に置きました。ブランケットを広げて肩に掛けると「ん…」とうめき声をあげましたが、起きはしなかったようです。


「…さて、」


いかんせん、この部屋でできることは限られています。布団を敷くこともできませんし…いっそもう少し作業を続けましょうか。小腹を満たそうとなんとなしに冷蔵庫を開けました。


「…おや?」


見慣れないバットが冷蔵庫の上段を占めておりました。わたくしはあまり本格的には料理をしないのですが、バットは持っていたでしょうか?
引かれるように手を伸ばす。


「!」


小ぶりのバットには、滑らかな地面が広がっておりました。そこでようやく、今日の日付と部屋の甘い香りが繋がったのでした。


(生チョコ、ですか)


一切れならいいかと手を延ばしかけましたが、起きたナマエがどんな表情でわたくしにこれを渡すのかに思いを馳せ、静かに冷蔵庫へとバットを戻しました。

ナマエの隣に腰掛けて、柔らかな髪を撫でる。ホワイトデーには…いえ、明日にでも、彼女をディナーに誘いましょう。普段は言えないとっておきの言葉を持って。
ナマエの頬にキスを落とせば、快い眠気がわたくしを包みました。


¶2013.バレンタイン企画「不器用大学生ノボリ」
第4回BLove小説・漫画コンテスト応募作品募集中!
テーマ「推しとの恋」
- ナノ -