「ただいま戻りました」
そう言えば、ぱたぱたと駆けてくる音と出迎えの言葉
「おかえりなさいませ、ノボリさん」
そう言って手を出してわたくしの鞄とコートを受け取る。
わたくしが差し上げたエプロン姿
ああ、なんて愛くるしいのでしょう!
「お疲れ様です。ご飯にしますか、それとも先にお風呂に入られますか」
テンプレート通りの文句に、口角が上がるのがわかります。彼女は毎日、律儀にそう聞くのでした。
『縛られて生きてくださいまし』
その言葉をどう受け取ったのか、ナマエは完璧に家事をこなしました。ともすればメイドのように、健気にわたくしの生活をサポートしました。
おそらく言葉通り、わたくしと契約でも結んだつもりなのでしょう。
ああ、貴女はこう思っているのかもしれませんね。
私は父のために犠牲になったのだ、と
ナマエ、わたくしの愛しいナマエ
素直で純で実直で、目を見張るほど馬鹿な子
鞄とコートを持ったままのナマエをそのまま抱きすくめました。
「言ってはくださらないのですか?」
「っノボリさん」
「お願いいたします」
「……それとも、」
「はい」
「それとも私にいたしますか……?」
わたくしが『お願い』すれば、彼女はこうしてささいな抵抗でさえも解いてくださるのです。教えたとおりに、棒読みながらも顔を赤くして台詞を吐き出す彼女を、いっそう強く抱きしめました。
◇
社長令嬢、なんて言葉は大仰だと、あの日ナマエは困ったように笑っておりました。
美しい深青のドレスを身に纏い、それに見合う洗練された身のこなしを見せる彼女は、パーティーでも一際目を引いておりました。確かにその呼び名に恥じぬ上品な立ち振る舞いでいながら、彼女は終始居心地が悪そうにしておりました。
「ナマエさんの父上にはいつもお世話になっていますよ」
「それは…ありがとうございます。何卒よろしくお願いします」
彼女はスーツ姿の若い男に笑顔で受け答えしていました。
わたくしも一応鉄道会社の代表として参加したパーティーでした。次々と挨拶にくる方々に返事をしつつ、わたくしはなんとなしに初めて見る彼女を観察していました。目を引かれたのです。
凛としたその佇まい、矜持を胸に秘めたその瞳
父親の付き添いで来たのでしょう。彼女自身が動かなくても、入れ替わり立ち替わり彼女のもとには挨拶が訪れます。
恐らく次期社長、といった年齢
跡取り、副社長、そんなところでしょう。
彼女から会社に取り入ろうとしているのか、それとも
「飲み物でもいかがですか?」
「まあ、ありがとうございます。でも、先ほどからいただいているので、お構いなく」
彼女に取り入ろうとしているのか
まあ後者でしょうね。
くい、とワインを煽ると、隣に歩み寄ってきた恰幅のいい、気の優しそうな男性が穏やかな口調で言いました。
「娘です」
「?」
「見ておられましたでしょう?」
「これは…失礼いたしました」
「いえいえ、とんでもない。今日は初めて社交場に連れてきたのです。嫌がるもので」
苦笑する男性はその穏やかな瞳で娘を見やりました。
「娘ともどもぜひよろしくお願いします」
「はあ」
「…早く身を固めてくれるといいんですが」
あんなにも彼女が居心地悪げな理由が、そのときわかったのでした。
「まだ結婚はしたくないとわがままな娘でしてね」
「お若いですからね」
「ええ、自分で働いて稼いで生活していくからなどと、わけのわからないことを」
「そうでしたか」
「カフェに勤めているらしいのです。もっと他にやることがあるというのに」
「…」
なんと言えばいいのかわからず、思わず閉口いたしました。わたくし自身は別段普通の家庭で育ってきましたから、そういった良家の風習に終ぞ理解はなかったのです。
「ノボリさんが相手であれば、安心なんですが」
とうとうここでわたくしはおぞましささえ感じました。あの娘は自分の知らぬところでこうして自分を売り込まれているのだ。
そして同時に、わたくしはあることに気づいたのです。
わたくしが彼女に目を引かれたのは、彼女のその美しさからだけではないと。
そのような境遇に生まれ、このような場所に引き込まれてなお、尊厳を捨てずに生きていこうとする彼女のご立派な矜持をズタズタに引き裂いたとき、凛とした光をわたくしが奪い去ったとき、彼女はわたくしにどのような顔を見せてくれるのか
気になったのでございます。
それからの行動は自分でも惚れ惚れするほどにすばやいものでした。まずは足がつかないように、方々に手を回しました。
理由をつけて、あの会社の受注を断るようにと
わたくしの顔もなかなかに広いもので、一つの会社を追い詰めるのにそう時間はかかりませんでした。
その間に、ナマエの働くカフェ、交友関係、生い立ち、一通りを洗いました。そうしてナマエのかけらを拾い集めるうちに、彼女への劣情は都合よく募っていきました。
ああ、優しく、強く、教養ある愛しい彼女 その全てが、わたくしの手に落ちるのだ!
それとなしに持ちかけた見合い話を、彼は二つ返事で承諾しました。
願ってもない話でしたでしょうね。あまりにうまくことが運びすぎてわたくし些か不安になったほどです。
「 縛られて生きてくださいまし」
彼女はわたくしの腕の中でびくりと肩を揺らしました。やっと見ることができるのです。
わたくしが、焦がれた、
尊厳を踏みにじられた貴女を!
「貴女のお父様をお助けしたいのです」
「ぅ…」
「もちろん貴女も」
大切にいたします
…こくりと頷いた彼女の顔?それは、お教えできません
*
棒読みで呟くように台詞を告げたナマエ
真っ赤な顔は、あのときと同じ
上がりきった口角を隠すことなく、幸せを噛み締めながら言いました。
「では、貴女をいただきます」
自己満足の自己犠牲
ねえ、満足ですね、ナマエ