「そんな年収じゃ私となんて釣り合わないわ」
なるべく、冷たい声音で、表情で。
声が震えてはいなかっただろうか。
思ってもいないことを口にするたびに、私の心は削られていく。
「私、社長令嬢なのよ?馬鹿にしているとしか思えないわ」
ああ、また一つ、割れて落ちていく。
泣きだしたくて仕方なかった。でも、泣くことなんて許されないのだ。泣いて済まそうなんて、そんな甘い考えは捨てなければならない。
「申し訳、ございません」
感情の抜け落ちた表情で彼は言った。
謝らないでください。心の中で必死に並べる彼への謝罪の言葉はしかし、絶対に彼に悟られてはいけない。私に唯一できる罪滅ぼしは、この縁談を白紙に戻すことだけだ。
崩れかけた会社の社長の年収なんて、たかが知れている。会社を立て直すためなら、娘を差し出す社長の会社だ。ノボリさんの年収は、聞いたときに驚かないようにふるまうのが大変だったくらいの額だった。
お父さんのことを悪く言うつもりはない。自分で作った会社を守るためには娘に何も知らせずに縁談を進めることも仕方のない選択だったのだろう。私も、大切なお父さんが大事にしているそんな会社を助けるためなら、できる限りの協力はしたいと思っている。
でも、それと他人を巻き込むのとは話が別だ。
ノボリさんは、こんな会社にも女にも、縛られていい人じゃない。私は、ノボリさんにふさわしくない。
「謝ってもお金は出てこないわ。本当に、失礼な人ね」
私は今日、初めてこの人に会った。
今日、初めて婚約者のことを知らされた。
誰も同席していないこの席は、どうやらもう決まったことだと私に暗に言い聞かせるためのものらしい。
ノボリさんは当然のことだけど、しばらく前からこの話を聞かされていたようだった。
そして、私との婚約を承諾したと。
見ず知らずの女と結婚するなんて、にわかには信じがたい思考回路だけど、誠実で、勤勉で、そんなこの人のことだから、この話を断ることだってできなかったのだろう。
そう、誠実で、勤勉で…とても、素敵な人。
できるだけ、罪悪感や気後れを彼に残さないように、私からこの話をなかったことにしなければ。この人は一生を、襟首を引っ張られながら生きることになるのだ。
ノボリさんは視線を落とし、小さくため息をついた。
私の思惑は、どうやら成功したらしい。
「このお話は、なかったことにさせていただきます」
それでいいでしょう?
そう言い放ち、私は立ち上がって彼の顔を見ないようにふすまにに手を掛けた。
どうか、幸せになってください
「で?」
力を入れても、ふすまは開かなかった。
私の手に重ねられた大きな手は、やんわりと、でも力強くドアを空けるのを阻んでいる。
「な…何ですか」
ふすまに影がかかって、すぐ後ろに呼吸を感じる。
どんな表情をしているの?どうして、そんなことをするの
とても、後ろなんて見られそうにない。
「やめてください」
「嫌です」
「なっ」
「いつになったらその三文芝居は終わるのですか」
耳元に口を寄せられて囁くようにはかれた言葉に、文字通り心臓が飛び出るほど激しく鼓動を刻み始める。
嘘、なに?どういうこと、どうしよう、どうしたら、いいの
「ナマエ様?」
嫌だ、やめて、名前を呼ばないで。
頭が、真っ白になる。
「ナマエ様」
反対側の手も温かい手に包まれて、私を包み込むような格好になった。
背中にじわじわと体温を感じて、私の焦りも比例するように高まっていく。
「や…めて、ください」
かろうじて絞り出した声は、自分でも笑ってしまうほどか弱いものだった。首元でくつりと耐えるような笑みを漏らしているのが聞こえる。
「本当に、お可愛らしい方ですね」
何を言っているのか、理解できない。理解、したくない。
「会社を立て直すためだけの、いわば政略結婚に、わたくしを巻き込むわけにはいかない。後腐れのないように、破談にしなければ…ですか」
意図せずびくりと揺れた肩が、多分に返事をしてしまったのを感じた。
「あなたの考えていることが、わからないとでもお思いですか?」
包まれていた手がほどかれたかと思うと、いよいよ完全に抱きしめられる格好になった。首筋に鼻をうずめられる。
「ふふ…ナマエさま…」
父親の会社の恩人に、一生負い目を感じ、縛られて生きてくださいまし
The
self-satisfied
self-sacrifice