「あ、おはようございます」
シャッと音をたてて開けた自室のカーテン
ナマエ様との出会いは、その窓越しでした
「っす、すみません!」
「いえいえ、こちらこそすみません
お隣さんなのに、はじめましてですね」
「あ、あの…」
「あ、引き留めちゃいましたね、今日もがんばりましょう!では」
窓の奥の部屋の中に消えていってしまった女性
快活な語り口で溌剌とした印象でした
し、しかし、そんなことより…!
「ピンクのチェック…」
名も知らぬ女性の寝間着を見てしまうなんて、事故であっても失礼極まりない!
嫌味っぽくはありますが、私たち兄弟の住む部屋は本来ならば、他人の家の中を覗き見ることができるような、そして他人に覗き見られるような、そんな高さにはありません
ライモンの街並みはほぼ全て見渡せますし(もちろんギアステーションだって見えます!)、ライモンいちの絶景が臨めると名高い観覧車さえ、俯瞰する位置にあるのです
夜になれば、きらびやかなライモンの夜景を自宅の窓からいくらでも楽しむことができるのでした
…わたくしの部屋、以外からは
採光や換気、景観を楽しむ目的で設置されるはずの窓を、どうしてここにつけたのか、甚だ理解に苦しみます
わたくしの寝室の窓からはライモンの街並みを臨むことはおろか日光を採り入れることすら陽が高くなる正午近くでなければ難いのでした
というか、窓を開けることさえ憚られます
目一杯乗り出して腕を伸ばせば届いてしまいそうな向こう側の窓を見やって、ひとつため息をつきました
ツインタワーマンションなんて、見映え以外に何か生産的な目的があるのでしょうか
私たち双子のようにそっくりに建てられたあちら側のもう一棟のマンション
初めて会った地上60階の隣人のパジャマ姿を頭から振り払いながら寝室を後にしました
◇
「おかえりなさい、です」
「た、ただいま戻りました」
家に戻り寝室のドアを開ければ、朝カーテンを開けていった窓からあの女性がこちらに向かって軽く手を振っているのが見えて、慌てて窓を開けました
外は暗く部屋の中は明るいため、朝よりもはっきりと部屋の中まで伺うことができてしまいます
あちらの部屋もこちらと同じように寝室のようでした
「帰り、遅いんですね、お疲れさまです」
「いえ、ありがとうございます」
窓枠に肘をつき話す彼女は、今度はパジャマでなく白いブラウスを着ておりました
「なんとなく、声をお聞きしたくて…すみません、失礼ですよね」
「いえ、大丈夫ですよ」
「よかった!私まだ引っ越して来たばかりで、こっちにお友達がいないんです
また、こうしてお話してもいいですか?」
「は、はい」
「ありがとうございます!あ、そうだ!手、のばしてもらえます?」
「?こう、ですか?」
「はい!危ないから落とさないでくださいね」
「ちょ、わっ」
「あ!そば、食べられます?」
「ええ、あ、ありがとうございます」
有無を言わせないパワフルな方でございます
言われたとおり手を伸ばせば、立派な箱を手渡されました
どうやら中身はそばのようです
引っ越しそば、ということでしょうか
「本当なら調理してから渡すべきなんでしょうけど、私、料理苦手なんです」
苦笑ともとれるはにかみを浮かべて彼女は言いました
「いえ、嬉しいです、ありがとうございます」
「これから、よろしくお願いします!では、おやすみなさい」
ぺこりと頭を下げて彼女が部屋に入ろうとした瞬間、私たちはほとんど同時にあ、と声をあげました
「「お名前聞いてもいいですか?」」
◇
暗黙の了解、というものでしょうか
わたくしとナマエ様は毎日ほぼ同じ時間に起きてカーテンを開け、一言あいさつを交わすようになりました
(彼女自身気にしていないのか毎回寝間着のまま出てこられましたが、変にご指摘するのもなにやら憚られるので、毎朝それを拝むことになりました)
夜は、わたくしの帰る時間が不定期なため毎日お話しする訳ではありませんでしたが、私の部屋の明かりが点くのを合図に彼女が窓を開ける、という算段でした(彼女の部屋の明かりが消えていれば、彼女は寝ているか外出しているということでした)
ナマエ様はいろいろな話をしました
今日は天気がよかったからムーランドと遊園地に行った、とか、初めて食べたヒウンアイスが絶品だった、とか、彼女はいつだってとにかく楽しそうで、1日のほとんどを地下で過ごすわたくしにはそれがひどく眩しく感じられました
このほんの10分ほどが、わたくしにとって欠かせないものになってしまうのにそう時間はかかりませんでした
ただ彼女の仕事がなんであるのかは、彼女は言及しませんでしたしわたくしも敢えて訊ねませんでしたので存じ上げません
(このようなマンションに住むのですからそれほどの仕事ではあるのでしょうけれど)
「おかえりなさい」
「ただいま戻りました」
同じ部屋どころか同じ建物にすらいないのに交わされる奇妙な挨拶
読んでいた文庫本に栞を挟み、ぱたぱたと窓際まで歩いてくるナマエ様に思わず頬が緩みます
わたくしのために待っていてくださったのではないか、と
「今日もお疲れさまです」
「いえ…あの、ナマエ様?」
心なしか声の調子が低く、いつものような覇気のない彼女に緩んだ頬も引き締められました
いつだって元気なナマエ様が
「どうかいたしましたか?何か、お疲れのように見えますが」
「あ、いえ!そんなこと、ありませんよ」
「…ご無理はなさらないでください」
「いえ…いや、ノボリさんには、かないませんね」
眉を下げて困ったように笑った彼女は僅かの逡巡ののち、口を開きました
「仕事で、うまくいかないことがたてこんでて、今日はちょっと怒られちゃいました」
にこり、と力なく笑って続けます
「悩んでることが、仕事にもでちゃったみたいで…だめですね、公私混同なんて」
「…そうでしたか」
「愚痴っぽくなっちゃいましたね、すみません!」
ぱっと彼女がつくった明るい表情はしかし痛々しいものでした
「…恥ずかしながら、わたくし多少、部下を持つ立場なのですが」
彼女はこちらを見て、小さく頷きました
「やる気や見込みがないような部下を叱るようなことはしません
叱ってもどうしようもない人間にはその労力さえ惜しいのです
月並みではございますが、貴女の上司も貴女に大変期待しているのからこその叱責なのだと思いますよ」
「…」
「それに、人の子なのですから、仕事とプライベートを完全に使い分けることなど不可能でございます
仕事の能率を上げるならば、プライベートの悩みを解決しなければ」
彼女は少々驚いたように目を見開きました
「…わたくしは無理をしないように、と言ったはずです
悩みだってわたくしにできることならば、なんでもお手伝いいたしますよ
それとも、わたくしでは、力不足ですか…?」
彼女はいよいよ心底驚いたように口を開けておりました
わたくしはそこではっと我にかえりました
「っと!すみません!つらつらと、失礼いたしました!」
「いえ、謝らないでください」
今度は、にっこりと優しい笑みを浮かべられました
「嬉しいんです、そんな風に親身になってくれる人、いなかったので」
ありがとうございます
そうして挨拶を交わし窓を閉めてベッドに入る
それがちょうど、5日前のことでございます
◇
彼女は朝も夜も、現れなくなりました
やはりあのように諭したのがよくなかったのでしょうか
ただ出かけているだけならいいのですが
カーテンが閉め切られた向こう側を見て一つ、ため息をつきました
「おはようございます、ボス!」
「ええ、おはようございます」
小走りでかけていくカズマサがすれ違いざまに元気よく挨拶をしました
彼がおはようの時間帯にここに着くなんて珍しい
「今日は早いですね、ホームは走ってはいけませんよ」
「はい!今日は運よく迷わなかったんです!」
通勤も運だよりとは…方向音痴も度が過ぎると大変ですね
カズマサは売店の袋とカラフルな雑誌を持っていました
「…その雑誌…」
「えっメンズメトロですか?さっき売店で買ってきたんです、すみません、置いてきます!」
「ちょ、ちょっと貸してくださいまし!」
カズマサが小脇に抱えていた雑誌を半ば無理に引き抜きました
表紙を飾るその女性には、見覚えがあります
「この方は…」
「あ、ボス、ナマエちゃんを知ってるんですか?」
◇
「ナマエ?」
「ええ、お仕事など一緒になさっていませんか?」
「んー、今は一緒の仕事はしてないわね、どうしたの?急に」
昼休みに地上に出てライモンのジムへと赴きました
カミツレなら何か知っていると思ったのです
「いえ、なんでもございません」
「あら、水臭いわね話しなさいよ」
「あ、あの…彼女は隣に住んでいるのですが、ここしばらく帰っていないようなのです」
カミツレの勢いにおされてつい話してしまいました
昔からこの女性には勝てる気がいたしません
「あら、それは心配ね」
「ええ」
「うーん、男のところとか?」
「ぶっ」
「ちょっと、汚いわ」
「そ、そうなのですか?!」
「知らないけど…ナマエはこっちに来たばっかりだから連絡先もわからないのよ」
「そうですか…」
「力になれなくてごめんなさいね、他の人にも聞いてみるわ」
「い、いえ、わたくしの個人的な心配ですので、気にしていただかなくても…」
「あら、そう?」
意味ありげな笑みを浮かべたカミツレを横目に、休憩時間を終えたわたくしはギアステーションへと戻りました
◇
ナマエ様は、モデルの方だったのですね
わたくしどうもそのような世界のことに疎く、存じ上げませんでした
それにしたってこう長い間自宅を空けるようなことがありましょうか
カミツレを訪ねたことで不安な気持ちは解消されるどころか膨らんだ気さえします
ああ、ナマエ様、ご無事なのでしょうか
仕事を終え帰路につく
60階へと登るエレベーターの中でどうしようもない思いが募りました
暗い玄関に靴を脱ぎ、歩き慣れた部屋を電気をつけずに寝室へと向かいました
「…!」
部屋に入りすぐにそれに気づいたわたくしは急いでカーテンを開ける
しばらくの間暗く沈んでいた向かい側の窓が部屋から漏れる光でぼんやりと明らんでいたのです
「ナマエさま、ナマエさま!」
久方ぶりにナマエさまに会えるという高揚のほかに何ともいえない嫌な雰囲気がわたくしを突き動かしました
マンションだということも夜中ということも忘れ名前を呼び続ける
その、瞬間でした
「っ…!ギギギアル!あの窓を壊しなさい!」
腰のボールを投げて迷わず命じる
多少戸惑ったようでしたが、わたくしの気迫におされたのかすぐに技を放ちました
確かに、見えたのです
カーテンの隙間から、誰かに口をおさえられ、涙を流しながらこちらに視線をよこす、ナマエさまが
ええ、今となってはかなり冷静さに欠けていたと反省しております
サイコキネシスを使えるシャンデラの存在を思い起こせないほどには、焦り、興奮しておりました
わたくしは、あろうことか地上60階であちらの割れた窓の中に飛び込んだのでございます
「ナマエ様!無事ですか?!」
「なんだお前は?!」
「…ああ、わたくしノボリと申します
あなたさまのお名前は存じませんが名乗っていただく必要もございません
さて、あなたさまの終着駅ですが、その汚い手をナマエ様から自主的に離していただくかそれともわたくしのシャンデラに消し炭にされていただくか、ふたつにひとつでございます
まあ、どちらにしろもうナマエ様に会えないような顔になることは覚悟していただきます 」
ナマエ様はこちらに来てからずっと、ストーカー被害に悩まされていたようです
わたくしと話した次の日、思い切ってマネージャーに相談してみたところ、5日間ホテルで過ごすことになったのだとか
その間ストーカーが姿を現さなかったために自宅に戻ってみると、待ち伏せしていた男に無理やり部屋まで押しかけられた、とのことでした
「だからわたくしを頼るようにと言いましたのに!」
「の、ノボリさんお仕事忙しそうだったし」
「そんなことどうにでもなります!あなたが傷ついてしまっては、わたくしにはどうすることもできないのです…」
「…すみません」
「…まあ、いいでしょう」
仕事の帰り、ギアステーションに立ち寄った彼女とともにマンションまでの道を歩きます
壊してしまった窓は弁償いたしました
しかし部屋は荒らされており、とてもすぐには住める状態ではありませんでした(まあ、半分ほどはわたくしのせいかもしれません)
それも、問題ないですが
オートロックを開き、セキュリティーをクリアしていく
地上60階、ドアを開き今度は同じ屋根の下でわたくしから言うのです
「おかえりなさいまし」
「ただいまです」
地上60階の恋人
『もしもしナマエ?カミツレよ、ノボリとはうまくやってる?え、何で知ってるのって…そりゃ、ノボリがあれだけぞっこんなんだからどうにかなってるだろうな、って思ったのよ、で?なに?ノボリが?スーパーマンみたいでかっこいい?うん、うん…うん、……あー…ありがと、お幸せにね』