懇意にしている異性が別の異性に悪戯に手を出すこと。それが浮気。それは到底許されることではない。双方の合意の下に結ばれた関係を裏切り、一方的に破棄することと同義だからだ。一種の『契約違反』と言っても過言ではない、と思う。でも、私とエメットさんはそれに当てはまらない。お付き合いしようって言われたことなんて無いし、愛しているといわれたことも無い。
「エメットさん、学生時代からずっと付き合ってた恋人にプロポーズしたんだって。しかも今月末には同棲始めるとか」
「えぇー?また出任せじゃないの?」
「ホントだって。友達の友達が聞いたんだって」
「あー、でもエメットさんなら在りえるよね。火の無いところに煙は…っていうし」
だから、私と肉体関係まで持った男性が、私とは全く関係のない女性にプロポーズしたって問題は無いのだ。
『いちいち家に戻るのも面倒デショ?生活に必要なもの、ボクん家に持っておいでよ』
その台詞に、私達は彼の恋人なんだって舞い上がっていた。アイシテルと一度も言われたことの無い生活に疑問を抱くこともなく、彼より先に家に戻り、女房面して嬉々として家事をこなしていた。それを打ち壊したのは、噂好きな職員の何気ない会話。悪意も善意もない第三者の言葉は鋭い槍となり、甘い蜂蜜の満ちた水槽の壁面を穿たれて、ようやく私は、自分が溺れていることに気が付けた。
放り出された世界で真実に打ちのめされ、これまでの生活は蜂蜜なんかじゃなくって、麻薬なんだってようやく知った。彼に誘われた世界は脆くて、私の骨と理性を溶かすばかりで未来には続かない、刹那的なもの。だから、私が私であるために、全てを捨てて元の世界へ帰らなきゃいけないのだ。
ハブラシ、コップ、愛用のシャンプー、化粧水。甘い匂いが染み付いたそれらを一つずつ処分している間、酷く惨めな気持ちに襲われた。本気と遊びの違いも分からない馬鹿だと嘲笑われていたかもしれないと思うと恐ろしくてたまらない。流れる涙も、どろどろと溢れる泥状の劣等感も、一心不乱にゴミ袋に突っ込んで捨てた。エメットさんの家の合鍵以外の全てを。
合鍵は、それと分からないように封筒に包んだ。誰かに目撃されたら嫌だし、妙な噂の餌食になるのは避けたい。唯でさえボロボロの精神状態に止めを刺されかねない。そんなわけで、私は一人で居るところを見計らって、小走りに駆け寄った。
「あの、すみませんエメットさん。お時間少しいいですか?」
「あ、オハヨーナマエ。アー…ボクもちょっとキミに言いたい事があって…」
いつも快活な彼が頬を染めて言い淀んでいる。やっぱり、あの話は本当らしい。どういうことかと詰め寄りたいけれど、そんなことをしたって私がエメットさんと別れ…いや、関係を絶たなければならないことには変わりないし、そもそも知ったところで何になるっていうんだ。私はふるふると首を振って、鍵を包んだ封筒を差し出した。
「すみません。急ぎの用事ですので、また今度。それより、これを」
「なにこれ?」
心当たりが無いらしく、不思議そうに首を傾げられた。それに構わず封筒を握らせる。封筒を挟む指をひたりと見つめる綺麗なアイスブルーの眸が瞬く。
「なんだろ、硬い…?」
「エメットさんの家の鍵です。ずっと持っておくのもどうかと思いますし、お返しします」
「…は?」
封筒を開けようとしていたエメットさんの指が止まり、不機嫌そうに眉を顰められる。途端に空気がぴりりと張り詰めたのを感じるけれど、尻込みしそうになる自身を叱咤して足の踵でシッカリと身体を支える。
「…どういうこと?」
「どうって…だって、婚約者さんが居るって聞…っ」
エメットさんはニッコリと、口元を弓形に吊り上げていた。心臓に直接爪を立てられたかと思う程度には恐怖を煽られるようなそれは、冷笑と呼ぶに相応しいものだった。全身の筋肉に緊張が走り、音もなく軋む。鍵を放り出したエメットさんの手が私の二の腕を鷲掴みにし、力一杯握り締めてくる。
「ゴメンねぇ、ボクちょーっと頭が弱いみたいだから一から説明してほしいナァ。…キミ、ナニ言ってるの?」
「ぃ、たい、っ手、っ…!」
「全部話してくれたら検討するヨ」
早く言わないと痕が残るかもネ?
骨が軋むほどに締め上げられて、堪らず涙が浮かぶ。痛いと訴えても僅かほども容赦してもらえない。痛みから解放されたくて、早く彼自身から逃れたくて、半ば悲鳴のように叫んだ。
「っ、エメットさん、婚約したんでしょう?!」
「はぁ…っ?!」
「プ、プロポーズしたってっ。学生時代からの友人にっ!私なんか愛してるって言ってもらえたことなんかないし、最近なんかずっと上の空じゃないですか。婚約者のこと考えてたんでしょっ?なのに、わ、私に合鍵なんか…っ、思わせぶりなことしないでくださいッ!!」
何が悪かったのかといえば、エメットさんの女癖の悪さだけじゃなくて、私が簡単に流されて関係を持ったことにも一因である。エメットさんにしてみれば、いつも通りに適当な距離感を保って遊んで『トモダチ』で居ただけなのに、面倒なのに絡まれちゃったって感じなんだろう。いつも笑顔を絶やさないエメットさんの表情が無に飲み込まれた瞬間というものを、初めて見た。
何を言われるのかなんて考えたくなくて、聞きたくなくて、私は我武者羅に腕を振り回してエメットさんを振りほどいて逃げ出した。蜂蜜の甘さと心地良さに慣れきった私にとって、水槽の外の世界は骨の髄まで凍りつかせるように冷たくて。その場で涙を流すのは何とか耐えて、けれど持ち場で友人達の顔を見た途端、涙腺が決壊して。結局、迷惑をかけてしまったのだった。
エメットさんの連絡先をライブキャスターから消したのはその日のこと。私が持っているエメットさんの私物と言えるものなんて、それくらいだ。言い換えれば、それだけで済む関係だったってことで。こうやって振り返ると、私達の関係の浮薄さを改めて思い知った。親指で数回キーを動かせば終われるなんて、馬鹿馬鹿しくて笑いすら浮かんでこない。
あれからエメットさんとは全く会わない。というよりも、擦れ違いさえしない。少しぐらい気にしてもらえるかと思ってたけど、そんなタイプじゃなかったみたいだ。優しさが底無しなら、切れた後も徹底的にってことなんだろう。いつまでも未練がましく粘るような真似はしない。それならそれでいい。私も早く忘れられると言うものだ。麻薬と同じで、中毒症状から抜け出すには徹底的に絶つ以外に道は無いんだから。
先輩達があまりやりたがらない、補充された景品の数の確認作業を押し付けられたのも勿怪の幸いだった。特に今日は補充された量が多くて、確認に結構時間がかかる。それに託けて表に立たないんで済む。それは即ち、エメットさんが通るダブルトレインと面している、このホームに立たないで済むということで。
心地良い静寂を相棒に、黙々と作業をこなしていると、不意に備品保管室の部屋の扉をノックされた。
「ナマエ、白ボスが呼んでるよ」
「あ……。い、居ないって言ってもら――」
「嘘は良くないネェ。…デショ、ナマエ?」
顔を覗かせていた先輩の後ろからエメットさんがぬぅっと部屋に滑り込み、うっそりとした笑みを唇に刷いた。いつもは華やかなはずの彼からどことなく昏い雰囲気が漂っている。何も事情を知らないはずの先輩ですら何か感じたのか、恐怖に慄き壁に張り付き、少しでもエメットさんから遠ざかろうとしている。その姿は、本人の必死さとは裏腹に非情に滑稽だった。一体今更なんだというんだろう。彼に不利な風評被害は流していないし、同僚達の前で泣いたことに関しては適当に誤魔化してある。あとは忘れるだけだったと言うのに…。
「キミ、有難うネ。もう戻ってくれてもいいよ?…あー、そうだ、ちょっとの間、人払いしてくれると助かるナァ…?」
鋭く目尻を吊り上げニタリと笑うエメットさんに恐れをなしたのか、先輩は脂汗に塗れた顔をこくこくと上下に振り、転がるように部屋を出て行った。ご丁寧に扉まで閉めていってくれたものだから、エメットさんも悠々と鍵を掛けて、見事密室の出来上がり。ゆっくりと振り向いたエメットさんの目元には影が落ち、アイスブルーの眸をくすませる。
「やぁ、久しぶりだネ」
「…どういったご用件でしょうか」
「ツレナイねぇ。まるで役所の窓口の対応みたい。仮にも、」
「ご用件を伺います」
妙に絡んでくるエメットさんの言葉を遮る。さもなんとも何も感じていませんという風を装うので精一杯だけど、間違いなく内心はぐちゃぐちゃに掻き乱されていた。私の稚拙な意地も、動揺しきった内心も見透かしているんだろう、エメットさんが喉の奥を鳴らした。
「キミに、プレゼント」
「え…?でも、貰う理由なんか」
「ハイドーゾ!」
突き出されたのは、薄っぺらな紙。処分し忘れたものかと思ったが、その考えはすぐに潰えた。あんな物をエメットさんの家に持ち込んだ覚えなんてまるっきりないからだ。でも、覚えが無いだけで実は…なんてことがあったかもしれない。思い出を掻き回して情報を漁っていると、早く受け取れと言わんばかりにピラピラと忙しなく揺らされた。すみませんでした、と反射的に言ったものの、やっぱり想い出せない。受け取り、それを何気なく裏返して、
…覚えがなくて当然だ、と思った。
「キミの国には『空気を読む』ってスキルがあるらしいけど、キミには備わってなかった…わけないよネェ」
ボクが疲れて帰ったときにはカフェオレを作ってくれたり、膝枕をしてくれたり、殊更笑ってくれていたりしたんダカラ。…そんなエメットさんの柔らかな声が遠くに感じる。何も言わずに俯く私を、エメットさんは可笑しそうに笑う。
「…捨てられないデショ?こんな大事なもの。ボクの個人情報なんダカラ」
「でも、あの人は…、婚約者の人…。が、学生時代からの…」
「彼女は学生時代からの友人で、同時に婚約者。…の、指輪を作ってくれるジュエリーデザイナー。ボクに婚約者は居ないよ」
残念ながらまだねと笑う。むせ返るほどに甘く、愛情を滴らせた聲を捻りこまれて、身体の芯がどろりと溶け出すのが分かった。あぁ、駄目だ。こんなの逃げられるわけが無い。
「本当はソレと一緒に指輪も、って思ってたんだけど、生憎まだ仕上がってなくて。元々完成予定日はまだ先だから仕方ないんダケド、…キミが勘違いしてボクから離れようとするもんだから、こーんな中途半端になっちゃって」
彼の足音が近付いただけで目頭から熱い何かが溢れ出す。それが私の喜びの涙なのか、それとも別の何かだったのか。
「愛してるよ、ナマエ。また、一緒にあの部屋に帰ろう」
あぁ、もう、どうだっていい。蕩けるような甘い笑みを浮かべるエメットさんに身体を抱き寄せられ、懐かしい甘い蜂蜜の匂いが胸一杯に満ちていく。背に回した手とエメットさんの背中で押し潰された婚姻届がくしゃりと歪む音がする。それは、折角戻った私の世界が歪む音であり、生じた亀裂から蜂蜜が雪崩れ込む音。
幸せが足元を絡め取り、呑みこんでいく。頭の天辺まで浸かった私は、蜂蜜に溺れる未来を選んだ。
ハニーデュークの水槽
(大勢の女が溺れてくれたボクの身体も、雑魚は呑み込めても人魚は呑み込めなかった。フフッ、人魚を繋いでおくための水槽も、水槽を満たす蜂蜜も、駆け引きなんかに使うもんじゃないね。大丈夫だよ。これからは押し潰すほどの愛を注いで、満たして、溺れさせて、底深くに沈めて。ボクだけしか見えないようにしてアゲルから)
ニコトさん宅で200000打を踏んだ記念にかっ、書いていただきました…!
あ、ああああありがとうございます!!!
ニコトさん宅にこのお話のシリーズのお話もございます。萌え死ぬ覚悟で行ってらっしゃいませ。