清水の舞台から飛び降りる、っていうのは少し違うかもしれないけど、とにかく私はそれくらいの覚悟と心構えで待っていた
『今日の放課後、生徒玄関で待ってます』
そんなごく簡素な文面の手紙は、小さく小さく折り畳まれて私の外靴につっこまれていた
メールが全盛期のこのご時世に手紙だなんて随分粋なことをするな、とか言いたいことはいろいろあるのだけれど、私は黙って生徒玄関の壁の前に佇んでいた
待ってますなんて言われておきながら私の方が先にいて待っているだなんて、期待しているみたいでなんだか少し恥ずかしい
事実、少しもどきどきしていなかったと言えば嘘になる
今まで全くといっていいほど青春イベントに恵まれてこなかった私には、澄ました顔でいなせるだけの耐性なんてあるはずもなくて、自分にむけられるそんな些細な好意の予兆にさえも、むずがゆいような、こそばゆいような、期待にも似た気持ちがこみあげてきた
自分の靴のつま先を眺めて時間を潰す
遅いなあ…もしかして冷やかしだったのかな
そう考えると少なからずどきどきしながら待っている自分が急に恥ずかしくなってきた
もし本当に、告白だったとしても、用意している返事はどうせひとつなのだ
律儀に待っていることもないか、と踵を返した
「あ、ほんとに来てくれたんだ」
「え?」
玄関の戸をくぐったところで、ふと後ろから声をかけられて立ち止まった
振り返ると立ち並ぶ下駄箱の間に、見慣れない男の子がひとり、立っていた
「手紙、俺」
「えっ、あ、」
「ありがとう」
「あ、あの」
油断していたところに待っていたその人が現れたこと、その人はやっぱり知らない人だったこと、それに急にお礼を言われたことに、私はうまく対応できなくて、面白いくらいにどもった
少し恥ずかしい
男の子はふ、と笑った
「待っててくれたって、期待していいのかな?」
「えっ」
「…俺のこと、知ってる?」
「…ごめんなさい…」
「いや、謝んないでよ。俺、トウヤ。一応隣のクラスなんだけどね」
「トウヤ、くん。ごめんね」
「いいって。覚えてないだろうな、とは思ってたから」「?」
トウヤくんは内靴を脱ぐと、下駄箱から革靴を取り出した
「ごめん、待ったでしょ。今日日直だったの忘れてて」
「いや、大丈夫だよ」
靴を履き替えたトウヤくんはとんとん、とつま先をついて、私の方に近づいた
「一緒に帰んない?」
「え?」
「変な顔。だめ?」
「い、いえ…」
「じゃ、行こ」
「でも、」
「…俺の用件、今言っても多分困らせるだけだから。今日は名前覚えてくれればいいよ」
「わ、」
トウヤくんは私の腕を取って玄関を出た
存外強い力に、ただただ驚く
「ま、待って!」
「ん?」
「私、あの…!」
「おや、トウヤさん」
生徒玄関の隣には職員玄関がある
なかば引きずられるようにその前を通り過ぎたところで、後ろから静かな、でもよく通る、聞き慣れた声が呼び止めた
「一緒に下校するところでしたか?」
「はい」
「これは…仲がよかったのですね、知りませんでした」
言外に責められているような気がして、どきり心臓が跳ねる
誰かなんてわかっているのに、振り返ることができない
「しかし」
強く引かれている腕と反対の腕を、触れるような力で掴まれた
「こちらは、まだ補習が残っていたはずなのですが」
「え、そうなの?」
「ええ、申し訳ないですが、まだ帰す訳にはいかないですね」
「あー、じゃあ終わるまで待ってるよ」
「今日は図書室も既に閉まっております、トウヤさん。しばらくかかるかと思いますので先に帰宅なさい」
先生は私に話す隙を与えずに受け答えをした
「あっじゃあ携帯、」
「?」
「アドレス教えて、後でメールする」
「え…」
「…トウヤさん」
「先生、ここギリギリ校外でしょ」
「校門を出るまでしっかり校内です」
「……じゃあ、また明日、ね」
トウヤくんは私の顔を覗いて、しっかり微笑んでから腕を離した
「…」
「…」
だんだんと遠ざかっていくトウヤくんの背中
残された私たちに会話はなくて、わずかな力で腕を引かれるままに学校に戻った
後ろで引き戸を閉める音がする
からからという音がしなくなって、部屋の中は刺さるような沈黙に包まれた
「…あの」
「すみませんでした」
「え?」
「すみませんでした。感情的になりました」
私が何か言い出す前に、ノボリ先生は口を開いた
「迷惑、でしたね」
ドアの方に目をやる
ノボリ先生はこちらに背を向けて立っている
ここは国語科準備室だ
他の国語科の先生があまり使わないのをいいことに、ほとんどノボリ先生の私物になっている部屋
窓からは斜陽が差し込んで、きれいなオレンジに部屋を染めていた
「ノボリ先生、」
「すみません」
「あの、」
「やはり」
「え?」
「やはり、あなたも同世代の方とお付き合いしたいのでしょう」
ノボリ先生はこちらを振り返らずに呟いた
「あなたの自由な青春を、縛り付けてしまってすみませんでした」
「ノボリ先生」
「今ならまだ、追いかければ間に合うかと」「先生!」
私に喋らせまいというように言葉を吐き続けるノボリ先生の耳元に向かって、思いっきり叫んだ
同時にその広い背中に、控えめにくっつく
学校では必要以上に近寄ろうとしないノボリ先生も、驚いたのかそれを拒否しなかった
「先生、ごめんなさい」
「…なぜ」
「私、告白されても断るつもりでいたんです」
「……」
「でも、ちゃんと受ける気がないなら、はじめにそう言うべきでした。私、トウヤくんの気持ちも先生の気持ちも考えてなかったんです」
「……」
「お願い、ノボリ先生」
普段は真面目なのに時々大胆になる先生
教えるときには厳しい先生
馬鹿な私にいつだって付き合ってくれる先生
私の、大切なひと
ノボリ先生は急に振り返ると、私をぎゅうぎゅうと抱きすくめた
苦しいけど、何も言わずにそっと背中に手を回す
暖かい
「…そうしてください」
「?」
「気が気でないのです。年齢というハンデだけは、どう足掻いても消えない。あなたがふわりと、どこかへ行ってしまうかと思うと、冷静でいられません。ぜひ、わたくし以外に呼び出されても応えませんよう」
「…はーい」
「…なぜ笑っているのですか」
「だってノボリ先生、普段そんなこと言ってくれないですもん。嫉妬してくれてるかと思うと、なんだかかわいいな、って」
「…卒業したら覚えておきなさい」
ようやく暖かい身体は離れていって、少し名残惜しいけれど、ノボリ先生の口角が緩く上にあがっていたのを見たから、嬉しくなって私も微笑んだ
「寒いですし…ポトフでも食べていきますか?」
「わーい!」
「帰りますよ」
私はやっぱり、ノボリ先生の隣が落ち着くのだ
学校でも外でも、堂々と一緒にいられるわけではないけど、それでも十分幸せだと、確かにそう思った
緩やかに嫉妬
縛っているのはお互い様