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「酔わせてください」


懇願とも受け取れる声音だった
差し出したグラスはそのまま押し返されて、丸い氷がカラン、と涼しげな音を鳴らした

「失礼ですが、お客様」

  もう既に、酔っていらっしゃるようにお見受け致しますが、

私がそう言い終わらないうちに、お客様は弱々しく首を横に振った


『いらっしゃいませ』

22時を過ぎた頃だろうか、頬を紅く染めたお客様が店のドアをくぐった
ふらつく足取りでカウンターチェアまでたどり着くと、どっかりと腰掛けて無言で私の瞳を覗き込む
充血し潤んだ目とかっちりと目が合う
私もまた何も言わず水差しを傾けて、氷を入れたグラスに水を注いで差し出した


突き返されたそのグラスは汗をかき、所在なさげに私とお客様の間に佇んでいる

「酔わせてください」

ろれつがまわらないのか一語一語はっきりと力強くそう告げると、お客様はだめ押しにぐい、ともう一度グラスを押し出した

「…かしこまりました、お好みは?」
「酔えれば何でもいい」

店内にはその方以外のお客様はいなかった
明るいグレーの背広に、暗い赤のネクタイ
私は水の入ったグラスを受け取ると、タンブラーによく冷えた角のウイスキー、ソーダを注いだ

「ハイボールです」

ちらちらと炭酸が光を反射して輝く
香りだかいウイスキーを爽やかなソーダが親しみやすくしている

置いたグラスは今度は押し返されることはなかった
お客様はぐい、と喉を見せて勢いよくそれを煽ると、音をたててグラスをカウンターに叩きつけた

「どうしようもないんだ、酒の力を借りないと」
「…」
「君は覚えているんだね、僕が前にもハイボールを頼んだこと」
「ブレンデッドがお好きだと仰いました」
「うん、嬉しいよ」

頬を綻ばせてお客様は笑った
何度か来店している彼は、いつもウイスキーベースを飲んだ
ありがとうございます、と言うと、お客様は目を少し見開いた

そしてふと目を逸らす
彼は六割ほど残るグラスを傾け一気に喉に流し込んだ

「お、お客様」
「ナマエさん」
「はい」

空になったグラスが私の方へ押し出される
薄くてもウイスキーベースのカクテルなのだ、無茶な飲み方をすれば酷く酔ってしまう、のに

押し出されたグラスを受け取れば、その左手はすばやく彼の両手に奪われた
グラスが落ちる
カウンターの上でくらくらと動き、しばらくするとぴたりとその動きを止めた

「ナマエ、さん」
「はい」
「僕は…僕と……」
「…」

カウンター越しに私の左手を包む彼の手はじっとりと汗ばんでいる
お客様はその手にとまっていた視線をばっと上げて、私の目を覗き込んだ

「君の優しくて、よく気のつくところが、その、好きだ!つ、付き合ってくれないか!」
「…お客様、ありがとうございます、お気持ちは嬉しいのですが、」
「そういうことじゃないんだ!僕は本気だ!」

彼の両手は痛いほどに私の手を締め付けた
通り一辺倒な私の対応を、お客様は首を横に振って弾き返す

「君は素朴で、真面目で勤勉だ。僕にはわかる。僕と付き合ってくれたら、もうこんな仕事しなくても大丈夫だよ。こう見えて収入は結構あるんだ  

「ほう」



唐突に、低くつぶやかれた相槌に私とお客様は揃ってドアに目を遣った
照明を受けて鈍く光る金糸に紺碧の双眸  


「いらっしゃいませ、インゴさん」
「エエ…何やら餓鬼が喚く声が通りにまで響いていたものですから、ね」
「…あなたには関係のないことです。僕とナマエさんの問題だ」
「それもそうですねえ」

くつくつと喉を鳴らして笑い、インゴさんは二つ、席を開けて腰掛けた

「しかし」

コートの内ポケットから葉巻を取り出し、カットして火をつける
一息吸って薄い煙を吐き出すとインゴさんは言った

「紳士ならば酒は静かに嗜むものですよ。みっともなく騒いではせっかくの酒も不味くなる」
「だ、だから関係ないと  
「あなたが熱心にその手に縋っていては、ワタクシ満足に注文もできないのですが」
「縋ってなんか!」
「縋ってなどいないと?酔いどれが涙と金で情に訴えるのを?」
「…!」
「それから」

灰皿を引き寄せ灰を軽く落とすと、インゴさんは口の端を持ち上げて一層ニヒルに笑った

「ナマエは確かに真面目で勤勉かもしれませんが、素朴な女ではありませんよ」
「なっ」
「イ、インゴさん!」
「したたかで魅惑的な…ねえ?」

意味ありげな口ぶりをどう受け取ったのかお客様はわなわなと震えだし、インゴさんに一言二言怒鳴った後私の手を振り払い大股で店を出て行った
その背中をしばらく呆然と見送る
インゴさんは葉巻を灰皿に置いた

「失礼…迷惑でしたか?」
「いえ、あの、お見苦しいところをお見せしました。申し訳ございません」

頭を下げるとインゴさんは少しおどけたように肩をすくめた
氷が溶け始めたタンブラーを下げる

「今日は何になさいますか」
「ウイスキーで何か」
「かしこまりました」

前にインゴさんが来たときは、チェリーリキュールとスコッチで出したんだっけ
ぎらついた目にぴったりだなんてハンターを差し出して、笑われてしまったのを覚えている

「酒に頼ろうなどという心構えが情けない」
「どこから聞いてらしたんですか?」
「さあ…」

灰皿の上の葉巻から紫煙がくゆる

「うまい酒を飲める場所が減るのは惜しいですし」
「そこからですか…」
「それに」

もう一度葉巻を手に取ると、インゴさんは上品な所作でそれを口に運んだ

「あのような女々しい男に、ナマエを譲ってやろうなどとは毛頭思えませんね」
「…」

前回と同じスコッチウイスキー、それにアマレットを取り出す
栓を開ければふわりとアーモンドのような香ばしいかおりが広がった
オールドファッションドグラスに氷を入れ、スコッチとアマレットを注ぐと、無骨なロックが琥珀を映してぎらぎらとまたたく

「…どうぞ」

彼は私の手元を見つめながら、笑いを堪えているようだった
目を伏せてグラスを受け取り一口含む

「今度はその道のニンゲンにでも見えましたか?」
「…ふふ、そうですね。その葉巻が、特に」

長い睫毛が影をつくっている
インゴさんはくつりと笑った

「…ありがとうございました。助けていただけて、嬉しかったです」


好意を持っていただけたのはありがたいしあのお客様のことを悪し様には言えないけれど、『こんな仕事』、その言葉は私が思っているよりずっと私の心に突き刺さった
女だから、女のくせに  これは言われ慣れているけれど、誇りを持っているこの仕事をそんな風に思われていたのは少なからずショックだった

だから、颯爽と助け舟を出してくれたインゴさんに素直に嬉しいと思った
淡々としたものいいの端々から、温かさを感じた


「それは重畳」


薄く開いた唇に、グラスが触れる
喉仏が何度か上下し、グラスには大きな氷だけが残された



「以前に来たときには、警戒されてしまったと思ったのですが。仕事の後にでもどうですか、一杯付き合いませんか?」
「そうですね…警戒はしているかもしれません。そういった意味でのお誘いは、申し訳ございませんがお断りさせていただきます」
「…やはりアナタは、なかなかどうしてしたたかな女ですよ。ワタクシ好みの、ね」



ゴッドファーザー
男の嗜み



★ゴッドファーザー
氷を入れたオールドファッションドグラスにウイスキー、アマレットを入れてステアする
…映画『ゴッドファーザー』に因んで作られたカクテル。男のドラマを思わせる重厚な味わい。


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