あの崖へ行こうと、あの子は言った。
もう一度、あの場所へ――すべての始まりの場所へ行こうと、言った。

あれからちょうど2年、そんな月日が経ったっ頃だった。








家からタクシーで15分。地元の人しか訪れない、穴場の観光名所。辺りには何もない。
ただ海と森があるだけの寂しい場所。
だけど此処から見る海の景色は、絶景だと思う。

静かに車のドアを開けば、途端に潮の香りに包まれる。漣の音がとても近くで聞こえた。


「…2年前、ここから落ちたんだよね。」

そう言ってナオは転落防止用に備え付けられた柵に触れる。2年前は錆びてボロボロになっていたこの柵も、ナオが落下したことで危険性を指摘されたのだろう。錆びた茶色い鉄柵は跡かたもなく姿を消していて、代わりに銀色に煌めく真新しい柵がそこにあった。

「こんなに新しいなら、もう落ちることはないね。」

揶揄するように笑えばそうだねとナオが笑う。もう落ちたりしないよ、と彼女は言った。


「…ねぇ、2年前のこと、まだ憶えてる?」

まるで何かを確かめるように問いかけてきたナオに、私は深く深く頷いた。忘れられるわけがない、という言葉も付け加えればそれもそうだとナオは少しだけ寂しそうに微笑みを浮かべる。その目は海ではなく――もっと違う、遠い場所を見ているようだった。そして彼女はまた口を開く。

「リオは、リーダーに会いたいって思う?」
「…どうして?」
「私は…私は、もう一度、ブチャラティに会いたいんだ。」

ほんの一瞬でも良い。もう一度、また会いたいのだとナオは言う。私は静かに首を振ってそんなことは不可能だと告げる。彼女は不可能でも何でもいい、それでも会いたいのだと言った。

そして、静寂が辺りを包みこむ。
漣の音すら聞こえない。風の音も、鳥達の鳴き声も聞こえない。不気味なほど静かだった。
あまりの静けさに少しだけ恐怖を感じて、私はナオに「もう帰ろう」と声をかけるとその手を掴んだ。彼女は小さく頷くと私に手を引かれるままに歩き出す。私達二人の土を踏む足音だけが辺りに響いているように感じるほど、静かさに包まれていた。
そうして数秒歩いた時、ナオが急に手を振りほどいた。驚いて彼女の名前を私が呼べば、ナオは首を傾げながら少しだけ遠ざかった海を見つめていた。

「誰かが、呼んでる……?」

誰かが、私を――私達を、呼んでる。
そうナオは呟くが私には何も聞こえない。いくら耳を澄ましてみても静寂ばかりで、声なんて聞こえそうになかった。それでもナオは確かに誰かが私達の名前を呼んでいるのだと告げる。

「…ねぇ、はやく帰ろう。」

きっと何かの間違いだ。この静寂も、彼女が聞こえるという声も、何もかもが間違いなのだ。そう決めつけて私は歩き出す。しかしナオは来ない。声が聞こえると言い張って、そこから動こうとしない。

「…ちょっと、ナオ!!」

早く帰ろう、そうもう一度声をかけようとした瞬間―――何かが聞こえた。

それは、声のようにも、音のようにも聞こえた。――あぁ、これは海が呼んでいるのだ。

遥か彼方遠くで、海の呼ぶ声が聞こえた。
漣が、遠くから、聞こえる。
振り返れば双子の片割れである彼女が微笑みを浮かべている様子が見えた。彼女の黒い目は海を見てはおらず、どこか遠くを見ているようであった。

「――――――。」

彼女の唇が震えて、言葉を、名を紡いた。酷く聞き覚えのある名であった。
そして、ナオが駆け出した。足が地面の草や土を踏み散らして、跳ねて、その白い足に僅かに小さな染みを作らせる。だがそんなことを気にする素振りも見せずに、彼女は駆けていった。その先は―――何もなかった。いつの間にか柵は消えていて、あるのは空間だけになっていた。そしてその下に広がるのは怖いけれども、美しい蒼を抱えた海。
止めるように名を叫んだが、彼女の脚は止まらなかった。
そして落下する小さな身体。必死で手を伸ばせばなんとか彼女の洋服の端に触れることが出来た。しかし、既に彼女の白い足は地面から離れていて、僅かに届いたこの手が重力に逆らえるはずもなく――2年前の"あの日"と同じように、まっさかさまに、二人で、落ちた。
刹那、蒼い海と、空の境目が見えた気がした。それは美しかった。きっともう見ることができないだろう光景だった。

身体が浮遊し、落下していくその最中――するりと握っていた手が解けた。ちらりと双子の片割れへ視線を向ければ彼女はこちらを見ながら微笑んで、「もう一人でも大丈夫。」と言った。そしてすぐに「あの人達に、会いに行こう。」と続けた。
私は深く深く頷いて、同じように微笑んだ。何も、怖いものなんて無かった。ただ幸福感だけがこの身体を満たしていくのを感じていた。


何かが壊れるような音。衝撃。

身体が歪に曲がっていくのを感じた。痛みは、無かった。
そして私と彼女は深い海の底へ、暗い暗い底へと沈んでいく。それでも、怖くなかった。
きっとその先に"彼"が居てくれると、私も彼女も、信じていたから。

「「――――――。」」

肺に残されていた僅かな空気とともに、私たちは想い人の名を吐き出す。零れた空気と声は頼りない泡となって、天へと――水面へと昇っていき、やがて弾ける。それはまるで儚い誰かの一生のように、弾けては消えていく。

刹那、青に染まった世界の中誰かに縋るように手を伸ばす。
同時にそっと目を閉じた。


あぁ、願わくば

誰かがこの手を、取ってくれますように。





 
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