風が、吹いていた。
花の香りがした。
少女が閉じていた瞼を開けば彼女の視界いっぱいに青空が広がる。仰向けに横たわらせていた身体にはあたたかい草花の感触。息を深く吸い込めば、芳しい花の香りが鼻腔に満たされていく。
――あぁ、ここはどこだろう。
草花の香りに包まれたままそんなことを思って少女は身体を起き上がらせた。途端彼女の視界に飛び込んでくるのは墓石であった。突如視界に現れたその存在に驚きながらも、少女はそっと近づくと墓石に刻まれた誰かの名前であろうアルファベットの文字列を、つつと指でなぞった。そして――彼女は墓石の持ち主の名を知る。

「これ、私の…?」

刻まれた文字は――"Nao"。それは確かに少女の名前であった。そして彼女は墓石に添えられた花束の存在に気づく。そっと彼女が拾い上げて見れば僅かに乾いた音を花束は零したが、それほど枯れてる様子には見えない。きっとごく最近に置かれたものなのだろう。なんとなくそう思った。
そしてそんな少女の真横を風が吹き抜けて、同時に花束から何かが落ちる。風で飛ばされる様に落ちた小さな何かを慌てて少女が拾い上げてみれば、彼女はそれがメッセージカードなのだと気づいた。表にはたった一言「愛している。」と綴られ、裏面には―――…

「…ブチャラティ、」

少女が愛していた者の名前が綴られていた。

ぽたりと涙が零れた。小さな小さなメッセージカードを胸に、手には花束を握り締めて少女は涙と嗚咽を零した。黒い双眸から零れ落ちた涙が静かに冷たい地面の中へと消えていく。――"会いたい"。嗚咽紛れに、少女は小さく呟いた。

「会いたい、ブチャラティ…私、会いたいよ…」

ぽろぽろと止め処なく溢れる涙を止めようともせずに、少女は何度もそう繰り返した。

そして、声が聞こえた。







ある一人の男が小高い丘を登り歩いていた。その手に抱えられたのはつい先ほど購入したばかりの可愛らしい小さな花束と、更に小さなメッセージカード。綴られている文字は何時だって変わらなかった。男がこれから向かう場所に眠る少女に対する気持ちも――何時だって変わらなかった。

ふと、男はある一人の男とすれ違ってピタリと足を止めた。肩越しに振り返れば、遠ざかっていく黒いコートを纏った男が見えた。その男のことを彼は知っていたが、声はかけなかった。理由は至極単純なもので――男の表情がどこか寂しげに見えたからだ。
きっと彼は二つある墓標のうちの一つに花を添えに来たのだろうなと、ぼんやりと花束を抱えながら、男はそんなことを思った。そうして男は一度止めていた足を踏み出すと、また歩き出す。

その刹那――彼の真横を風が吹き抜けた。同時に小さな声が聞こえて男はまた足を止めて、振り返った。丘を駆け下りていく、どこか見覚えのある少女の背中が彼の眼界に飛び込んできた。

「……リオ?」

呟くように呼んだ名前は再度吹き抜けた風によってかき消される。
そしてまた、声が聞こえた。

――会いたい。
その声は丘の頂上から確かに聞こえた。男は何も考えずに駆けだした。土や草が跳ねて白いスーツに染みを作り出すが、男にとってそんなことはどうでも良かった。ただ無我夢中で男は走り、丘の上を目指す。
そして―――小さな少女の背中が、見えた。


「ナオ!!」

叫ぶように名を呼べば、墓石の前でしゃがみ込んでいた少女が振り返る。黒い二つの目から零れ落ちる涙が、太陽の光できらきらと煌めいていた。少女の唇が小さく震えて、"ブチャラティ"と男の名を紡ぐ。男――ブチャラティが少女に向かって腕を伸ばし、小さな身体を抱きしめれば、少女も懸命に腕を伸ばしてブチャラティの身体を抱きしめ返す。

「…また、また会えた。」

ずっと会いたかったのだと嗚咽紛れに告げたナオに、ブチャラティは「俺もだ。」と告げて腕の中の彼女の存在を確かめるように強く強く抱きしめる。薄い布越しに少女の体温、鼓動が伝わってきて、彼女は確かに生きているのだと安心してブチャラティは小さく息を吐いた。そして同時にブチャラティはナオを抱きしめるために放り出されてしまった哀れな花束の存在を思い出して、抱きしめていた腕の力をほんの少しだけ緩めると、地面の上に寂しく転がっていた花束をそっと拾い上げた。

「ナオ、お前にずっと渡したかったんだ。」

そう言ってブチャラティはナオに花束を差し出した。勿論――"愛している"と綴られたメッセージカードと共に。同時にナオの目から一度は止まったはずの涙がまた溢れて、零れ落ちた。

「ナオ…愛してる。」
「私も、愛してます…!」

大好きなのだと、愛しているのだと何度も繰り返すナオの涙で濡れた唇にブチャラティは口づけを落とした。ナオもそれに答えるように何度も口づけを返す。そしてまた風が吹いて、暫く見つめあった後に二人は立ちあがった。

「行こう、ナオ。皆…お前のことを待っている。」
「…本当に?」
「あぁ、本当だ。」

だから行こうとブチャラティはナオの細い手を握った。ナオもブチャラティの大きな手を握り返した。
そうして歩き出した二人の背を、まるで押すように柔らかな潮風が舞った。

丘の上に残された小さな墓石。
それらは、きっと、もう意味の無いものなのだろう。


そしてまた、静寂が訪れた。





 
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