柔らかな春の風が、頬を撫でた。

フードを深く被り、顔には黒々としたガスマスクをつけた異様な出で立ちのその人間は海を眺めていた。
観光地ではないただの寂れた漁港のためかあまり人通りは少ない。
それでも、彼は一際異質な存在感を放っている。
ふと、そんな彼に近づく影が二つ。一人はふくよかな体格をした男性。もう一人はサングラスをつけ、顔を隠した桃色の髪色が特徴的な少女であった。
男は彼に近づくと「待たせたね。」と言い、彼はそれに対して首を左右に振ることで否定の意味を示す。そしてパーカーのポケットに突っ込んでいた手を出すと、何処からか取り出したノートにさらさらと文字を綴る。
"彼女が例の?"
小さなノートに、そんな言葉が躍り出る。
男は彼のその文字に「そうだ」と肯定の言葉を返すと「急ごう、追っ手がそこまで来ている。」とわずかな焦りを見せながら告げた。

そうして男と少女と共に彼は歩き出す。
暫く歩けば男が手配したらしい黒塗りの車が現れて、男は助手席に。彼と少女は後部座席にへと乗り込む。程なくして発車する車。背後を彼がチラリとうかがえば、黒服の男たちがつい先ほどまで彼らが居た場所にやってくる瞬間であった。

"追ってきてます。急いで。"

そんな文字を綴ったノートを運転席にいた男に見せれば「分かりました」と言って男がアクセルを踏み込む。
背後で幾つか銃声が響いた気がするが、恐らく届くことはないだろう。
そんなことを思いながら彼は後部座席に座りなおすと隣に座った少女に向かってノートを見せた。

"大丈夫、トリッシュ?"
同時にサングラスで遮られたその向こうの目がわずかに驚愕の色に染まる。何故自分の名を知っているのかとでも言いたげな表情だ。
"ボスから君の名を聞いたんだ。"と彼が綴れば納得したかのような表情にへと直ぐに変化する。
そして少女――基トリッシュは「あなたの名前は?」と彼に問いかけた。
"リオン。"
よろしく、とでも言うかのように彼はガスマスクの向こうで黒い双眸を細めた。





車体が急に揺れた。
わずかに悲鳴を上げるトリッシュの体を支えながらリオンが窓の外を伺えば近くのアパートに何かが光ったのが彼の眼界の端に捕らえられる。

"スナイパーです。タイヤ撃たれたかも。"
「…かもしれんな。君の"力"でどうにかできるか?」
"十分です"

そう綴るや否やリオンは車から飛び出すと一目散に先ほど光が見えたアパートへと駆け出す。場所は三階といったところだろうか。
射程距離には十分だった。

――グリム・リーパー。
心の中で"彼女"を呼べば同時にリオンの足元にあった影が陽炎のように揺れて、しゅるしゅると蛇のように細くなる。それを階上に向けて放てば彼女は器用にも窓を開けて、先ほど銃弾を放ってきたスナイパーへと絡みつく。
そうして男の首にへ手を掛けた彼女は、その首をへし折った。悲鳴を上げる間もなく崩れる男に、仕事を終了させた彼女はリオンの元へと戻ってくる。

"おわりました"
既にタイヤの交換は済んだらしい車へ近づき窓をノックしながらそんな文字を掲げる。助手席に座っていた男は「もう終わったのか」と僅かに驚きを見せた。

「……何を、したの?」

後部座席に滑り込むように座ればトリッシュがそう問いかけてくる。

"何もしていない。"
「終わったって何を"終わらせた"の?」
"君を殺そうとする輩の口を封じただけさ。"

これ以上は頼むから聞かないでくれ、といった雰囲気を醸し出せば彼女は何かを察したらしい。頭のいい彼女のことだ。きっとリオンがしたことに理解したのだろう。
僅かに青くなった彼女の顔を視界の端に留めながら、リオンは小さなため息を吐いて、窓の外を見た。

――黄金の風が、春の風と共に、やってくる。
それは、全てが動き出すという証。
それは、運命が動き出したという証。



(彼が"ジョジョ"に出会うまであと二日)




- ナノ -