「あ、ほら!みてみてあの木だ。すごい綺麗だよ!」
「そんなに走らなくても桜は逃げないよ」

駆け出した彼女をみて思わずそう声をかけたけれど、心なしか自分も早歩きになっていることには気付いていた。そのことに苦笑しつつも、パタパタと走る彼女の後を追う。
風で舞い上がる桜吹雪が、月明かりに照らされてきらきらと光る。そんな幻想的な絵の中で、彼女は踊るように地面を蹴った。満月を通り過ぎ、欠け始めている月がまた風情溢れていた。
素直に美しいな、と感じる。
掌を天に向ければ、桃色の雪が一枚はらりと飛び乗った。彼女の髪に似合いそうだ、なんてらしくもないことを考えながら。

「崖の上にある桜の木なんて素敵だよねえ…。コンウェイー!ほらほらっ、早く来てってば!」
「はいはい」

まったく桜くらいでよくそこまで楽しそうに出来るものだ。
掌の花弁をそっとポケットに滑り込ませてから、気付かれないように溜め息をつく。するとコンウェイよりも少し先を行く彼女が立ち止まり、不満気に振り向いた。相変わらず、こういう時だけは勘が鋭い。

「コンウェイ!いまため息ついたでしょ!」
「ついてないよ」
「嘘だー絶対ついた!」
「ついてないってば」

下らないやりとりを交わしながらコンウェイは漸く彼女に追いついた。
常日頃からインドア派だと公言しているにも関わらず、そんなの構わず突き進む彼女には熟々困らせられる。今日だって、こんな時間に突然出かけたいなんて言い出したり。
思えば、自分は彼女に振り回されてばかりだ。
歩みを止めて彼女の横に立つと、彼女はコンウェイの顔を覗き込むように見た。

「あれ、なんで笑ってるの?」
「は、」

彼女の言葉で、無意識に手を顔に当てる。そうして初めて、自分が笑みを浮かべていたことに気付いた。
いつもならなんてことがない筈なのに、咄嗟に反応が出来ずコンウェイは固まる。それを見た彼女は優しく目を細めた。

「わたし、コンウェイの笑顔って好きだなぁ」

そう言って彼女は無邪気に笑う。本当に、無垢な笑顔だ。
純真無垢。天衣無縫。そんな言葉が頭に思い浮かぶ。
汚れなど知らないであろう、純白さ。

「へぇ、それはどうも」
「あ、そういう笑顔じゃなくて。いつも浮かべてる胡散臭いやつじゃなくて、さっきのみたいな」

ほら、笑って?と口にした彼女の目は、いつだって真っ直ぐだった。
自分が、オレなんかが触れてもいいのだろうか。この美しい白を、自分は穢してしまうのではないだろうか。
時々、どうしようもなくそんな気持ちになる。

「コンウェイ?どうしたの、」

不安そうにコンウェイを見上げるその瞳に、ふと我に返る。
ああ、らしくもない。こんな気持ちになるなんて。それもこれも、全部彼女のせいだ。
取り繕うように笑みを浮かべて口を開く。

「なんでもないよ、それより早くしないと桜をゆっくり見る時間が無くなるんじゃないかな」
「……うん。それは困るね!」

町の人の話では今くらいの時間が一番綺麗なんだって、と得意げに話し出す彼女。敢えて深く聞かないでいてくれたのだろうなと思った。自分自身の事には疎いくせに、こういうことには気が利くんだから、助かる。
意気込んだ彼女はまた元気に走り出そうとする。その姿をみた瞬間、心臓が嫌な音を立てた。本能が警鐘を鳴らす。
月明かりという朧げな明かりだけでただでさえ視界が悪い上に、でこぼこと不安定な地面でさらに今は崖の上。声をかける前に、案の定足元を取られた彼女の体がぐらり、傾く。心臓が凍りつく感覚。考える間も無く体が動いた。

「わあ、!?」
「っ、まったく」

間一髪で彼女の手首を掴み、そのまま力任せに引っ張る。導かれるまま彼女の体はコンウェイの腕の中にぼすりと倒れこんだ。
少し呼吸が荒くなっている。腕の中に居る彼女を確かめるように、強く抱き締めて、ほっと息をついた。
視線を下に向ければ、彼女も顔色が真っ青になっていた。この崖から落ちたら、ひとたまりもなかっただろう。当たり前か。

「ご、ごめん。ありが、とう…」
「落ちたら、どうするつもりだったんだ。頼むからもう少し気をつけてくれ」

そうじゃないと、ボクの心臓が持たない。少し口早に零すと、彼女は目を丸くして僕を見た。彼女の綺麗な瞳と目が合う。

「…うん。ごめんなさい。ありがと」

目を逸らして俯いた彼女の肩が、まだすこしだけ震えていることに気付いた。思わず彼女の髪に触れようとして、ふと手が止まる。

彼女が自分のせいで汚れてしまったら。
コンウェイの手は、もう汚れている。
こんな手で触れるなんて。

動きの止まったコンウェイの背中に、意を決して顔を上げた彼女がゆっくりと手を回す。驚きで、コンウェイの体が少し震えた。

「あ、あの…っもう少しこのままで居ても、いいかな…?!」

自分を見上げながら真っ赤になってそう告げる愛しい人の姿にコンウェイは目を瞬く。
そして、表情が緩むのを感じた。心からとても暖かいものが溢れてくる。
自分にもこんな感情があったことを知る。本当に、彼女には驚かされてばかりだ。

先程伸ばした左手で、彼女の長い髪を優しく梳く。赤く染まった頬に右手を添えると、ガラスのように美しい瞳がゆっくりと閉じられる。
桜吹雪に包まれながら、彼女の形の良い唇にそっと口付けを落とす。
そのまま、コンウェイも静かに目を閉じた。




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