目が覚めた時、私は何もわからない状態だった。
無機質な天井。それから横にある大きな機械と自分を繋ぐ沢山の管からそこが病院であることは自然に理解した。
看護師と思われる女性達がぱたぱたと慌ただしく動き始めて、横の機械を弄っていた。
それから暫くして、眼鏡をかけた白衣の男性がやってきた。
医者と思われるその人物から淡々と、記憶喪失であるだろうと告げられる。その目に同情の色が浮かんでいたことを何処か離れたところで私が囁いた。
その時の私は、自分の名前も今までの人生も、何もかもわからなかった。だからその言葉を聞いて特にショックを受けるなんてことは無く、ただ納得した。
自分は空っぽなのだ、と少しだけ虚無を感じたけれど。
白すぎるベッドの横に立っていた背の高い女性が顔を顰めているのを見た。医者が不憫そうな顔をして、その人を病室の外へ連れて行った。
あの女の人は誰なのだろう。綺麗な人だったな。
ふいに眺めた窓の外は、美しかった。晴れ渡った空の下で整備された道を子供達が走り抜けて行く。草花が咲き誇り、様々な人々が行き交う。命あるもの全てが動いていた。
そこは色取り取りの生き物に溢れた世界で、私がいるのは何もない無機質で真っ白な世界だった。
下から泣き声が聞こえて視線を落とす。
子供達が手に持っていた風船を離してしまったようだった。
持ち主から解放されて、自由になった赤い風船が空を昇っていく様を見ながら、なぜか私は涙が止まらなくなった。


「ボクは、コンウェイ・タウ。君の…恋人だよ。覚えてない、よね?」
遠慮がちに目を伏せてそう告げた女性に、私は言葉を詰まらせた。その人をよく観察してみるけれど、見覚えは…ない。初めて見る人だった。
「…え、っと」
女性と付き合っていたのか、記憶を失う前の私は。
ナマエ・ミョウジがどんな人間だったのか、非常に気になったが私には知る術がない。だってそれは紛れもない私自身なのだから。
少し腫れた目で笑いかけるその女性に私は小さく頭を下げて、
「思い出せなくて、ごめんなさい」
とだけ、告げた。
ナマエを知っている人物に過去の私像を求められても、正直に言うと困るだけだった。少し申し訳なさも感じた。
医者も言っていたけれど、あまり過去の人格を求めるようなことはしないで欲しい。だって、私にはどうしようもない。
他人からしたらお前以外がどうすると思うかもしれないが、私が一番わからない。謝ることしかできない。思い出せない自分が嫌になった。
ほんの少しだけ、ナマエに八つ当たりをした。お前が記憶を無くしたりしなければ、今こんな思いはせずに済んだのに。
「可能性は五分五分だと言われたよ」
「そう、ですか」
「そういえば、喉は乾いてない?何か入れるよ」
「…ありがとうございます」
他愛ない会話を続けて何故か病室から去ってくれない彼女に、私は曖昧な返事をする。立ち上がる際に向けられたその笑顔にまた少し胸が痛くなった。
先の発言からして、きっとコンウェイさんは私に思い出して欲しいのだと思う。私だって出来ることならそうしたい。
けれど、頭の中は空っぽなのだ。
まるでキャンバスだった。筆も何もない。絵の具だってパレットだってなかった。
目が覚めてからずっと思い出とかそういった類の引き出しを開けまわっているけれど、どの引き出しにも何も入っていない。
ただ、真っ白なキャンバスがあるだけ。
「コーヒーで良かったかな?」
「あ、はい。すみません」
「砂糖は三個に、ミルクも二つ入れてあるから」
「?ありがとうございます」
随分と甘くするのだなと疑問に思いつつ受け取ったマグカップに口をつける。
「あ、美味しい…」
素直に思ったこと口に出すと、コンウェイさんが優しく微笑んで私の頭を撫でた。ゆっくりと動くその手の感覚に少しだけ懐かしさのようなものを感じて、弾かれたように顔を上げた。
撫でていた手を離して、女性が目を瞬く。そして、暫く自分の手を見つめてから口元に自嘲を浮かべた。
「…ああ、知らない男に頭を撫でられるのは怖い?」
言いながらコンウェイさんが傷付いた顔をして、私まで悲しくなった。
けれど、今物凄く重要な発言が聞こえた気がする。
「え、…男?おと、こ?」
耳が拾った一言を反芻するように繰り返せば、目の前に居たコンウェイさんの顔が苦々しく歪められた。
「…流石に君に間違えられると、辛いものがあるね」
すっと目を逸らしてそう零したコンウェイさんに私はとんでもないなことをしてしまったと気付いた。彼は私の恋人だと言っていたのだ。恋人に性別を間違えられるなんて苦痛以外の何物でもないだろう。そもそも、冷静に考えてみれば恋人だと言われた時点で気付くべきだった。人の性別を間違えること自体あり得ないほど失礼なことだ。
「あ、…あの、ごめんなさい!えっと」
「コンウェイでいいよ。それから敬語も必要ないから」
「え、あ、うん」
「それから、さっきも言ったけど"オレ"は君の恋人だよ。勿論、男だ」
まくし立てるように言われた言葉に頷く。凄く怒らせてしまったことは間違いないのだが、どこか彼に動揺が垣間見えた気がした。
「……やっと目が覚めたばかりなのにごめんね」
我に返ったかのように再び微笑みを湛えて彼が言う。彼がもう怒っていなさそうな事に安心して息をつく。随分優しい人と付き合っているのだな、『私』は。
「…あの、気になっていたんだけど私どうして病院にいるの?」
「…ああ、君は事故に遭ったんだ」
「…事故?」
身体中にに巻かれている包帯をみる。この分だとかなり大きな事故に遭ったのだろうか。ナマエ・ミョウジは。
「そう。ボクもその場に居たわけではないから、あまり詳しいことはわからないんだけど」
眉を下げて悲しそうに言うコンウェイに、この話は続けるべきではないと直感で理解する。私は、記憶が無いから自分が事故にあったなんて言われても他人事のように感じるけれど、コンウェイは違うのだ。
「…あの、えーと、コンウェイって私の恋人…なんだよね?」
「そうだね」
「じゃ、じゃあ私まず貴方のことを知りたいんだけど」
私の言葉に、コンウェイは目を瞬いてからまたさっきの笑みを浮かべる。その笑顔が少し嬉しそうに感じたのは気のせいなのだろうか。
「勿論。何から話そうか?」





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