text | ナノ

肌を突き刺すような冷気に思わず体がぶるりと震えた。手を伸ばして頬に触れてみるけれど、肌は冷え切っていて感覚が曖昧だった。そのまま手を口元へ持っていき小さく息を吹きかければ、それに反応するかのように空気が白く凍る。
「…さむ」
これはもう雪が降ってもおかしくないだろう。そう考えて空を仰いでみるが、そんな気配は全くない。悠々閑閑と広がる雲を睨みつけながら足を進める。足元の草花はどうやら朝露を凍らせてしまったようで、踏むたびにしゃきりしゃきりと悲鳴を上げた。それが面白おかしく感じた私はわざと歩幅を狭めて歩く。
そういえば、こうやって一人になるのは久しぶりだ。
基本的に集団行動が中心なので、旅の最中で自分の時間というものを手に入れるのはなかなか難しい。皆と一緒に居るのは楽しいけれど、それでも時々一人きりになりたいと思うことはあるわけで。
「ま、寒いしね」
こんな早朝からわざわざ寒い空間に飛び出したいと思う人間の方が少ないだろう。つまり、暫くは誰も来ないと見て間違いない。
そう考えると自然と足取りは軽くなる。
近くの草はもう鳴らし尽くしてしまったので、また別の草原を探して歩き出す。さくさくと進んで行き、見付けた草を踏みつける感覚を楽しむ。暫くそれを繰り返してどれほどの時間が経ったのだろう。すっかり草を踏みつけることに夢中になっていた私は背後に近付いてきた気配に全く気付かなかった。不意に後ろから聞こえた唸り声で、漸く振り返るとそこには荒い息を立てている魔物が立っていた。
理由はわからないけれど、とりあえず興奮状態にあることは見て取れた。冷や汗をかきながら、ナイフを手にしようとしたところではたと気付く。野営地を出る時、私は武器を持っていただろうか。慌てていつものポーチへ手を入れるが、やはりナイフはそこに無かった。
常日頃から注意が足りないと彼に言われていたことを今更思い出して思わず溜息をつきそうになる。今はそんな場合ではない。後悔なら後でも出来るのだから。
ちらりと視線を後方に向けてみる。気付かずにかなりの距離を歩いてきていたようで、野営地は大分遠くに見える。取りに戻るのも助けを呼ぶのも難しい。本当にどこまで私は馬鹿なんだろうか。
「…どうしよっかな」
朝起きたら仲間の惨殺死体があるなんて笑えないだろう。新聞の見出しに載っている未来の自分まで考えてから慌てて頭を振る。本当にそうなったら困るのだから今はそれを回避する努力をするべきだ。
気を取り直して魔物を睨みつける。すると向こうも牙を立てて威嚇をしてきた。恐らくこれは縄張りに入った私に対して怒りを現しているのだと思う。今の季節は冬。産卵時期とは考えづらい。もしもこの魔物が温厚であり、尚且つこの威嚇はただの警告なのだと仮定すれば。
私が彼らの縄張りから出て行きさえすれば特に向こうから攻撃はしてこない…なんてことは無いだろうか。
一縷の望みをかけて、背を向けないように注意しながらゆっくりと後退していく。出切る限り無駄な刺激をしないよう最善の注意を払わねばならない。
じりじりと後ろへ下がる私を魔物はその場でずっと威嚇している。今のところ近付いてくる様子はない。
もう少し、もう少しだからその場にいてね。すぐにあなたの縄張りからは出て行くから。
心の中でそう呼びかけながら足を後ろへ置いたとき、枯れ木らしきものを踏んでしまった。ぱき、と不幸の音を立てたそれに魔物の耳がぴくりと反応する。…どこまでついてないんだろう。
「…わああ!?」
刹那、突進してきた魔物を見て反射的に左へ飛んだ。奇跡的に避けられたけれど此方も咄嗟で体制が悪かったため着地を失敗して転んだ。急いで顔を上げると、再び此方へ向かって突進をしようとしていた。早く避けなければ。立ち上がろうとしたところで、左足に強い痛みを感じてバランスを崩した。先程の着地で痛めたのかもしれない。
何故こんな時に。視界がぶわりと滲んだ。
魔物が地を蹴る音がする。
落ち着け、落ち着け。まずは治癒術を掛けなければならない。しかし、このタイミングではまず間違いなく間に合わないことは明白だ。
右足だけでもなんとか動こうとするが、それでも間に合わない。左足はもう捨てるか、しかし捨てたところで次はもう避けられない。どうする。
魔物はもうすぐ傍まで来ている。
どうする。どうすればいい。
やってくるであろう痛みに強く目を閉じたその時、
「ライトニング!」
聞き慣れた声が聞こえて目を開く。目の前に居たはずの魔物は何故かは倒れていた。ぽかんと固まっていると今度は魔物の体を何処からともなく現れた金色の剣が貫いた。何が起きているのか理解するよりも先に、強い力で手を引っ張られて立ち上がる。
「この馬鹿!!」
怒鳴られてそのまま有無も言わさず抱き上げられた。そして彼は凄い速さで走り出した。バランスを崩しそうになったので慌てて彼の首元に抱き付く。
何故、彼がここに居るのだろう。
上手く動かない頭の中でその疑問が浮かび上がる。けれど、今それを聞くわけにもいかない。
彼の体温を傍で感じて、自分が生きていることを実感した。まだ治まらない動悸と恐怖から涙が零れそうになる。それを誤魔化そうと、再び強く目を閉じた。





野営地の近くまで戻ってきて、コンウェイは私を降ろしてくれた。怪我をしたとは伝えていない筈なのに左足に負担が掛からないように気を遣ってくれているのがわかった。彼だってそこまで体力がある方では無いというのに。荒い呼吸を繰り返しているコンウェイの頬に傷を見つけた。ファーストエイドを唱えようと慌てて手を伸ばすが逆にその手を掴まれてしまった。そのまま顔を上げたコンウェイに鋭く睨みつけられてびくりと肩が跳ねる。
「何してたんだ」
その声色の冷たさに背筋が粟立った。一瞬でコンウェイがどれだけ怒っているのかを理解して顔からさっと血の気が引いていく。
「さ、散歩…してて」
「散、歩…?」
正直に告げると、コンウェイの切れ長の眉が一瞬動き、綺麗な目がすっと細められる。ああ、不味い。本気で怒らせてしまった。普段温厚でほとんど怒りを表に出さないコンウェイだからこそ、本気で怒ったときの恐怖は筆舌に尽くし難いものがある。
「武器を何も持たずに一人で散歩?へえ、そうなんだ。楽しかった?」
笑顔を浮かべているけれど、目が全く笑っていない。どうしよう。先程の魔物より今のコンウェイの方が怖いかもしれない。
思わず身を引こうとするが、彼の手に力が篭って阻まれる。手首を痛いほど強く握られていたが、それを振り払うことは出来なかった。
「いや…あの、ごめんなさい」
「は?何に謝ってるんだいそれ。悪いと思ってるから謝ってるんだよね?」 
「ひ、一人で出歩いていたことに対して…」
「誰も一人で出歩くななんて言ってないだろ。ああでもナマエみたいな『馬鹿』は一人で出かけないほうがいいかもね」
馬鹿の部分を強調するように言うコンウェイに言い返そうにも、今回は私が全て悪いので何も言い返せない。そんな私に構わずコンウェイは続ける。
「君さ、そんなに死にたいの?ああもしかして自殺願望でもあるのかな。それなら魔物の手なんか煩わせなくてもオレが殺してあげるのに」
「ち、ちが…」
「ほら、オレならナマエを苦しませずに殺してあげるよ」
そう笑ったコンウェイが私の手首を掴んでいた手を離して、私の首へと伸ばす。彼の目は本気だった。本気で私を殺そうとしている。彼の手が首を包み込むように回された。ひやりと冷たい手のひらに心臓が掴まれたような感覚に陥る。抵抗しようにも恐怖で腕に力が入らない。コンウェイは相変わらず笑っている。この笑顔だけを見たら、まさか恋人の首を絞めているなんて誰も信じないだろう。
ああでも、魔物に殺されるよりもコンウェイに殺されるほうがまだ幸せかもしれない。きっとコンウェイは優しいから、宣言通り楽に殺してくれるはずだ。私が死んで、そうしたら彼の隣には別の人が立つのだろうか。私ではない、別の人が。
……それは、少しだけ、嫌だな。
そんなことまで考え始めて、気が付いたら私の目からは大粒の雫がぽろぽろと落ちて行った。
何かある度にすぐ泣く自分の性格が心底嫌いだった。
目に力を込めるけれど、涙は止まるどころかどんどん溢れてくる。どうしようもなく悲しくなってきて、私は目線を下げた。
すると、コンウェイが大きく溜息を吐いた。そして首に充てがわれていた手が緩み、そのまま後ろへ回される。強く強く抱き締められて背骨が悲鳴をあげそうになる。
「…もしボクが間に合わなかったらどうするつもりだったんだ」
背中へ回された腕が熱い。耳元で聞こえるコンウェイの優しさにもっと泣きそうになった。
「……ごめん、なさい」
「君はもう少し注意深く行動しろっていつも言っているだろう」
「…はい」
「頼むから、あまり心配を掛けさせないでくれよ」
いつもより少しだけ掠れた声で囁くように言われたその言葉に小さく頷く。やっぱり、彼の隣に居るのは私でありたい。コンウェイの腕に抱かれながら、そんなことを思った。





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