夜がやってくる。
チリチリと、肌が焼ける違和感。衣服が擦れるだけでもざわざわとした感覚がして、吐く息から熱が零れ落ちていく。
まただ。
また、あの不快感だ。
身体は知っている。継続的に与えられたものが何なのかを。それは薬であって、毒であって、麻薬だった。
――気持ち悪い。
そう、あの男は言った。
浅ましいと。醜いと。生かされているだけの家畜が、請うことはみっともないと。
「―――…」
思い出すのはそんな記憶ばかりだ。
あんな写真のような、温かい世界など知らない。あんなニンゲンのように、笑う自分など知らない。
写真は、結局持って来た。捨てられないような気がした。けれど、もう一度見る気にもなれなかった。
すぐに返せばよかったのに。
ニセモノの自分が持っていたって、仕方ないのに。
もう戻らない。返れない。取り戻したくても、どこに落としたのか分からない。
ただ過ぎ去っていた平和な日々は、自分のものじゃない。――私じゃない。
ここにいていいのは。
「……っ、」
ぐちゃぐちゃになった頭が、瞳から思考を零すように涙を流す。
そういえば、泣いたこともなかったな。泣けばお仕置きと称した、それが、ひどく怖かったから。
止め方も分からない。
どうして、こんなに脆く成り下がってしまったのか、なんて。
「ロゼ」
がちゃり、と。
部屋のドアが開けられた。
入って来たシュウは、静かに泣き続けるローゼリッテを見て、ぎょっとしたように慌てて駆け寄ってくる。
「や、やっぱ傷ついてたのか、お前」
「うわ、シュウサイテー」
「サイテーだよね」
「うるさいっての!てか付いてくんなって言っただろ!」
「抜け駆け禁止ですぅー」
「その条例作ったの誰だよ!」
シュウの後ろから、ザラとヤマトが続いて入って来る。
緩慢に体を起こせば、ふたりがよいしょ、と部屋に備え付けられたテーブルの上に何冊かのアルバムを並べている姿が映った。不思議そうな顔をしてローゼリッテが固まっていると、おいで、とザラが手引きをしてくれる。
「先に言っとくけど、俺は今のお前も好」
「言わせねぇよ?ほら、今まで誰もちゃんと話してなかったと思って持って来た」
ちっ、と盛大な舌打ちをするザラは無視だ。ヤマトがくしゃりとローゼリッテの髪を梳くと、シュウが、バツの悪そうな顔をして頭を下げた。
「…まさか泣くとは思わなくって」
楽観的に考えていた、というのはあながち間違いではない。
いずれ戻る。それが当たり前だから。そう、思っていたのも事実だから。
「俺は…一緒に歌ったり、一緒に考えてくれたり、…そういうお前がまた帰ってくると思って…。…そりゃあそれが嬉しいけど、でも……」
そっと、シュウが手を重ねる。
まだ、幼さの残る手だ。ひどい目に遭って、傷ついて、…それに耐えてきた手だ。
彼女の顔を見た瞬間、俺が守らなきゃと思った。
また傷つかないように。悪意から逸らしてあげないと、と。
なのに、今のローゼリッテのことは何も考えてなかった。
どう考えてるか、どう感じているか、なんて知る由もなかった。
浮かれていたなんてとんだ言い訳。俺が守りたかったのは、ローゼリッテのお人形さんじゃあないのに。
「俺がお前を守るって言ったの、嘘じゃないからな」
手を握って、顔を見て。
「“お前”を守るんだからな。大体、よく考えたら昔のロゼなんて守らなくても十分なやつだったし」
「勝てたことないしな」
「実力でも身長でも?」
「話に水差すなよ!あと今は俺のが大きいから!!…じゃなくて!」
シュウが言葉を続けようとした時、きゅ、とローゼリッテがシュウの手を握り返した。
力を加えれば傷を負わせてしまうかもしれないから。そう思って返したその手は、意図せずぐっとシュウの胸を掴む。
「……り、がと」
それだけじゃ足りないような気がして、首を絞められたような喉から、精一杯に息を零した。
馬鹿みたいに脆い自分を、受け入れると言葉にしてくれたお礼を言いたかったから。
望まれるのが私じゃなくても、“私”を守ると言ってくれたお礼を伝えたかったから。
請うのではなく。
人として、感謝の意を示したかった。
「ありがとう」
言い終えた瞬間、ふ、とローゼリッテの身体から力が抜けた。
崩れ落ちるローゼリッテの身体を支え、シュウはぐわぁと体が熱くなったような錯覚を覚える。
いやコレ、錯覚じゃない。
ダメなやつ。めちゃくちゃダメなやつ。
でも、完全に今更のやつ!!
「何だこの可愛い生き物!!」
「はいシュウ死亡ー」
「ようこそこちらの世界へ。死ね」
「うるせぇそれどころじゃないわ!さっさとリドルのとこ行くぞ!!」
そうして、慌ててリドルの元へ駆けつけた3人は。
当然、抜け駆け禁止同盟陣にこっぴどく叱られるのであった。
☆
「おはよう、ローゼリッテ君」
「…ん」
「何故体調が万全でないのを黙っていたのかはさておき、熱があるんだ。ゆっくり寝ていろ」
目が覚めると、ひどく体がだるく喉がジンジンと痛かった。
ゆっくりと体を起こすと、国の総統、グレイがベッドの縁に座っていた。きょろりと視線を回すとどうやらここは医務室のようだ。もう何度もここへ来ているから、すっかり馴染みの場所だった。ある意味では自室よりも。
グレイはシュウ達が持って来たアルバムを眺めており、時折懐かしむような表情を見せる。
「…俺とお前は幼馴染でな」
ふと、グレイが、アルバムを眺めながら口を開いた。
「5歳の時に軍人を志した。天下を取ると意気込む俺にお前は呆れていたがな」
「………」
「そう、その顔だ。懐かしいな、ローゼリッテよ」
懐かしい、と言われても。
憶えていない。だがこの男が嘘をつくとも思えず黙っていると、グレイは続きを語り始める。
「10歳の時、軍に志願した。もちろんお前も一緒だった。大人に囲まれ、学び、お前は立派な参謀になってくれた。俺専用のな」
「…そりゃあ、どうも」
「もちろん、今でもそう思っている」
ぐい、と真正面から顎を持ち上げられ、思わずあの時の事を思いだした。
舌を噛んだ時。キスをされたこと。
ローゼリッテが動けずにいると、グレイは耳元に顔を寄せ、そして、囁くように言った。
「お前はお前だ。誰が何と言おうと、それだけは心に留めておけ」
“おい、辞令を見たか!?ローゼリッテ!”
“はいはい。オメデトウ隊長さん”
“む、どうした副隊長殿。嬉しくないのか?”
“肩書が重いんだよ。これから面倒なことが増えて行くと思うと…”
“何を言ってんるだローゼリッテ。お前はお前だ。誰が何と言おうと、それだけは心に留めておけ。それで十分じゃないか”
“はー?”
“お前は変わらず俺の相棒をやってくれていればいいんだ。肩書なんてフレーバーに過ぎない。だって――”
「……“ただお前がそこにいれば、俺は安心して全力を出せる”――」
不意に。
口から零れ出た言葉は、誰のものだったか。
グレイが、驚いたように目を見開く。その瞳とかち合って、ようやく、ひとつ、思い出せたような気がした。
“私”は、――間違いなくここに居たんだと。
「…そうだ。ローゼリッテ」
グレイが、ローゼリッテの頭を撫でながら微笑む。
「少しずつでいい。思い出せなくてもいい。ここに居てくれ。…俺のために」
「いや、俺たちのためな」
急にグレイの後ろから現れたピュールが、グレイを押しのけてローゼリッテの手を取る。
「ただいまー!疲れたー!そして癒してー!」
「重いぞピュール!疲れたってお前黙ってただけだろう!」
「それがどんだけ神経使うと思ってんだよ!!」
ぎゃいぎゃいと言い争うふたりを見比べて、ローゼリッテは困った顔で肩を竦める。
全く、困った人たちだ。
昔の自分はさぞ苦労したことだろう。…今と同じに。そんなことを思いながら、ローゼリッテはふと小さく笑みを零す。
その向こう。
ドアの隙間からその様子を眺めながら、
「……え、俺完全に出遅れてへん?」
ぽつりと零すメロウの言葉は、誰の耳にも届いていなかった。