LadyBrown





黄昏の海の香りが漂っている。

雑多に点在する人の影も、癒えぬ胸の痛みに伴って陰となり、与える孤独感の緩和にのみ、その身に呼吸を宿す。
櫓幻(ロゲン)は掠れ行く橙色に似た、淡白い閃光を永遠に目に焼き付かせていた。

  
 1

 茹だるような夏の蒸れた香りを鼻へと吸い込んで、櫓幻は視線を左右へと動かす。目的地の周辺に辿り着いたということはわかったが、ここから先の詳しい地図は何処にもない。地図のアプリと、姉から知らされているホテルの名前をコピーペーストしてなんとか辿りついたものの、移転でもしたのか、はたまた、元々地図に登録された座標が合っていなかったのか。正確性には欠けることを知っているが為に、期待はせずに目視で道路の看板から、ホテルの名前を探した。
 サイトを確認してみれば、言語の違いから詳しく読み取ることはできなかったが、似たような通りの名前を見つけた。そこからはそう遠くないが、ここは沿岸沿いにまばらにホテルが立ち並んでいるので、明確にどれだというアタリはない。
「まためんどくせえ場所だな」
 はあ、と仕方なしに漏れるため息を他所に、櫓幻はガラガラとキャリーケースを引いて歩く。遠方に出ることが多いからか、半年前に買ったにも関わらずもう足元がすり減っている。消耗品であることは知ってはいるが、こうもすぐ弱られちゃ、キャリーケース代も馬鹿にはならない。時折、石を巻き込んでガタンと揺れるケースを力任せに引っ張りながら、法定速度よりも早く駆け抜けていく車の隣、ところどころにゴミの散らばる歩道を進んでいく。
 空港から幾つかの公共交通機関を乗り継いできたが、正直に言ってここらが一番治安がよろしくない。晴れ舞台だという結婚式で、こんな土地を選ぶあたり、センスの悪さが伺える。もっとも、姉弟である櫓幻もそれを好むので、人のことは言えないのだが。
 
 漸くホテルに辿り着いた頃には、早すぎたかと懸念していたチェックインの時間を過ぎたぐらいだった。徒歩の時間が意外にも長かったので、腹が空いたなと思いながら、部屋のハンガーに一張羅を掲げる。
 祝いの席にこんな形で同席することはあまり無いので、色々と考え込んだ末に、結局定番を気にしていない好みのスーツで参加することにした。大雑把な姉の考えることだ、相手方の家がどうかは知らないが、少しばかり歳の離れた弟の服装なんて、好きにしなさい、と笑うことは目に見えていた。逆に、単調すぎる服で参加しようものなら、借りてきたの? と不思議そうに疑問を零されることだろう。

 部屋のベランダで煙草を吸っていれば、ピンポーンとベルが鳴る。携帯灰皿に煙草を押し付け、火が消えたのを確認してから、櫓幻は部屋の扉を開けた。
「ひさしぶり、ロゲン」
「ひさしぶり、姉さん」
「元気そうでよかったわ」
 訪問者は櫓幻をここへと呼んだ張本人である姉だった。
焼けた小麦色の肌、ノースリーブのハイビスカスのような花柄のシャツにパンツと、年相応の佇まいだ。
 久方ぶりの挨拶でハグを交わし、互いに頬にキスをしてから離れる。茶色く長い髪からふわりと香る、昔と変わらぬシャンプーの匂いに、ああ、本物の姉だ。と改めて感じた。
 ゆるやかにウェーブがかった髪の毛も、昔と変わることはない。
「夕飯、一緒にどうかしら」
「ぜひとも」
「ふふ、じゃああとで連絡するわ」
「わかった」
 他にもやらねばならないことがあるのだろう。姉は早々に部屋を去り、夕刻を過ぎた頃、迎えに来た姉一行とホテルの近場のレストランで櫓幻はその日始めての食事を口にした。粗野な見た目とは裏腹に、味付けは濃い目で、多種の香辛料が使われており、素直に美味しいと顔が綻ぶものだった。
 向かいの席に座る、初めて目にした姉の夫は優しげな雰囲気の男で、にこりと笑顔を添えて、握手を交わし、姉をよろしくお願いしますと言えば、姉は少しばかり怒ったような素振りを見せて、なにを照れてんだと櫓幻はその姿を茶化した。
 気を許し合える仲なのは良いことだ。強気な姉の、甘えたがりな一面も、きっとこの男なら支えることができる。
「あたしだけじゃなくって、ロゲンはどうなのよ? 恋人は居るの?」
 仕返しと興味を含めた姉の問いに、櫓幻は眉を下げた。
「いいや、居ない」
「どうせここ数年居ないってぐらい、縁がないんでしょう」
「そこまでバレてたか」
 昔から自分が恋愛に無頓着なのを知っている姉は、櫓幻に向かって得意げに笑ってみせた。
「そこで、あたしの知り合いなんてどうかしら」
 との提案に、櫓幻は姉さんの知り合いなんて癖が強そうだ、と言葉を返す。
 途端に違いないなと姉の夫が笑い、ちょっと、と姉は頬を膨らませる。姉の気の強さは周知の事実であるし、その周りに集まる友人らに癖がある、というのも図星なのか、姉は拗ねたようにだってそのほうが楽しいじゃないと子供らしい意見を口にした。
「そうだな、姉さんよりもスタイルがいいなら、考える」
「あら、あたしの絶世の美とも言える容姿を超える人間が居ると思って?」
「じゃあこの話は無かったことに」
「うそよ、うそ。ボン・キュッ・ボンが居るわ。とんでもないのが」
 慌てたように手で身体の抑揚を説明するので、櫓幻は声を上げて笑った。
「はは、どうしてそんなにくっつけたがるんだよ」
「心配なのよ、姉として」
 天然が過ぎるぐらいだけど、とても良い子なのよ。と姉が続けるので、じゃあ今度紹介してくれと櫓幻は返した。

 昔から、姉は心配性で、特に櫓幻の恋路に口煩かった。
 全く付き合ったことがないわけでもないのに、高校の時は頼んでもないのに、代わる代わる姉の友人と二人きりにされ、相手方にアンタも大変ねと同情されることも多かった。
 自分の目の届く範囲で幸せになって欲しいのか、はたまた、そうじゃないと安心できないのか。本当の理由は姉しか知らないだろうが、おかげでライトな交友関係が築けたし、今ではどんな女性とも臆せず話すことができる。
 ひとつのお付き合いとして、少しばかりの身体を含めた友人関係を築くことは容易だが、長く恋人として付き合うというのは、飽き性の櫓幻にとっては結構大変なことなのである。姉はその辺りの理解をしておらず、何度やんわりと断っても、また新しい話を持ち出してくる。なので櫓幻は姉からこういった話が上がると、また今度なとすぐに話を流すようになっていた。
けれど流石に今回は既に連絡先を取り出しているし、逃げられないかと観念して番号を貰う。連絡しなかったらタダじゃおかないからね、と横暴すぎる姉の所業に苦笑した。隣を見れば、姉の夫も苦笑いだ。

 姉と自分には、他に家族がない。

 血縁関係的に姉弟であることは知っているが、親は櫓幻が産まれる前に失くしている。孤児院で育てられ、姉が高校に、櫓幻が中学に入る時には姉と共に孤児院の管轄であるワンルームに住んでいた。通常よりも安い家賃で、アルバイトをして生計を立て、学校に通っていた。
 姉は昔から活発で明るく、人望のある人間だった。様々な人種に好かれ、けれど決して媚びるようなことはなく。幼い頃から芯を持った性格をしており、まあ詰まるところは、自慢の、姉だったのだ。今は昔ほど力強く、ガツガツとした物言いはしないが、その分歳相応の淑やかさが出ており、どれだけ時を重ねても、魅力の無くならない人だと櫓幻は思う。自分を初めて孤児院の外に連れ出した時も、大丈夫、お姉ちゃんが守ってあげるから。と、不安を払拭する太陽のような笑顔で笑って。
 憧れの、姉だった。
 今も輝きを失わぬその笑顔に触れたくなる。
風になびく茶色い髪を梳いて、その耳に愛を囁きたくなる。好きだ、と、愛してる、と、どれだけ定番の台詞を紡いでもまだ足りないのだ。離れぬように抱き締め、この腕に永遠に閉じ込めてしまいたい。
 そんな、想いを抱えていた。
だったら虚構の恋愛に現がいかないのも、当然仕方の無いことなのだ。だって本命は目の前にある。手を伸ばし届かせることは簡単でも、腕の中に閉じ込めることは絶対にできやしない。実の姉、唯一の家族、信頼できる、人間を、どうして裏切ることができるのか。
 自分が出しゃばることは姉の為にはならないのだ。
唯一の姉には、誰よりも幸せになって欲しい。
 それはきっと姉も同様に櫓幻に抱いている感情だ。だからこんなおせっかいを続けて、幸せを見届けたがる。そんなものがなくとも、櫓幻は姉が幸せそうに笑っていれば、充分に幸せだというのに。
「それじゃあまた明日」
「寝坊しちゃダメよ?」
「寝過ごすのはつまらない数学教授の授業だけさ」
「あらあら、懐かしい話」
 くすくすと何処と無く気品を漂わせて笑う。姉は少しだけ、昔と変わった。夫の人柄を吸い込んだように、少しだけ、大人しくなった。前ならすぐに頬を抓られたりしたものだが、それはポン、と櫓幻の頭に乗せられた手のひらに変わってしまった。
「遅刻はしない、約束よ?」
「遅刻はしない、約束だ」
ならよろしい、とまたあどけなく笑って、姉はくしゃりと櫓幻の頭をひと撫でしてから、踵を返した。見送る背中が夫の背に寄り添う。並んで歩く、茶色い髪の女性。夫と腕を組んで、姉の歩幅に合わせ、ふたり帰路に着く。
「……もうあの痛みは、味わえないのか」
昔の出来事をなぞることはなくなった。
大事な部分が、少しずつ変化していく。もう姉は、自分の姉ではないと。頬を抓るのではなく、頭をポンと撫でるような、優しい姉になってしまったのだと思うと、そこはかとない寂しさだけが、櫓幻の、胸の内に残った。









 花束が揺れる度に花弁がひとつふたつと落ちていく。淡いピンクや白、鮮やかなオレンジに濃厚な赤色の花が咲き誇り、呆れるほどにぶんぶんと姉が振り回すので、天然フラワーシャワーもいいところである。
 友人に手を振り返すのはいいが、そんなに力強く振れば花束が可哀想だと思いながら光景を見つめていれば、夫の顔にその花束がぶつかってしまい、あたふたと慌てている。相も変わらず、忙しない姉である。
「まだ控室なのに、暴れすぎだろ」
「暴れてるんじゃないわ、身体で感謝を表現してるの」
「へえへえ、部屋を汚すのもほどほどにな。……大丈夫ですか?」
「うん、ちょっと痛い」
 ため息混じりに声をかけると、開きった姉がまた花束を振り上げたので、それがまた夫の顔に直撃する。とんだ災難だなと思いつつ、心配そうに夫の方に尋ねれば笑顔のまま答えられた。その言葉に、姉はまずいと思ったのか、コホンと咳払いをしてから、そっと花束を膝の上に置いた。
「はじめからそうしてりゃいいんだ」
「だってソワソワするんだもの」
 こういったかしこまらないといけないような、神聖な場所がとてつもなく緊張するのか。なまじリーダーシップがあるだけに、表舞台に立つことには慣れてはいても。愛する人との晴れ舞台は照れが残るのだろう。
でも実際のところ、そこに立ってしまえば何もなくなる。緊張も、動機も、気心の知れた友人が笑顔で迎える中で、ただ愛する人とその誓いを神に立てるだけだ。
お互いしか目に入らない。女性であるならば、最高の幸せだ、と言われるイベントに、姉はいつも通りで居る為にも高揚する気持ちを抑えようと、身体でなんとか発散させようとしている。
後で掃除する人を哀れには思うが、気丈な姉の慌てふためく様は見ていて少し面白い。

時計を見れば丁度良い時間になっていたので、じゃあまた後で、と夫側の親族と入れ違いに、櫓幻は部屋を出た。



真っ白な教会に、真っ白な人間がふたり。
ゆったりとした足取りで、未来を掴む為に歩いていく姉を横に。
 中身とは裏腹な細い指が、しっかりと己の腕を捉えている。姉はこれで幸せになれる。新しい家族ができる。神に誓って、彼を愛し抜くと、言葉を、儀式を立てる。

ヴァージンロードを進むほどに、姉の夫が待つ台座が近づくほどに、自分の身体が不思議と強張る感覚に陥る。何を緊張する必要があるというのだろう。俺は姉の幸せを、心から願っている。姉の夫に不安な要素はひとつも無い。

だから何も恐れる必要なんて、ないのに。と。

平静を装って緊張していた姉を見ると、ふ、と微笑みを返された。
それは心配するようなものでも、不思議そうなものでもない。産まれてからずっと一緒だった、慈愛に満ちた、俺への愛情に満ちた眼差しだ。
――ああ、このまま奪い去ってしまえたなら。
この腕に閉じ込めて、駆け出して行くことができたら。
「………幸せにな」

「……あなたこそ」
 俺の姉が、腕から離れていく。
 手に取った男の、この腕が、俺であれば。

 どんなに、よかっただろうか。


   *

「ロゲン!」
「ん? っと、あぶねーな」
 飛びついてきた姉を慌てて抱き止める。挨拶代わりのキスを交わし、へえ、その服も似合うなと手持ち無沙汰に褒めれば、なんでも似合うからねと得意げに笑った。
 結婚式を終えて、ホテルの芝生でのバーベキュー兼飲み会を前に、煙草を吸いたくて着替えたあとに喫煙スペースのある場所に出てきたものの、姉は煙草が嫌いなので、残念ながら今は吸えそうに無かった。
 
 これから姉と夫はどの辺りで暮らすだ、ハネムーンは何処に行くのだとの世間話を煙代わりに、へいへいと適当な相槌を打つ。
 話の抑揚に揺れる茶色いウェーブのかかった髪。
 誰のヘアアレンジか、南国の花と葉が結われた冠が頭に乗っている。
そういえば昔、孤児院の裏庭に咲いていたシロツメクサの冠を作ったことがあったなと、ぼんやりと思い出していれば、ちょうど視線がそれにあることに気づいたのか、姉が同じ話を振ってきた。
 あの時の姉はたいそう不器用で、うまく作れなくて泣いていただの、あんたが器用すぎたのだの、懐かしい話に花を咲かせた。
 他愛もない、世界に二人だけの姉弟の時間。
 際限もなく、言葉を紡いで、ふと腕時計を見れば小一時間が経ってしまっていたので、姉に伝えると慌てふためいて、時間が経つのは早いと口にした。
「ほら、また喋れるんだから、さっさと行くぞ」
「そうね、でも来てくれないかと思って。引き止めに来たの」
「こんな時ぐらいは、出るに決まってんだろ。それに新しい出会いがあるかもしれないしな」
「あたしが紹介するって言ったじゃ……ううん、この際このタイミングでも……」
 席も何も関係の無いバーベキューだ。女性と喋ることに慣れている櫓幻からしてみれば、姉や姉の夫の友人たちばかりが居る場でも喋ることは苦ではない。
 姉は櫓幻が欠席すると思っていたのか、わざわざ喫煙のタイミングを狙い捕まえに来たらしかったので、そんな心配しなくてよかったのに、と、そのまま姉と一緒にバーベキュー会場であるホテルの敷地にある芝生へと向かった。
 開けた視界、一面の海原をバックに、ロケーション重視でこんな外国の地を選んだのだろうなと想像がつく。一部分が石のタイルになっており、そこに火元が設置されている。
 既に殆どの参加者が集まっていて、遅いぞと野次が飛んで来たので、姉と自分は小走りで集団へと合流した。
「主役が遅れて来てどーすんのよ、こら」
 気心の知れた、姉の長年の友人がこつんと姉の額を小突く。
 櫓幻はそれを眩しそうに見つめながら、知らぬ人々の中に割って入った。
 その後は飲んで食べ、姉の友人らと会話を交わしつつ、歌って踊りと、騒ぎの限りを尽くしたのであった。









酔い潰れた姉達を部屋まで送り届けて、櫓幻はホテルの敷地を歩いていた。
ビルのように立ち並ぶ部屋とは反対側、一面の海はもうすっかり夕暮れの景色に包まれていた。階段を降りるほどに海に近づき、噴水のきらびやかな光を受け、黒く影を残すヤシの木の隣、水路に掛かる橋を抜けて、敷地の中央に位置する藁屋根のバーカウンターへと向かった。
腰掛けた椅子の座り心地の悪さには目を瞑り、店員に適当なものをロックでと頼んだ。特別なにが飲みたいわけでもなかったので、出てきたスコッチにすんと鼻を慣らし、香りを楽しむ。流し込めば、熱く豊潤な香りの液体が喉を通り抜けていった。

バーベキューで飲んだぐらいの酒じゃ、櫓幻は泥酔することも叶わない。
今日は自分も酔い潰れて、何も記憶が無かったことに、したかったのだ。
とは言っても、酒には慣れているだけに、今は夕暮れの太陽を肴に飲むぐらいしかできやしないが、それでも、ずっと想っていた女性が、自分の手から離れていく感覚というのには、どうにも慣れそうにはなかった。
興味が無い為に、振られるわけでも、高望みをしているわけでもない、どうにもならならない現実を目の前にしてしまっては、酒に任せてすべてを忘れたくなる。

自慢の姉だった。好きだった。ずっと。
どんなに絹のようにさらりとした髪の美人を紹介されたって、姉の少し痛んだ茶色い髪が風になびいて、それをするりと耳に掛ける、あの動作の方がたまらなくそそられた。
鈴が鳴るようにコロコロと笑う儚げな美人よりも、豪快に、まるで太陽のように笑う顔の方が、ずっと心が穏やかになる。
風呂上がりに雑に結われた髪も、ガサガサと乱雑に撫でる手も、もう触れることはできなくなってしまった。

もう、姉は、神に誓って、違う男のものに、なってしまったのだ。
どうして血を繋げ産まれてきてしまったのだろう。
他の誰にも代えられない、たったひとりの家族として存在しているのだろう。
ひとつでも違えば、俺は、あの人を奪うことが、できたかもしれないのに。
幸せを願えるほどに、好きだったのが間違いだった。大好きな姉、大好きな笑顔を、産まれてからずっと、焼き付けていた感情を、捨てなければならない時が来た。
 やっと、終わりだ。
 己の腕から離れていく姉を引き止めたい心なんてなくなればいい。幾度と違う男との笑顔を見て、愚痴を聞いて、また新しい男の話を聞いて沈んでは弾む心の山など、ただ苦しみを与え続けるだけだと、そう、思っていたのに。

喜ぶべきなのに。その感情を失ってしまうことすらも――悲しかったのだ。

 カラリとロックグラスを回す。夕焼けを透かした薄い茶色の液体が、ガラスを跨いで視界に映る。自分自信で捨てることはできない。だから、沈む夕日よ、お前がこの感情を持って行ってはくれないか、と。
 姉とよく似た、水面に揺れる太陽に願う。

 ゆらゆらと太陽が沈んでいくほどに、白い光が場を包む。
鮮やかなオレンジが、夕闇の仄暗さと混ざりやがて夜の深淵に消えていく。
閃光が目に焼き付いて、ちかちかと視界を遮った頃だっただろうか。

「隣、いいか」
 不意に、後ろから聞こえたバリトンに、櫓幻はグラスを置いた。
「ああ」
 ギシリと後ろで椅子が軋む音がして、男が席に腰掛けたことがわかる。
 櫓幻は振り返ることなく、空気にそっと溶けてしまうぐらいに小さなため息を吐いた。
 男の空気感は、自分と酷く似通っていた。
 灰さえも吐露できぬほどに燻り、今にも鎮火してしまいそうな淡い火を、ずっと胸の内に持ち続けているような。不毛な情愛、時に任せてすべて無かったことにしたいのに、それも叶わずに、人を好きで居るという優しい感情を永遠に痛みとして抱えているのだ。しかも滑稽なことに、それすら手放すのが惜しくも、ある。
 遠くから聞こえるさざ波の息に合わせ、じっと、海を見据える。
「なあ、アンタ。少し、晴らさねえか」
 沈黙を破った、どちらかといえば軽い男の誘いに、櫓幻は肩を竦め、己の肩越しにカードキーを差し出した。
 普段なら男からの誘いに乗ることなどない。だって普段なら、そもそもこんな感情は持ってもいないのだ。だからこれは杞憂で、自暴自棄な振る舞いだ。
 いっそ酷くしてくれ。痛みを味合わせ、その代償に忘れさせて欲しい。
「晴れ、な。どうせなら、嵐にしてくれ」
太陽のような彼女を、どうか思い起こさせることがないような。 




霞む紫煙を吐き出すと、部屋の空気はいっそう濁る。
シーツを下半身に纏ったまま、櫓幻はサイドボードに置かれた灰皿にトントン、とリズム良く灰を落とし、細長い円筒を呼吸のままに吸い込む。先端で灯火が過度に燃え立つ場所と、柔らかく照らす場所とで蠢く様を横目に、部屋のブラインドから抜けて見える、日の出の赤に煌めき反射する海を見つめた。
あれからざっと12時間近い。
櫓幻の隣で眠る男のおかげで、腰が軋み、局部が痛かった。なだれ込むようにベッドに乗り、快感のみを求めて貪り合う。相手が誰だろうと構わなかった。ただ都合の良いことに、同じような境遇の男がひとり、ここに居ただけで。
「ん……、」
男が身じろいでゆっくりと瞼を開ける。琥珀色の瞳でぼうっと櫓幻を見つめているので、煙が嫌いだったのだろうか、とその視線を追っていると、男の手が櫓幻へと伸びる。すぐにその意図を察した櫓幻は、差し出された手のひらに煙草の箱を乗せてやると、慣れた手つきで男は一本取り出し咥えた。
サイドボードにライターを置きっぱなしにしていたので、櫓幻が取ろうと手を伸ばすより早く、男はのそりと起き上がり、乱雑に櫓幻の首を引き寄せる。
間近に迫った端正な顔。
溢れんばかりの火が、櫓幻の煙草の先から男の円筒へと移っていく。ジリジリと灯火が灯ったところで、男は櫓幻の首を開放した。
「名前は?」
男はふうと息を吐いて、煙を吐き出した。
櫓幻は男にぽつりと名前を返答して、携帯を見た。時刻は明け方の5時。起きるにはまだ早いので、もうひと眠りしたいところだが、身体を汚したまま眠りについてしまったので、風呂に入りたいなと、灰皿に煙草を押し付ける。
ベッドから降りようとすると、男は櫓幻の腕を掴み、ベッドの中央へと引き戻した。煙草を咥えたまま、馬乗りになられ、櫓幻は頬を引き攣らせる。
昨晩はこの男に蹂躙されたに等しいのだ。櫓幻はそもそも、そこまで絶倫な方じゃあない。途中からは男に付き合って、腰を揺さぶられていただけで、一度か二度受け身として身体を重ねたことがある程度のこの身体には、たいへんな重労働だった。
「いけるだろ」
「い、や無…………、っ」
 男の手がするりと櫓幻の腰を撫で、下がっていく。後孔の入り口を指で触れ、つぷりと挿れられると、男の指は湿らせてもいないのに、しっとりと湿り気を帯びている。昨晩、いや、数時間前まで男が中に精を吐き出した所為だろう。
「中は無理……じゃあなさそうだな。どうする?」
 指を断続的に折り曲げ、入り口付近にもしっかりと液体を馴染ませてから、男の指は前立腺を引っ掻く。ぐ、と強く押されたかと思えば、弱く小刻みに揺らされて、反射的に身体がびくびくと跳ねる。
「……こっ、……ちは、そんなに、……ッ、絶倫じゃ、ないんでね」
 案に嫌だと言えば、男の指は激しさを増す。身体をその気にさせて、いいぞの言葉以外を返させないようにしているのだ、と気づいて、櫓幻はかったるそうに、ため息をついた。
「…………クソ。好きにしろ」
「お言葉に甘えて」
 昨晩の行為のせいで広がっていたのか、男は指を引き抜くと、勃起した一物を宛がう。先端がのめり込んで、圧迫感にうめき声を零すと、さらに奥へと進んでくる。
「……名前は?」
 すべてが入りきって、下腹の奥に男の熱を感じながら、櫓幻は問い掛けた。
「端薫(タンカオ)だ」
 端薫は灰皿に煙草を押し付けながら笑みを零す。
甘いマスクに、淡い茶髪、男臭さを感じさせるような意志の強い瞳、誘われた時は顔も見ていなかったが、改めて見返せばたいそうな美形だった。
 ここまで男の身体の扱いに慣れているあたり、ゲイといったところか。
 ぼんやりとそう考えていれば、端薫が動いた。王が闊歩するように、ぐるりと回すように腰を一度動かされて、櫓幻は短く吐息を漏らす。試すような動きに、片眉を上げて端薫を見れば、視線に気がついたのか、上体を傾けて櫓幻の腕をシーツに縫い付ける。
「……余裕そうだな」
「ん、なわけ……ッ、ぅ、」
 奥をズンと突かれて、櫓幻は身体を撓らせた。あれだけ出したのに、まだ勃起できるお前がおかしいのだ、と櫓幻は端薫を疎ましげに見ると、端薫の腰の動きはさらに激しさを増していく。本人が達する為の動きだとわかっていたので、櫓幻はせめて感じぬように、と行為から目を逸らした。

 もう一度欲望を吐き出したあと、端薫は気怠そうに、眠いと身体を横にした。櫓幻は風呂にだけは入ろうと重い身体を起こし、シャワーを浴びる。
 上がった頃には端薫がすやすやと寝息を立てていたので、頬を叩き、お前も風呂に入ってこいと促した。行為でそこらじゅうが汚れ、フィッティングシーツを替えたいのは山々だが、早朝のこんな時間に従業員に頼み込むのも気が引ける。
 仕方なしにベランダの窓を大きく開け、換気ついでに煙草を吸っていれば、流し終えたらしい端薫が浴室から戻ってきた。見栄えの良い鍛えられた身体の拭き残しはもちろん、拭えていない髪からボトボトと水が床に落ちる。
「……髪も拭けねえのか、お前」
 呆れたように口にすれば、さすがに湯を浴びて目が覚めたのか、櫓幻を見据えながら口を開いた。
「放っとけば乾「あーまだ乗るな、乗るなら、せめてシーツを上に敷け」……ロゲン、アンタ結構な神経質だな」
「普通だ。これぐらい」
 逆に、今の状況から考えれば無神経なのはお前の方だ、とも言いたくなったが、大人しく上掛けのシーツを敷いてから、端薫はベッドに腰掛けた。
「普通、か」
端薫はタオルで髪を拭きながら、脱ぎ捨てた衣服から取り出した携帯を見ている。
「……ここで哀愁漂わされても困るんだがな」
「傷心者同士なのに、ひとりで部屋に帰れって?」
おどけたような笑みで男が言うので、櫓幻は何か帰るに帰れない都合があるのだろうと、察しがついた。でなければ、見知らぬ男の部屋に、事後も留まる理由はひとつも無い。
「……チェックアウト時間になったら叩き起こすぞ」
 呟くと、助かるとの声が帰ってきた。
心地良い朝日を見ながら、この街の風に頬を当てる。遠くに聞こえるさざ波の音が、いつまでも反響していた。






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