黒尾長編 Let me sleep in your voice fin

ときめく



「ヒッ!!?!」

いつも通り仕事から帰ってきた私は、奇声とも言えるような悲鳴を上げて立ち止まった。私の部屋まであと数メートル。私の家の隣で、今いる位置から見ると手前にあるクロさんの家の扉の前に…大きい物体が見えたからだ。

思わず出た声に若干恥ずかしさを覚えつつ、良く目を凝らして見ると物体は…人?蹲って抱え込んだ足に埋めていて顔は見えないし、何ならフードまでかぶっているから頭自体隠れてしまっている。
怪しさは拭えないが、私の家はその奥にあるのだ。その人の前を通らないと入れないし、あんな状態の人を無視するのもそれはそれで勇気がいる。

恐る恐る、私はその人に近づいた。

「あのー…大丈夫ですか?」
「くろお!」
「え?」
「ああ…違った…」

声をかけると勢いよく頭を上げたその人は、ギョロッと大きい目で私を見上げるとその勢いでぽろりと涙が伝った。今まで泣いてたのか、鼻の上が赤い。

「えと、クロさんのお知り合いですか?」
「!おねーさん、黒尾のこと知ってんの?」
「え…まぁ、その、」
「あ、わかった!黒尾の彼女でしょ!うわーアイツ…俺聞いてないんですけど!!」
「え!?ちちち違います!ただのお隣さんです!」

その人…同い歳くらいだろうお兄さんの言葉に慌てて否定する私の言葉は聞いているのかいないのか。勢いよく立ち上がったお兄さんは私の肩に手をかけグッと距離を詰める。

「黒尾帰ってくるまで付き合ってよ!」
「えぇ…」
「俺今日彼女に振られちゃってさぁ…後輩と飲もうと思ったのに断られて!泣きながらここ来たら黒尾もいないしよぉ…お願い!あ、もしかして黒尾ん家の鍵持ってたりする!?」
「…鍵は持ってないですけど…じゃあ、私の家来ます?」
「えっ」
「隣なんで…」
「いいの!?行く!!」


* * *


「でさぁ…うるせーって言われて…そんなん前から知ってんじゃん、って思ったんだけど、なんか彼女としてずっと隣に一緒にいるのは耐えられないんだってぇ…」
「…それもう聞きましたよ」
「えー?そうだっけぇ?っていうか名前ちゃん飲んでる?」
「木兎さん飲み過ぎじゃないです?」

クロさんのお友達、木兎光太郎さん。それしか知らない情報。彼はここに来るまでに買ってきたらしいビールをあけて、私の部屋でずっとグズグズ泣いている。大の大人の男の人がこんなに泣いてるの、初めて見たかも。今日別れたらしい元カノとの別れ話は、もう何周も聞いた。さっき初対面の私にもそんなの関係ないと言わんばかりの距離の詰め方に、よく知らない私でもなんとなく"こういう人"なんだな、とわかってしまう。いきなり名前呼びだし。

「ていうか名前ちゃんはいつから黒尾と付き合ってんのー?」
「だから付き合ってないですってば…ただのお隣さん!です!」
「ええー?怪し〜」
「なんでそんな疑うんですか…」

そんな、私がクロさんの彼女だなんて恐れ多すぎる。このお隣さんっていう関係ですら、とてつもない奇跡なのに。結局この前二度目の突撃をしてから会ってすらいないし。

「あ、黒尾から電話!」
「はいはい」

やっとこの酔っ払いから解放される…

「もしもぉ〜し」
"木兎お前なぁ…来るなら事前に言っとけっての。今どこ?"
「えっとねぇ、名前ちゃんのお家!」
"名前ちゃん?誰?"
「黒尾のお隣さん!」
"おと、え、はぁ!?苗字さん?…おまっ、最っ悪じゃん"

クロさん…スピーカーなので全部聞こえてますよ…

"ちょ、すぐ帰るから!5分で帰るから!お前余計なこと言うなよマジで"
「はぁ〜い」

ブツ、と乱暴に切られた通話に木兎さんは何も気にしていない。それどころか「だって!」と私に笑いかけるその笑顔は心底楽しそうだ。酔っ払いめ。

そして本当に5分きっかりで私の部屋のインターホンが鳴り、出ると扉の向こうには息を切らしたクロさんが立っていた。走って帰ってきたのかな。それでもいつものヘアセットは全く乱れず健在なことに少し感心する。

「苗字、さ、ん…はぁ…ドーモ」
「クロさん、こんばんは」
「うちの木兎がお世話になりました…っつーかどうなったらこうなんの…」
「クロさんの家の前に落ちてたんで、話しかけたらついてきちゃいました」
「マッジで…はぁ…ごめん、迷惑かけたわ」
「いえいえ。あ、木兎さん連れてきますね」

クロさんと会う頃には少し酔いも覚めたのか、木兎さんはさっきまで泣いていたとは思えないくらいニコニコしている。クロさんに少し睨まれてたけど。

「えぇ〜!?名前ちゃん黒尾ん家一緒に行かねーの?」
「行かねーよ、なんでだよ」
「え、だって名前ちゃん彼女でしょ?」
「違いますよお隣さんですよー…え、なにこれ苗字さんが吹き込んだの?」
「え、違いますよ!私ずっと否定してます!」
「ぶっ…そんな力一杯拒否られたら傷付いちゃうなー」
「ええ!?」
「やーい振られてやんの〜」
「うっせぇお前もだろ」

靴紐が絡まってしまっているのか「あっれぇ?」なんて言いながら一人で慌ててる木兎さんを見下ろして、それからクロさんに向き直すと偶然視線が合ってしまう。ドキッ。何気に久しぶりのクロさんだ…もう帰っちゃうけど…。もっと喋りたいけど、でもそんな関係ではない。だから木兎さんの靴紐がもうちょっと解けないで、なんて思ってしまうくらい許してほしい。

「木兎からなんか聞いた?」
「いえ、振られた話しかしてなかったので…あ」
「え、なに」
「いや、なんでもないです」
「何よ気になるじゃん」
「…クロさんって、黒尾さんっていうんですね」
「……苗字さんは、名前ちゃんっていうんですネ」
「!」

ニヤ、と笑ったクロさんにまたドキッとして、すると木兎さんが勢いよく立ち上がった。私とクロさんの間にミミズクみたいなツンツン頭が揺れる。

「いけた!」
「つーか隣だからそんなちゃんと靴履かなくていーだろ」
「あ!そっか!!」
「ま、いーや。じゃね、名前ちゃん。お世話になりました」
「名前ちゃんありがとう!また飲もうね〜!!」

ガチャン。嵐が去った。
っていうか、なに今の。絶対最後のやつはわざとだ、確信犯だ…

「クロさんに名前で呼ばれたよぉ〜〜」

慌ただしすぎてなんだか夢を見てるみたいにふわふわしている。それくらい私にはこの短時間のうちに起きた内容が濃すぎて、そして最後の衝撃が凄まじくて…この日はなかなか寝付けなかった。

Flutter


20.4.24.
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