黒尾長編 Let me sleep in your voice fin

憧れる



「最近更新されないなぁ」

お隣さんが、あのクロさんだと発覚して早一週間が経った。今までは平均一週間に一本の動画、SNSは毎日一回は投稿があったのにあの日からぱったりその更新は止まっている。

まさか、私にバレたから?とか?

それが影響することがどれほどなものかわからないけど、でもタイミングがタイミングなだけに自分の中でその疑惑は高まるばかりだった。

動画はともかくSNSも更新されないとなると、私の中のクロさんが足りない…!毎日過去のお気に入り動画は見ているけど、それでもやっぱりどうしたんだろうと気になって夜中にこっそり隣の壁に耳を寄せる私はきっと立派な変態だ。
ていうか、物音とかあんまりしないんだよねぇ。あの話し声は勿論、生活音とかなーんにも聞こえてこない。そもそもあの日までお隣さんの音が気になったことなんて一度もなかったのだからきっとそんなに壁も薄くないしそんなものなんだろうけど、それでもやっぱり気になってしまった私は。

「…は」
「来ちゃいました」
「いやいや…え?」
「こんばんは、クロさん」

本当にこの間といいどこからこんな行動力が出てきているのかしら。クロさんの家に、また突撃していた。

* * *

とりあえず入って、とあの日のように中に引き込まれ、狭い玄関で向き合う私とクロさん。この前より随分と早い金曜日の夜、早めに仕事を終えて帰ってきた私は、そのままクロさんの家にやって来ていた。そもそも家にいるのかな、といった心配は杞憂に終わり、ピンポンを押したらすぐに困惑した顔のクロさんが出迎えてくれた。

「SNSでのHNさん…いや、苗字さん?」
「どっちでもいいですよ」
「苗字さん」
「すいません、急に来て…」
「…まじでまた来た」
「…すいません」

薄暗い玄関に響いたクロさんの低めの声に、さぁっと血の気が引いた。今の私、やばくない?これはストーカーだ。この前クロさんが言ってた、"やばいファン"に分類される行動だ。
急に冷静になった私はここにいることに後悔の念が押し寄せて来て、緊張して話せないかもしれないと帰り道に脳内シミュレーションした言葉を早口で告げた。

「あの、クロさん全然更新しなくなったから心配で忙しいのかなとか色々考えたんですけどでももしかしたらこの間の私のせいかなって思ったりもしてやっぱり心配でもしほんとにそうなら私絶対誰にも言いませんし心配しないでくだしゃい!…さい」

…噛んだけど。

「ぶっ…!」
「…………」
「ひゃっひゃっひゃっひゃ!!しゃい…!」
「………笑いすぎです」
「……っ!………!」
「そんな声にならないほど笑わなくても…」

笑いのツボに入ってしまったのか、息が苦しそうに笑うクロさんをただただ待つしかない私。怒ってはない…かな…その間で少し安心した私に、ようやく笑いが収まったクロさんは言った。

「ちょっと風邪ひいてましてね」
「風邪」
「だから、苗字さんのせいじゃないよ」
「大丈夫なんですか?」
「うん、今完治した」
「え?」
「いやー、よく笑ったなぁ」
「あれは忘れてください…」

ニヤニヤしながら自然と私を招き入れるクロさんについて、この前と同じ位置に座らせてもらう。なるほど、本当に体調を崩して寝込んでいたのか。視界に入ったゴミ箱には、空のスポーツドリンクのペットボトルが数本と、薬の空箱が捨てられている。

「心配してくれてどーも」
「い、や…だって、私がクロさんの正体を暴いちゃったから、辞めちゃったんだとしたらどうしようかと思って…」
「で、また来ちゃったワケ」
「それは、ほんと、すいません…図々しかったですよね」
「でもこの前もまた来ますって言ってたよね」
「あれは、なんか緊張が解けて気が大きくなってたっていうか」
「んー…なんつーか」

ずい、と距離がつめられる。人一人分開けて座っていたクロさんが目の前にいて、急に空気がピリッとした気がした。

「苗字さんって危機感皆無だよね」
「…え?」

さっきみたいに爆笑してるでもなく、よくするにやりとした怪しい笑みでもなく、無表情のクロさんはなんだかコワイ。立っていたら身長のせいもあるのかもしれないけど、その威圧的な雰囲気はそうではなくクロさん自身から出ているもので、私が知っているクロさんとは別人のようだった。

「夜に一人暮らしの男の家に来るって、何されても知らねーぞ?」
「クロ、さ…」
「今いるのは動画の中の"理想の彼氏"じゃなくて、俺だってことわかってる?」
「や、」
「なーーんちゃって」

カチン、と映画の撮影で使うカチンコが鳴ったのかと思った。それくらいの切り替えで、クロさんの声が変わる。さっきみたいにこわくない、柔らかい空気になったのがわかった。

「こわかった?」
「少し…」
「流石にファンの女の子に手出したとかなってバレたら炎上するわ」
「………」
「ま、でもほんとに苗字さんはもう少し気をつけた方がいーぞ、俺だから大丈夫だけど」
「…はい」
「いい子」

ポン、と頭に手を置かれる。そのまま下に移動してサラリと髪を掬ったかと思うとすぐに離したクロさんの手は、大きくて少し硬い、紛れもなく男の人のものだった。自然すぎるその動作に、少しどきっとする。こんなことサラッとやってのけるなんて、クロさんは実は結構遊んでるんだろうか。

「俺別に苗字さんがバラすとか思ってないから、大丈夫よ」
「そうなんですか?」
「話してたらそんなことしそうじゃねーのわかるし、逆に苗字さんって自分だけ知ってるのに優越感感じるタイプだろ」
「なんでわかるんですか…」
「人を観察するの得意なんでね」
「そういうお仕事なんですか?」
「そういうのは個人情報なんでお答えしかねまーす」
「く…っ」
「くっ、って」

確かに私はファンであり人気のクロさんとこうやってお隣さんである関係を、誰かに言うのは勿体無いと思っているのでクロさんの観察は当たってる。まだ少ししか話したことはないのに、ほんとどうしてわかるんだろう。

「まぁこれからも、お隣さんとしてよろしく」
「!また来ていいんですか?」
「どうしてそうなんの」
「でも来たらまた入れてくれるんですよね、クロさんは」
「来たときと全然態度違くね?」
「どうせ普段のクロさんとこれからも関わることはできないのに、今緊張して話せないのは勿体ないなって」
「お姉さん今は夢か何かだと思ってんの?」
「はっ…これ現実なんですか…?」
「残念ながら現実でーす」
「ふふ、わかってますよぅ」

ちょっと調子に乗りすぎた。そりゃあクロさんとこうやって定期的にお話しできたら、何よりも私にとっては嬉しいご褒美だけど。でも今までみたいにクロさんという推しの動画やSNSを楽しみにチェックする日々だって充分幸せだったんだから。

「なので、私はちゃんと今まで通りクロさんの1ファンとして応援していきますので!」
「…どーも」
「じゃ、私そろそろ帰りますね。クロさん病み上がりみたいですし」
「ん…心配してくれてありがとな」
「いーえ!無事でよかったです!あ、クロさん」
「ん?」
「次の動画ってどんなのですか?」
「次はなぁ…って教えるわけねーじゃん」
「ちぇっ」
「更新楽しみにしててくださーい」

私が部屋に入るまで少しドアを開けて見送ってくれたクロさんの紳士っぷりに感動しつつ、自分の部屋に戻るとなんだか一気に現実に引き戻される。というか、さっきまでが夢のようだった、のか。
クロさんの家に寄ったことですっかり遅くなってしまった私は時間を確認しようとスマホを見ると、ちょうどクロさんのSNS更新通知のアイコンが出ている。

"みんな久しぶり〜。風邪でしばらくダウンしてて更新できなくてごめん…心配リプとかもいっぱいありがとな。明日には新しい動画もあげるからお楽しみにネ〜"

「!」

やっぱりクロさんがいる生活は最高だ。

Admire


20.4.7.
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