黒尾長編 Let me sleep in your voice fin

惹かれる



6話「縋る」黒尾side.


それは、突然訪れた。

ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポ

「え、なに!?」

一人なのに思わず声が出てしまうくらい、驚いて。その間も鳴り止まないチャイムの音に、恐怖心しかない。え、なに、まじでなに!?研磨?だとしたら来る前に連絡くるよな?悪戯?にしてもやばくね?…つーか、

「だーーーっうっせえ!」
「クロさああああ」
「え、ちょま、っ」

耐えきれず勢いよく勢いよく玄関の扉を開けば、それよりも更にすごい勢いで飛び込んできた何か。え、なに……
不意打ちの衝撃に負けた俺の身体は、そのまま後ろに倒れていく。ドスン、と重い音と共に尻餅をついて、飛び込んできた"何か"を認識した瞬間、それまでに少し感じていた恐怖とか痛いとかそういうのは全て忘れて、ただただ驚いた。

「名前ちゃん?ちょっと急に積極的すぎない?」

それが、最近知り合ったお隣さんだったから。

「助けてくださいいいい」
「え、なに、なんかあった?」
「ゴ!」
「ご?」
「ゴキ!…Gが!!出ました!!」
「Gかよ」
「一大事ですよおおおお」

いきなりハグというかタックルを決めてきた名前ちゃんの剣幕に驚きつつも、聞けば部屋に奴が出たと半泣きで言う。ああ、そういうこと。
確かに女の子の家に出たらたまったもんじゃないよな。まぁ男でも嫌なもんは嫌ですけど。

やっと少し状況を理解した俺は、最早癖で揶揄うようになんだ、そんなこと?なんて風に笑ってしまう。いやこれに悪意はないんだけど、でもちょっと急に抱きつかれて照れたなんてことを察されたら恥ずかしいじゃん?未だに俺の上で泣き顔の名前ちゃんは、柔らかい身体を惜し気もなく俺に預けていて。そう、これは所詮照れ隠し。
決して名前ちゃんが少し気になっている女の子だからとか、好きな子に意地悪する小学生男子みたいな思考で行なったわけではない。

そして俺がこんなことを考えている間も、余裕がないらしい名前ちゃんはぎゅうぎゅうと俺を抱きしめていて。

「わかったわかった、わかったから、名前ちゃん」
「うう…」
「とりあえず離れません?」
「え…?」
「こんなに熱い抱擁、僕照れちゃう」
「!きゃあああああごめんなさいいい」
「ぶっ、ひゃっひゃっひゃ!うるせえ!」

指摘してやれば、予想通りの反応を示してくれる名前ちゃんに今度こそ笑いが堪えきれなかった。


* * *


半泣きの名前ちゃんに引っ張られるようにして向かった名前ちゃんの部屋。入ってすぐ、なんか久々に女子の部屋に入るなぁとか呑気に思っていたが、探す間もなく視界に入ってきた黒い影と名前ちゃんの悲鳴。
押し付けられた殺虫剤に苦笑しながらも、俺も嫌だし早く片付けてしまおうと奴にそれを吹きかけた。

全ての処理が終わって、漸く落ち着いた名前ちゃんはやっとここで我に返ったらしい。恥ずかしそうな、申し訳なさそうな表情に思わず頬が緩んでしまう。さっきとは別人じゃん、って。初めて名前ちゃんが俺の部屋にやってきた日のことを思い出してしまった。

「クロさんいて助かりました…」
「俺は急に名前ちゃんに抱きつかれてびっくりしたけど」
「そ、それは…ごめんなさい…」
「いやいや、ご馳走様です」
「なんですかそれ」

赤くなっている名前ちゃんに、さっきの柔らかい感触が蘇る。
この子マジで無防備すぎない?大丈夫?なんて思いながら、一応彼氏の有無を確認するも今はいないらしくて少しホッとした。

……ん?なんでホッとしてんだ俺。別にこの子に彼氏がいようがいまいが関係ないでしょうが。……いや、これで彼氏がいたら変に巻き込まれかねないからだ。そうだ、いないならとりあえず安心じゃん。

なんて、一瞬浮かんだ自分でも理解不能な疑問を無理矢理納得させるように「彼氏いる一人暮らしの女の子の家に上がるような男じゃないんで」と告げる。
その言葉に名前ちゃんは怪訝な顔をしていたけども何故だか俺はこれ以上突っ込んで欲しくなくて、勝手に人様の部屋のテレビをいじるふりをして誤魔化した。

そのとき。ふと視界に入った封筒。

「あれ、なにあれ」
「え?うわああああああ」
「!?名前ちゃん今日元気すぎじゃね」
「み、見ないでください…!!」
「なに…手紙?…"クロさんへ"」

またもや元気な反応を示す名前ちゃんにビクリと肩を跳ねさせつつ、手に取ったそれは見覚えのある便箋で。

「これ…」

聞かないでも分かってしまった。この便箋、この文字。何度も今まで目にしてきたものと同じそれが、名前ちゃんの部屋にある。つまりこれは名前ちゃんからの…SNSでのHNさんからの、ファンレター。

「これ、初めてじゃないよな。毎回この便箋で出してくれてる?」

何でもない風にこの一言を言うのに、嫌に緊張した。

「…はい」
「でもいっつも名前書いてない」
「…恥ずかしかったんで」
「そっかぁ、これSNSでのHNさんからだったんだ」
「…もおおいいでしょ!そんなニヤニヤしないでくださいよ!」
「これでも喜んでんだけど?」
「…絶対ちょっとからかってますよね」
「ないとは言えない」
「ほらぁ!」

やばい、まじでニヤける。これは反則でしょ。いやいや、ちょっと思ってたけども?周りにも、嫌って言うほど言ってたけども?だけどまさか本当に、このファンレターの送り主がSNSでのHNさんで、名前ちゃんだとは思わないじゃん。どんだけ俺の勘冴えてんの、って。

真っ赤な顔してぷるぷる震えてる名前ちゃんが可愛い。…やばい、さっきより更に可愛く見える。恥ずかしがってんのかな、そうだろうな。だって名前ちゃんは、俺のファンだから。

いつもこの手紙が届くその日と同じように、俺はその手紙を早く読みたくて。これを読んだときの、心が温かくなるあの感覚が恋しくて。綺麗に閉じられたそれを開けようとした……次の瞬間には、俺の手から奪い取られていた。

「な…なにするんですか!」
「え?だって俺宛でしょ?もう出すだけだし。手間省けていいじゃん」
「ダメですよ!知られたからにはもうこれは出しません、処分です!」
「えっいや、それこそダメだろ」
「なんでですかぁ!だめ、恥ずかしい、無理」
「Gやっつけてやったの誰だっけ」
「…うぐっ…クロさん…」
「はい、手紙ちょうだい」
「で、でも……からかわないでください、よ」
「当たり前じゃん。俺毎回これ貰うのめちゃくちゃ喜んでますから」

って。まだ疑いの目を向ける名前ちゃんに、ちょいちょい、って差し出している手の親指以外を曲げて催促する。早く読ませてちょーだいよ。

そんな俺に、渋々。ほんと渋々…って顔をする名前ちゃんに少し笑いながら、手紙を受け取る。ああ…SNSでのHNさんからのファンレターだ。
今まで何度も何度も読み返したお陰で、もうとっくに目に焼き付いている、綺麗ででも少し左に傾いた癖のある文字。

そこには純粋にクロのファンとしてのSNSでのHNさんがいて…うん、やっぱりそうだ。いつもSNSでメッセージをくれるときとおんなじ、本当にクロを好きでいてくれるのが伝わる文章。これに俺がどれだけ救われて、…胸を熱くさせたか。

「ありがとな、名前ちゃん。まじで嬉しい」

読み終わった時にはもう、下手したらちょっと俺泣いてんじゃね?ってぐらい満たされていて。いや、泣かねぇけど。胸がいっぱい、とはこのことを言うんだろう。

「いえ…」
「今日のお礼ってことで、有り難く貰っとくわ」
「えっ、それ元々書いてたやつなのに…そんなんでいいんですか」
「大丈夫、先払いでハグまでしてもらったから」
「またそれ言う!」

あ、やばい。ドクン、って胸が鳴った。真っ赤な顔して俺を見上げる名前ちゃんが、可愛くて。いやダメだろ。その顔は、危ない。

ここにきて、ちょっと気になってるファンレターの送り主と、SNSでのHNさんと、名前ちゃんが同一人物だと一致してしまったのだ。もうこれは好きな相手じゃん。…いやいやいや、まだそこまではいってないけど。でも自分でも分かってる。多分これ、好きになっちゃうやつだなって。

急に膨れ上がってきてしまう想いと、それなのにその子と密室で二人きりという現状。これは……うん、やばい、早く撤退しよう。

脳内での俺のそんな葛藤なんて、名前ちゃんは少しも気づかないんだろう。自分なりに涼しい顔で告げた「じゃあ帰るわ」に、いかにも寂しいです、なんて顔をするから。ぐっ…だめだって名前ちゃん。いやいやダメだって、ほんと自覚して、この子。危ない。彼氏でもない男にそんな顔するもんじゃないですよ。俺だから、耐えられてるけど。これが他の男だったら、即食べられちゃいますよ?

「なーに、そんな顔しないでちょーだいよ」
「そ、そんな顔って…」
「寂しそうな顔」
「し!してません!」
「そんな全力否定しなくても。まぁ、あれだ…またGが出たら、俺んとこ来ていいから」
「…いいんですか」
「だって名前ちゃん今頼れる彼氏いないんでしょ」
「…まぁ…はい」
「その代わりってことで」

ほらぁ。ちょっと嬉しそうな顔すんじゃん。それを見て、俺の方が嬉しくなっちゃうなんて。とんだカウンターだ。知られたくない。取り敢えず今は、まだ知られてはいけない。

「じゃあね」って言って、真っ赤な顔で小さく手を振る名前ちゃんに俺も同じように手を振りながら部屋を出る。すぐ隣の俺の部屋に入って、鍵を閉めて。
そうして俺は、その場に勢い良くしゃがみこんだ。

「ああああっぶなぁ……!よく手出さなかった、偉い、俺…!」

って。俺がこんな危ない奴だって、名前ちゃんにだけは知られてはいけない。


Be attracted to


21.04.27.
title by コペンハーゲンの庭で「エンゼルフィッシュは知らない」
200,000 hit 企画より
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