黒尾長編 Let me sleep in your voice fin

近づく



「…なんでわかったんすか」

気まずそうに言ったクロさんは、私を見下ろして苦笑している。

「え、てか隣に声聞こえてるって?」
「…ちょっとだけ…そ、そんなにうるさいとかじゃないです」
「えー…じゃあ…」
「私、クロさんのファンで」
「…え?」
「毎日動画もSNSもチェックしてます」
「まじ?」
「昨日気づいたんですけど、隣の人夜中になんか話してるなって…それで、さっきも気になっちゃって壁に耳当てたら、丁度聴いてたライブ配信とリンクしちゃってもしかしてって」
「壁に耳当てて!?…ぶ…!っひゃっひゃっひゃっひゃ!そ、そんなこと…!ある!?」
「!?」

ちょっと気持ち悪いことをカミングアウトしてしまったのに、クロさんと言えばそれがツボだったみたいで途端に涙を浮かべて笑っている。その笑いは独特で、なんだか想像と少し違った。

「…はぁー…めっちゃ笑った…」
「…なんか、すいません」
「いや、まぁ…とりあえず玄関でなんだし…入ります?」
「…いいんですか?」
「誰にも内緒ネ」

どき。ニヤリ、と笑うクロさんは改めて見ると結構イケメンの部類に入るお兄さんかもしれない。そのまま中に入っていくクロさんに促され、必死に平静を装いながら着いていく。
そこは自分の部屋と同じ間取りなはずなのに、全然違う空間みたいだった。なんていうか、ちゃんと男の人の部屋だ…

「苗字さんだっけ。俺の動画見てくれてるんですよね」
「はい…あ、昨日更新のやつも見ました!めっちゃ良かったです!」
「…なんか慣れねぇな…直接言われることないから」
「そうですよね…私もこんなに近くにクロさんがいるなんて、びっくりしてます…」

そしてこんなに思い切った自分の行動力にも。

「あー…これ、誰にも言わないでくれません?」
「え?」
「ほら、俺顔出ししてないし…もし情報漏れて身バレしたら、ファンの人とか、ヤバい人とかいるかもしんないし…苗字さんも危ないっしょ?」
「そ、そうですよね…クロさん人気ですもんね…」
「そのかわり」

クロさんは一拍置いて、またさっきみたいにニヤリと笑う。

「口止め料として、なんか言うこと聞いてあげる」
「えっ」
「あれ?いらない?」
「いや、え、え…!いります!!!」
「ぶはっ…すっげー勢い」
「す、すいません…」
「いーえ。なにがいい?」

さっき焦ってたと思ったら今はもう楽しそうに笑っていたり、クロさんの表情はコロコロ変わる。警戒100%の敬語モードがこの短時間でちょっと砕けてきているのも、私がこんなにも今普通に喋れている理由かもしれない。じゃないと、こんな突撃までしておいてなんだけど普段の私に憧れのクロさんと普通に喋れるとは思えないから。

「…あの、クロさんとお話ししてみたい、です…」
「…そんなことでいーの?」
「はい!で、出来れば素のクロさんに、いろいろ聞いてみたいっていうか」
「素…素…?あー、動画とかの彼氏設定とかじゃない、今の俺」
「そうです!」
「…ま、秘密にしてくれんならいいデスヨ」

ニヤ、と怪しく笑うのがクロさんの癖なんだろうか。イメージとして貼り付いてきたそのお顔をまじまじと見ていると、本人とばちりと目が合いすぐに顔を背ける。そんな私をまたけらけらと笑うクロさん。…なんだろう、この時間は。

「クロさんって、本名もクロさんなんですか」
「えー…それは秘密」
「…じゃあ、歳とか…」
「それも言えねーなぁ」
「ええ…じゃあ何だったら教えてくれるんですか…」
「うーん…」
「もしかして教えてくれる気ゼロですね?」
「あ、ばれた?」
「…そんなぁ」
「そのへんは徹底してるんでね」

まぁ、そうだよなぁ。こうやって顔バレするのだって予想外だっただろうし。今のネットってすぐ特定されるしこわいもんね。

「苗字さんってSNSでもコメントくれたりすんの?」
「あ、はい!実は今日の朝クロさんからリプきたんで今日一日めっちゃハッピーだったんですよ!見てください!」
「え、SNSでのHNさんじゃん」
「わかるんですか?」
「いちおーね。よくコメントくれる人とか結構覚えてますよ、俺」
「えーー…嬉しすぎますクロさん神ですか…」
「ぶっ…ただのファンじゃん」
「ただのファンですよ」

じゃないとこんな時間にこんなとこまで来てませんよ。こんなのだいぶ迷惑なファンだけど。指摘されて恥ずかしくなり、私は机に突っ伏した。

「今日一日頑張ったんじゃん、えらいな。よしよーし」

だけど温かい感触を感じ、すぐにガバッと頭を上げる。

「こ、これは!先月投稿された"仕事帰りの彼女をいい子いい子して労う彼氏"のやつ!」
「ぶっ…くっくっくっ…苗字さんのキャラなんかわかってきたわ」
「え、ええ?どんなですか」
「大人しそうなお姉さんだと思ってたけど、なんかちょっと面白いよね」
「そ、そんなことないですよ!」
「いやー、じゃないとこーんな真夜中に隣の男の家突撃してこないっしょ」
「う…それは…すいません」
「別にいーよ、こわいファンじゃなくてよかった」
「たとえば?」
「"私と結婚してくれないとここで死にます!"…みたいな?」
「ふふっ…その裏声はナシですね」
「えー、そんなこと言う?」

言いながら私の頭を小突くクロさんも、笑っている。あー楽しい。聞きたいことに答えてくれないからなんだ、大好きなクロさんと話せるだけでも十分夢みたいな贅沢だった。

不意に視界の端に見えた時計には、昨日目が覚めた時間よりももっと遅い時間。楽しすぎて、思っていたより時間が経っていたことを知らせている。
私の視線に気付いたのか、クロさんも釣られるように時計を見て、「あーもうこんな時間か」って呟いた。

「俺だいたいこんな時間に動画撮ったりしてるんだけど、苗字さんはそろそろ寝なきゃいけないんじゃない?」
「あ…そうですね。…そろそろ帰ります」
「なに?さみしーの?」
「え!?え、まぁ…はい」
「ぷっ…正直で結構。でもさすがにファンの子泊めるわけにはいかないんでね」
「そ、それは勿論です!…ほんとに帰りますよ!」
「はーい。…気をつけてね」
「気をつけるもなにも隣ですよ?」
「わっかんねーじゃん。東京は物騒だからねぇ」
「ふふ、はーい」

玄関でお見送りするクロさんはなんだか妹を心配するお兄ちゃんみたいだ。下に兄弟がいるのかな、なんて想像してみる。

「苗字さん、いつもありがとうね」
「また来ますね」
「は?…いや、ちょ、」
「じゃあ、おやすみなさい」
「いや……秘密だからねこれ…!それだけはまじで頼むよ!」

言い逃げして玄関を出る私に後ろから小声で言うクロさんは何時間かぶりに焦っていて、なんだかしてやったりだ。

To approach


20.3.22.
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