黒尾長編 Let me sleep in your voice fin

出会う



目が覚めたのは日付も変わった時刻だった。暗い室内で時間を確認したスマホの光が眩しく目を細める。いつもはこんな時間に目を覚ましたりしないのに、珍しい。
明日も仕事だ。というか日付が変わっているからそれももう今日とも言う。また眠りに入ろうと目を閉じて寝返りを打つと、そこで向かい合った壁の向こうから、僅かに声が聞こえてくることに気付いた。

お隣さんだろうか?いつもはそんなに気にしない、気にならないのにこんな時間で他に何も音がないからなのかやけにその物音に意識が引っ張られてしまう。と言っても騒いでいるとかでなくて、ぼそぼそ、といった表現が的確なくらいの何か話しているんだなぁ、程度の声。内容だってわからない、低いから男の人だとは思うけど。

「………で………けど………」

誰か来ているのかなぁ、それか元々二人とかで住んでるのか…それにしては声の主は一人な気がするから電話とか…?隣の人、と言っても会ったこともないしなんの情報もわからない、今の状況からして多分男の一人暮らしだと予想できるくらいだ。

そんなことを考えているとまたむくむくと睡魔が私を襲い、そしていつの間にか私は思考を放棄していたのだった。


* * *


「"おはようございます!昨夜もクロさんの動画に癒されたので今日も仕事頑張れそうです!"…っと」

朝起きてまずSNSチェックするのが私の日課。大手動画サイトで人気の投稿主であり私が大好きなクロさんの投稿をチェックするのだ。

「あ!夜中に新しいの投稿されてるじゃん!」

クロさんは、主に女性向けボイスを投稿している男性投稿者さん。よく恋愛シミュレーションゲームとかであるような、動画を見ている人とクロさんが喋っているような錯覚に陥るシチュエーションボイスというジャンルだ。中でもクロさんは結構人気投稿主で、多い時でその再生回数は100万回を越えることもあるくらいだ。

そこまで私もこのジャンルに詳しくないけど、他に同じような動画をあげている人たちと比べるとその再生回数が凄いというのはわかる。私もそんなクロさんの魅力にハマっている一人。彼氏も作らずにこんなことに夢中になっている自分を親は心配するかもしれないけど、毎日仕事で疲れている私に優しくしてくれる動画の中の彼氏、クロさんは理想そのもので、気づけばこの日常に満足してしまっているのだから仕方ない。

早速夜中のうちに新しく投稿された動画を再生しながら、私は朝ごはんを食べ始めた。

「!!!クロさんからリプきた!」

"おはよーSNSでのHNさん。仕事頑張ってネ"

クロさんは、毎回じゃないけどたまにリプを返してくれることもある。時間があるときはなるべく返したい、って投稿を始めたばかりのときにSNSで言ってたけど、それは人気者になっても変わらないからファンとしてこんなに嬉しいことはない。

「今日はいい日だ〜…」

クロさんからのメッセージにいいねをつけて、私は今日も仕事に励むのだった。


* * *


帰路に着いたのはいつもより大分遅い時間だった。やる気に満ち溢れていた朝のことを思い出し、もうそれもかなり遠い昔のような気さえする。あれ、まだ今日のことなのか。仕事でトラブルがあって、残業する羽目になってしまったこんな夜はクロさんの癒しに限る。幸い明日は休みだし、心ゆくまでクロさんボイスを堪能しよう。

朝と同じようにSNSを開くと、丁度リアルタイムでクロさんがライブ配信をしているみたいでなんてラッキー。動画だけでなくて、今この瞬間のクロさんを味わえるだなんて…!

私は帰りに買ったお惣菜を袋から出しながらスマホの画面に釘付けになった。

「ああ…かっこいい…」

配信内容はなんてことない雑談。顔出しはしてないから画面には首から下しか映っていないけど、それでもこれがクロさんが私と同じ現実世界で今この瞬間生きてることを実感できて、感動する。

しばらくその感動を浸っていた中で、それが気になったのは突然だった。

「…またお隣さん喋ってる…」

昨夜、聞こえてきたボソボソ声。意外にいつも聞こえてたのかな、気にしてなかっただけで。
一度気になると意識はそっちに持っていかれるもので、なんとなく、興味本位で、壁に耳を当ててみた。

うーん…聞こえるような聞こえないような…

側でクロさんの声を流すスマホの音量を下げて、耳を当て直す。

「つーわけで昨日の夜あげたやつもね、いっぱい再生してくれてありがとうねー、なんかコメントとかも…」

あれ…あれ?壁の向こうから聞こえてくるのはまるで今聞こえないくらいまでに音量を下げたスマホから聞こえてきていた内容の続きみたいで、よくよく考えるとその声にもどこか聞き覚えがある気がする。そんな、まさか。そんなそんなそんな。
浮かんだ可能性はあり得ないと思うのに、私はそのまま壁に耳を当ててその声を聞き続ける。ごめんなさい、お隣さん。これってちょっとだいぶ気持ち悪いことしてる自覚はあるんです。でも、もしかして。…ほんとに?

「はい、じゃあ今日はこんくらいで。クロでした〜おやすみ〜」

疑惑は確信に変わる。いやまさか、信じられないけど。でもほんとにそうなんだ。
…お隣さんは、あのクロさんなんだ…!

いてもたってもいられず、私はスマホと鍵だけ引っ掴んでそのままバタバタと玄関に向かう。上着も着ずに鍵を閉め、そして気づいた時にはお隣さんのインターホンを押していた。

ピンポーン

どくん。どくん。自分の心臓の音が、こんなにはっきり聞こえてくることって今まであっただろうか。緊張。それと、まだ受け入れきれてないこの状況への興奮。

"…はい、?"

それは、インターホン越しのお隣さんの声を聞いて更に加速する。

「あ、あの…私、隣の、苗字っていいます」
"え…あ、はい…えーっと…ちょっと待ってください"
「あ、はい!!!」

かちゃり、と鍵を外す音が聞こえて、ゆっくりと開いた扉の先。立っていたのは黒髪で背の高いお兄さんだった。

「…どうしました?」
「………あ、!えと、夜分遅くにすいません…その…」
「あ、もしかしてうるさかったっすか?」
「え!?あ、いやその、声が聞こえたのはそうなんですが…そうじゃなくって」
「?」
「あの、クロさん、です、よね?」
「え…?」
「動画投稿してる…クロさん」
「え!?い、や…人違い…とかじゃない…です…?」
「………」
「い、えっ?…や、ちょ…ちょっと中入ってもらっていいっすか?」

焦った様子のお隣さんは、うまく言葉が出てこないみたいでそのまま私の腕を掴んで扉の隙間から中に引き摺り込んだ。

バタン。扉が閉まって、私を見下ろしたお隣さんは首裏を掻きながら気まずそうな、なんとも微妙な表情で一言。

「…なんでわかったんすか」

これが私と、お隣さん改めクロさんとの出会いだった。

To meet


20.3.20.
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