黒尾長編 Let me sleep in your voice fin

逃げる



鉄朗さんと別れてから一ヶ月が経った。少しは期待していた、鉄朗さんから連絡が来ることもなく。でも当然と言えば当然なのかな…嘘でも浮気した、って言ったし。それで鉄朗さんが怒っているならいい。でも自惚れだと言われてももし悲しんでいたらと思うと辛かった。
もうとっくに私なんか気にせずにいてくれたら一番いいのに、それはそれで私が複雑で、少しでも私のことを思い出して欲しいとも思ってしまう。矛盾しすぎていて、自分でもおかしいことには分かっていた。

クロさんの更新も相変わらずなくって、そろそろSNSでは毎日心配な声が目立っている。でももうその理由を確認できる関係でもなくて…私はただのクロさんファンのSNSでのHNに戻ったのだった。

そんな状態だったから、何気なく見かけたツイートに目を疑った。

"クロ、噂の彼女と別れて今は新しい彼女と仲良くしてるらしいよ…!"

現在進行形で拡散されているそのツイートにどんどんリプがついていく。

"え、どゆこと?どこ情報?"
"クロのこと知ってる人なんですか?"
"ショック〜結局こう言う人って遊び人なのかな…"
"あれだけ大々的に宣言してたんだからガセであって欲しい…"

反応は様々だけど、でも色んな人の目に付いてきっと取り返しのつかないことになる。私はクロさんを守りたかったのに、炎上なんてせず平和に穏やかに楽しく活動を続けて欲しいのに…こんなことになったら意味がない。

「どうしよう…」

かと言ったって、私には相談できる人もいないのだ。どうしようもない、そう言うしかないのが悔しかった。
それからもどんどんそのツイートは拡散され、そしてその情報にも尾ひれがつきまくりすっかりクロさんは「遊び人」扱い。こんなこと、望んでいなかったのに。私がクロさんのためにと捨てたものは、何も手に入れられずに闇に葬られてしまったのだ。


* * *


それは、当然と言えば当然なのかもしれない。付き合う前、鉄朗さんと偶然遭遇することはよくあった。同じマンション、しかも部屋だってお隣さんなのだから不思議なことではなかった。
だから、別れてからここまで一度も会わなかったのが不思議なくらい。どうして予想すらしていなかったんだろう。

「………ドーモ」
「……こんばんは…です」

マンションの下で、鉄朗さんと鉢合わせしてしまった。目が合ったのだから無視はまずいだろうと思ったのは向こうも同じだったのか分からないけど、小さく会釈してくれたのに対して私も同じように返す。

一ヶ月ちょっと、会わなかっただけで何年も会っていないくらいの気持ちだった。

「…元気?」
「…はい」
「そりゃあ何より」
「鉄、…黒尾さんは、」
「…んー、そこそこ、です」
「…そこそこ、ですか」

微妙な空気が流れる。分かってる、鉄朗さんはきっともう私と話したくないことくらい。でも私は、話したかった。たったこれだけで気を抜くと涙が出そうなくらい、鉄朗さんに会いたかった。

「……クロさん、辞めちゃうんですか」
「…相変わらず苗字さんはクロが大好きデスネ」
「っ、」
「…なんでそんな顔すんの」
「え…」
「先に苗字で呼んだの、苗字さんだろ」

やっぱり相変わらず鉄朗さんは目敏い。でもその通りだった。距離感が分からなくて、先に黒尾さんって呼んだのは私。本当は鉄朗さん、って呼びたいのに。でもだから、鉄朗さんが私の名前を呼んでくれなくっても傷付く権利なんてないのに、現実はしっかりとショックを受けている。

涙が出そうになるのをぐっと堪えると、鼻の奥がツンと痛んだ。

「………」
「…女々しいの分かってて言うけど」
「え…?」
「納得してないんだわ、別れるっていうの」
「え、でも…」

つい、今日初めて会わせてしまった鉄朗さんの目は、それを後悔するほどに切ないもの。そんな顔しないで。鉄朗さんにそんな顔させるなんて、私バチが当たっちゃうよ。

「な、もう一回話せねーかな」
「……無理、です」
「なんで」
「もう別れたので…」
「じゃあなんでそんな顔すんだよ!」

びくりと肩が揺れた。鉄朗さんに、怒鳴られたのは初めてかもしれない。驚いたのは私だけじゃなくて、鉄朗さんも一瞬目を見開き、そしてまた辛そうに顔を歪めるのだ。

「……ごめんなさい、黒尾さんとは付き合えません」

そんな顔、なんて言われなくても分かってる。私には、冷静に悟られないように、なんでもない風に装うなんて器用なこと出来ないもん。本当は私だって離れたくないし、鉄朗さんにそう言ってもらえてめちゃくちゃ嬉しいんだもん。

「…クロさんのことは、これからも応援してます。勝手でごめんなさい」
「ちょ、」
「…さようなら」
「待っ、…名前ちゃん!!」

現状もうこんなことをして意味があるのか分からない。だって結局クロさんは色々言われてるし。こんなの、誰も幸せになれてない。鉄朗さんからしたら私の行動は意味不明だろう。でもどうしたらいいか分からなくて、もう結局こうするしか思い付かなくって。
大好きな声が呼ぶ私の名前を背に、私は走ってマンションの中に入った。

鉄朗さんと会えて嬉しかった。別れたくないって言ってもらえて嬉しかった。本当はあの温かい胸に飛び込んで行きたかった。
でもじゃあ、どうしたら良かったの。あのときすぐに鉄朗さんに相談してたら、こんな結果にはならなかったのかな。



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20.9.19.
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