黒尾長編 Let me sleep in your voice fin

憂う



大好きな人と別れたって次の日はやって来るし仕事には行かなければいけない。これが学生のときだったら、絶対休んでただろうな。
そんな精神状態でもルーティンと化した朝のSNSチェックは無意識にしていて、クロさんの投稿のところでスクロールする手が止まった。

"みんなおはよ〜。ちょっとしばらく忙しくて投稿できないかも?"

これを見て、私のせいかな、なんて思ってしまうのは自惚れすぎだろうか。散々泣き明かしたせいで腫れぼったくなった目蓋は重くて憂鬱になるのに、辛くても鉄朗さんをどこかで感じていたくて仕方がない。でもさすがにいつもみたいにコメントは出来なくて、ごめんなさい、と呟いてスマホを置いた。


* * *


相当酷い顔をしていたからか会社の人には散々心配され、それでもなんとか仕事をこなした。やってやれないことはない、でも心の奥はぽっかりと穴があいている。今日は帰っても鉄朗さんの家に行くことはなくて、それは今日だけじゃなくて明日も、明後日も…これからもうずっとだ。

こんなに好きなのに、こんなに鉄朗さんのことばっかり考えているのに、もう会えない。それを選んだのは自分なのに、後悔しそうになる。でも鉄朗さんを守りたかったのだって確かなのだから、考えはずっと堂々巡りである。

「先輩、彼氏さんとなんかありました?」
「えっ」
「今日一日ずっと死んだ顔してたんで」

こんな時、真っ先に気付いてくれる有能な後輩。帰る準備をしていると声をかけてくれて、改めて他の人から見てもやばいんだなっていうのを思い知った。

「話聞くんで、飲みに行きません?」
「あー…うん、そうだ…あ、待って、」

頷きかけたところで、鞄の中のスマホが振動しているのに気付く。断りを入れてから見ると、画面には研磨くん、の文字。

「あ、彼氏さんですか?」
「え?いや、違っ」
「じゃあまた今度、話聞きますね!お疲れ様です!」 

訂正を入れる暇もなく去っていった後輩の後ろ姿を見送って、手の中でまだ震えているスマホを見つめる。一瞬、鉄朗さんかと思ってガッカリしてしまった。
けど研磨くんからってことは、確実に鉄朗さん絡みではあるだろう。なんの用だろう。

出るか、迷って。多分私が出るまで粘ってるんだろうなっていうのがわかるくらいずっと着信し続けているスマホの通話ボタンを押した。

「…もしもし」
「苗字さん?」
「うん…ひ、久しぶりだね、研磨くん。どうしたの?」
「クロ、俺ん家で酔い潰れてんだけど…回収しにきて」
「えっ」

機械越しでもわかる、研磨くんの心底疲れたような声。酔い潰れてる?鉄朗さんが?私のせいかな。いや、違うか。でもまだこんな早い時間に鉄朗さんがそんなになるだなんて、普段だったら有り得ない。そして私に連絡が来るのも、…有り得ない。もしかして話してないの?

「…え、っと…状況がわからないんだけど」
「俺ん家の住所送るから…そのまま来てよ」
「ちょ、待って、研磨くん」
「それまでにとりあえず歩けるくらいまでにはしとくから…」
「待って、研磨くん!!」

淡々と話を進める研磨くんに、私は思わず大きな声で静止を求めた。すると驚いたのか、表情は確認できないけれど黙り込む研磨くん。ごめん、大きな声出して。声を抑えて謝ってから、静かに言葉を続ける。

「…無理だよ、行けない」
「まだ仕事?」
「って、いうか……別れたんだよね、私達」
「…は?」

そして今度こそ、研磨くんが本当に驚いているのが分かった。そうだよね。ついこの間まで、鬱陶しいくらい鉄朗さんの誕生日のことで相談していたのに。私が研磨くんでも、おんなじ反応すると思う。

「…どうして、とか…聞いた方がいいの?」
「いや、聞かないで欲しいかな…」
「……いつ?」
「昨日の、夜」
「だからクロ荒れてたの…」
「…どうだろう」

自分で言って、悲しくなった。研磨くんとももう関わらないと思ってたのに、そんな人から鉄朗さんの話を聞いている。たったそれだけのことで私の決心は崩れ去りそうになるくらい不安定だ。

「……じゃあ、そういうことだから…ごめんなさい」
「あ、の」
「……ん?」
「クロのこと、…もういいの」

もういいの、って、その言い方に一気に涙が込み上げてくる。いいわけないよ。好きなんだよ。全然、嫌いじゃないのに、離れたくないのに、でも仕方なかったんだよ。

でもここで泣いたら、ここでやっぱり無理ってなったら、全部が無駄になる。私はどうしても鉄朗さんに迷惑をかけたくないし、前みたいにネットで炎上して酷いこと言われる鉄朗さんを見たくない。

「………」
「…何か理由があるなら…クロに話してみればいいと思う」
「…それは」
「まぁ、無理強いはしないけど…」

それは、研磨くんらしい言葉だと思った。鉄朗さんに言ったら、どうにかしてくれる。私だってそう思う。でもそれが、例えばもう動画投稿を辞める、ってなったら、それが私が理由だなんて耐えられなかった。

「…私、浮気したって言っちゃったんだよねぇ」
「…どうしてそんな嘘」
「あ、やっぱり、わかる?」
「流石に俺でもわかるよ」
「そっかぁ…鉄朗さん、怒ってるかなぁ」
「それは…ない、と思う…でも、落ち込んでた」
「そっか…」

好きな人を悲しませて、自分も悲しんで、何をしてるんだろう。耐えきれなくなった涙が溢れた。電話の向こうにいる研磨くんにそれがバレないよう、小さく鼻を啜る。

「…鉄朗さんに、私と話したこと言わないでね」
「約束はできないけど…」
「でも、お願い」

なんだかんだ言ったって研磨くんはずっと小さい頃から鉄朗さんと一緒にいる幼なじみで、私と鉄朗さんだったら絶対的に鉄朗さんの味方だろう。鉄朗さんのためだったら情報提供だってするだろうし、こんな約束出来ないと思う。それでもそれをわかって、私はお願いした。

「鉄朗さんのためなの」
「…クロの?」
「うん」
「…別れなきゃいけないの?」
「…うん」
「…ふーん」

研磨くんは曖昧な相槌だけで「はい」とも「いいえ」とも言ってはくれなかった。それでも私はその反応に満足して、今度こそ電話を切らないといけない。電話の向こうの鉄朗さんが、起きてしまう前に。

「…それじゃあ…研磨くんも色々ありがとう」
「…うん」

しばらくの沈黙の後、切れた通話。スマホの画面がホーム画面に戻った後も、まだ変えられていない鉄朗さんとのツーショットの壁紙をしばらく見つめていた。

研磨くんと話すだけで、余計に鉄朗さんと会いたくなってしまった。悪巧みしてるみたいなあの笑顔を見たい。あの腕で抱きしめられたい。耳元で好きと言ってもらいたい。…結局堂々巡りで、そんな自分に嫌気が差しながら家へ帰って、もう何も考えたくなくてすぐに眠りについた。

早くこの想いごと消えて、胸が痛くなるほどに苦しまない日が来て欲しいと願いながら。



Sorrow


20.9.16.
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