黒尾長編 Let me sleep in your voice fin

別れる



無事鉄朗さんの誕生日が過ぎて、次にやってくるのはクリスマス。と言ってもその日は仕事で、終わってから一緒にディナーに行く約束をしている。プレゼントはついこの間鉄朗さんの誕生日だったと言うこともあり、今回はさすがに思いつかなくって何がいいか聞いてみたら、「名前ちゃん」って即答するから何の参考にもならなかった。

何となくこの前の件もあったしまた研磨くんを頼るのもアレな気がして出来ていない。全然決まらないけど、でも鉄朗さんのことを考えている時間は楽しくて幸せでもある。
そんな日々を送る中で、私はSNSにきた一件のDM、ダイレクトメールが気になっていた。

"クロさんと別れてください"

そう、たった一言。"クロさん"というその言葉にどきっとした。

この送り主は、クロさんの正体も、そして私も知っているってこと?でもどうして?私達のことを知っているのは、私も知っている鉄朗さんのお友達や後輩さん達だけなのに。彼らがこういうことをするとも、その理由も分からない。この一文だけで、瞬時に色んなことを考えてしまう。

私の知り合いにはクロさんのことを言っている人はおらず、ますます誰も思いつかない。
別れてくださいって言うくらいだから、付き合っているのをよく思っていない人なんだろうか。ってことは、クロさんのファン?
考えたけど、わからないものはわからなくて。

何気なく思い付きで、スマホの検索エンジンに"クロ 彼女"と入力していた。
出てきた検索結果ページをスクロールしていく。でもやっぱり、配信での炎上騒ぎのことやその後の彼女出来ました報告などのことは出てきたけれどそれ以外に何もめぼしいものは見つからない。

「やっぱわっかんないなぁ…」

送り主のSNSアカウントはこのためだけに作られた使い捨てのアカウントみたいで、そこにも手掛かりはなかった。
考えても何も心当たりはなく、迷惑かけたくないしせめてもう少しわかってから鉄朗さんに報告…なんて、思ってしまったのがいけなかった。この後私は、このときすぐに鉄朗さんに相談しなかったことを後悔することになるだなんて。


* * *


「なにこれ…」

部屋には私一人なのに、思わず声が出てしまった。スマホを持つ手が震えて止まらなくて、視線はその画面に注がれている。

"人気動画投稿主クロの彼女!"

そう書かれたツイートと、添付されているのは目のところに黒く線が入れられているものの明らかに私とわかる写真。の、スクリーンショット。それがこの前のアカウントからまたDMで届いたのだ。

"これ、ツイートしちゃってもいいですか?笑"
"クロさんの彼女がこんな地味な女なんだって知ったらみんながっかりしますね"
"嫌なら早く別れてくれません?"

前回より、明らかに悪意を含ませた文面に体が強張る。どうして、こんな…写真だっていつ撮られたんだろう。送り主は、近くにいる。
私はまだ震えている手でゆっくりと文字を打って、初めて返信した。

"どうしてこんなことするんですか?どこで私のことを知ったんですか?"

するとまたすぐに返事は返ってくる。

"一週間後に別れてなければ、これ拡散しますね"

私の質問は無視されたその文言に、血の気が引いた。冗談だったらいいけど、そうとは思えない。ただの悪戯で撮られた覚えのない写真を用意してこうして脅してはこないだろう。

それからも、毎日メッセージは送られてきていた。

"まだ別れないんですか"
"早くしないとクロさんの写真も拡散しますよ"
"あなたがクロさんにとって迷惑だってわからないんですか?"

それでも私はまだ鉄朗さんにこのことを相談できてなくて、だってこんなこと知ったら鉄朗さんが申し訳なさそうにするのは目に見えているし、引退しなかったことを後悔して欲しくなかった。私は自分でクロさんが引退しないことを選んだし、応援していたし、それにあの時言った「ネットで何を言われても気にしない」という言葉は嘘じゃない。…嘘じゃなかった、はずなのに。

直接言われたわけでもない言葉が酷く心を抉っていくのがわかる。顔も名前も知らない人に悪意を向けられることが、こんなにも傷付くだなんて知らなかった。
そして今の私が鉄朗さん…クロさんの迷惑になることも理解して、それに耐えられない。

送り主の思い通りになんてなりたくなかったけど相談できる人もいないし、毎日送られてくる言葉にも私の存在が大好きな人の邪魔になるという事実にも傷付いて、実質私に与えられた選択肢は"別れる"ということだけだった。


* * *


「おつかれ名前ちゃん、今日は来ないって言ってなかったっけ?」
「うん、ちょっとだけ話したくて…あ、明日もあるしすぐ帰るよ」
「そう?じゃ、お茶でいい?」
「うん…」

明示されたタイムリミットは今日だった。仕事終わりに鉄朗さんの部屋にお邪魔して、でもここまで来てまだ迷ってる自分に嫌気が差す。

別れたくない。でも鉄朗さんに迷惑をかけたくない。毎日の脅しにも疲れていた。色んな感情で頭はぐちゃぐちゃになっていて、それでもこのために今日一日ずっと練習してきた言葉はすんなりと口を出た。

「…別れたい」
「…え?」
「鉄朗さんと、別れたくて…今日、来ました」
「…どういうこと」
「別れて欲しい」

なるべく感情的にならないように、涙が出そうで震える声を押さえつけて、淡々と言葉にするけどその台詞に傷付くのもまた自分自身だ。目を見れなくって俯いているから鉄朗さんが今どんな表情をしているのかわからないけど、一瞬の静寂の後出たその声からは動揺しているのが分かった。

「…冗談?にしちゃタチ悪くね?」
「…本気だよ」
「なんで?なんかした、俺?」
「…ううん、私が…」
「名前ちゃんが?」
「…この前の、会社の飲み会の後……会社の人と、ホテルに行った」
「は?」
「…浮気、したの。ごめんなさい」
「どういう、こと」
「…別れたい」

すらすらと出てくる嘘は全て事前に考えていたものなのに、言葉を発するたびに胸がぎゅうぎゅう締め付けられる。でもあとちょっと、泣いたらだめだ。鉄朗さんのために、別れるって、離れるって決めたんだから。

「…もう好きじゃないってこと」
「……やっぱり私はクロさんが、好きで…鉄朗さんと付き合うのは、…違った、みたい」
「…そう」
「…ごめんなさい」
「…悪い、今日は帰って欲しい」
「うん……ごめんなさい」

鉄朗さんの言葉に素直に頷いて、私は鞄を持って立ち上がる。鉄朗さんは座り込んだままいつもみたいに見送りには来なくって、そのまま靴を履いて、玄関の扉をくぐって、隣の部屋に帰るだけ。ベッドに倒れ込むまで、息が出来ないくらいに苦しかった。

「ふ、うぅ…っく…」

耐えきれなくなった涙が、あっという間にシーツの色を変えていく。隣に聞こえないように、押し殺して私は泣いた。
最後に聞いた鉄朗さんの声は怒っているように思えた。大切だったのに。大切だったから。私はそれを、手放した。

こんなに大好きなのに、こんなに呆気なく関係は終わってしまうんだと絶望した私の涙が止まることはない。

"別れてくれましたか?"

そんな私を嘲笑うようにこのタイミングできたメッセージを、もう見ることすらできなかった。


Break up


20.9.12.
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