黒尾長編 Let me sleep in your voice fin

振り払う



何度も言うが、鉄朗さんは彼氏として本当によく出来た人だった。女の人の扱いが上手いというか、人間の扱いが上手いというか。先日のデート以来更にその印象は右肩上がりで、クロさんだと言うのを差し引いてもこの人が私の彼氏でいいのかと思う場面は多々あった。街で歩いていてもその容姿はやはり目を引き、その度に彼の内外問わないスペックの高さを思い知るのだ。

「…あ、鉄朗さー…」

言いかけて、それに気付いた瞬間身を隠したのは反射だった。早鐘の如くバクバクする心臓を抑える。仕事帰り、鉄朗さんがマンションに入っていくのを見かけて一緒に上がろうと思ったのだが、その隣に女性がいたのに気がついて。そしてそのまま鉄朗さんは、その女性と共に部屋に入って行くのを見て、一瞬で血の気が引いた。
今隣に、鉄朗さんと女の人が二人きり。…あの人誰?兄妹とか…ううん、一人っ子って前に言ってた。普段在宅で仕事をしてるから、仕事関係だとも考えにくい。

いつもなら会わない日でも帰ったらすぐにその旨をメッセージで送るけど、それも何故か憚られる。モヤモヤするけど、聞けない。鉄朗さんが浮気するだなんて思わないけど、でも…じゃああの人は誰なのかという答えも見つからない。
友達?鉄朗さんは男女の友情は成立する派なのかな。それでも部屋に二人きりはよろしくない気がするけど、その辺も価値観は人それぞれだ。もしかしたら他にも数人友達がいるから二人きりでもないのかもしれない、そう思ってみるけどそれにしては静かだし。


付き合ってこんな気持ちになるのは初めてだった。鉄朗さんといて、嫌な気持ちになったことがない。今回のだって私が勝手に心配になっているだけなんだけど、でもあんな現場を私に見られることすら鉄朗さんらしくないなんて勝手なことを思ってしまう。
そこまで考えて、結局私はあの人が誰だったとしても、鉄朗さんが女の人と二人で歩いていて、そして部屋に上げていることが気に入らないんだと気が付いた。ああ、なんて心が狭いんだろう。自分で自分が嫌になる。でもその原因も、きっと私で。たまに感じた、「私なんかに鉄朗さんは勿体無いんじゃないか」という思いだった。
普段からいつもネガティブなわけじゃない。でも何度か感じたことのある小さな劣等感が、こうやって些細なことをきっかけで大きくなる。

こんな日は、早く寝るに限る。そして、願わくば明日の朝にはこんな感情も忘れられていたらいいのに。そう思いながら、私はベッドに入った。


* * *


"お疲れ様。名前ちゃん、無事家着いてる?"
"なんかあった?"
"疲れて寝落ちてるとか?無理すんなよー"
"おやすみ名前ちゃん"

朝。スマホには昨日の夜届いた鉄朗さんからのメッセージが並んでいて、少し罪悪感。でも、一晩寝たら昨日よりは気持ちをリセットできている気がした。そりゃああの人が誰か気になるけど、でも、大丈夫。

"おはよう、ごめんなさい昨日は寝落ちてた…!"

それだけ返信して、私は支度を始める。
私の返信に特に疑問を抱かなかったんだろう鉄朗さんは、それからも普通だった。それにだって少しモヤモヤしたけど、でも私も普通に今まで通り接していた。…はずだった。


「…あ」
「…?」
「こ、こんばんは」
「………」

それからまた数日後。

私の言葉に、ぺこりと頭を下げて去っていくのはあの人だった。マンションから出てきたってことは、また鉄朗さんのところへ来ていたんだろうか。
嫌だ嫌だ嫌だ。せっかく蓋をした嫌な感情が、どろりと溢れ出す。背も高くてクールな感じの、綺麗な人だった。私とはまた全然違うタイプ。もしかしたら鉄朗さんはああいう人が好みなんだろうか。

「あれ、名前ちゃん?」
「…てつろ、さん」
「そんなとこで立ち止まってどうした?」
「どうした、って…」
「え!?なんで泣いてんの?」

今日は帰ったら鉄朗さんのところに行く予定だった。だからきっと予定より遅い私を心配して降りてきてくれた鉄朗さんの顔を見て、我慢していたものが決壊してしまった。
私と会う日まで、直前まで別の女の人といたのとか。こんなギリギリの時間までいたら、私と鉢合わせるかもしれないとか考えなかったのとか。それでも良くて、もしかしたら私は振られるのだろうかとか。鉄朗さん信じると決めていたはずの思いはいとも簡単に流されてしまって、私の自信なさが顔を出す。

あの日から気になってモヤモヤしていた疑問が、涙となって頬を伝った。

「…あの人…誰…?」
「え?」
「浮気、するなら、もっと上手くやってよっ…!」

口にしたら、もう止まらない。驚いているような鉄朗さんの間抜けな表情に、妙にイライラする。

「ばか!」
「えっ、急な罵倒。つーか待って、なに、浮気?」
「うー…、もう、やだぁ…ばかぁあ」
「ちょい待って、名前ちゃん、こっち」
「嫌!」
「痛っ」
「っ、」

伸ばされた手をバジンと払い退けると、爪で引っ掻いてしまったのか一瞬顔を歪める鉄朗さん。それを見て少しだけ芽生える罪悪感と、それでも消えない怒り、悲しみ、嫉妬。色んな感情がぐちゃぐちゃで、涙も止まらなくて、私は咄嗟に後ろへ方向転換してそのまま走り出した。

「ちょ、待って、名前ちゃんっ」

焦ったような鉄朗さんの声が私を引き留めていたけど、私は必死に聞こえないフリをしてそのまま走り続けた。

「はぁっ…はぁ、っ…」

苦しくて、息を切らしてそれでも立ち止まらずずっと走るのはこんな顔見せたくないから。きっとまた私は酷いことを言ってしまって、そしたら今度こそ鉄朗さんに嫌われてしまうかもしれないから。
もしかしたらもうすでに遅くて、次は本当に別れを告げられるかもしれないから。

つい最近まで幸せで幸せで仕方なかったのが、嘘みたいに苦しい。たったこれだけで、こんなに簡単に、失ってしまうの?

もう走れなくなるくらい苦しい息を吐いて、立ち止まったところで後ろを振り返っても当たり前に鉄朗さんの姿はなかった。追ってきてくれるなんて、少女漫画の中だけだ。現実はこう。自分から逃げたくせにまたそれが私の胸を締め付けた。

「ふ、うぅ…っ…ひ、っく…」

地面を濡らす涙に構いもしないで、私はその場に蹲った。



To shake off


20.8.23.
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