黒尾長編 Let me sleep in your voice fin

弄ぶ



「んー…そろそろ認めちゃった方がいいんじゃない?…え?だーかーら。俺のこと…好きなんデショ?」
「ああ〜…好きです…」

スマホを握り締めたまま、ベッドに倒れ込む。はぁ…今日もクロさん最高…きゅんきゅんする…好き…
鉄朗さんと仲良くなった今でも、もちろんクロさんのシチュエーションボイス動画の視聴は日課だった。

「名前ちゃん…それ俺いるのに観る?」

それは、鉄朗さんが隣にいても例外じゃない。

「だって!これ観ないと生きれないです私!」
「目の前に本物がいますけど」
「そうですけど!彼氏のクロさんがいいんです!」
「じゃあ俺の彼女になる?」
「ええ!?い、いいんですか?」
「冗談」
「…わかってます」

あれから鉄朗さんとはしょっちゅう部屋を行き来する仲になった。お隣さん以上ではあるけど、友達なのかって言われたらそれにしては知らないことも多い気がする。距離だけは近い、奇妙な関係。

どうやら鉄朗さんは在宅のお仕事らしくて、大抵私が仕事終わりとか休みの日にどっちかの部屋で飲んで、日付が変わる前にお開きになる。いくら動画の中のクロさんではないとわかっていても同じ声、同じ喋り方の鉄朗さんといるのは相変わらずドキドキするのに、向こうは多分何も感じていないんだろうってことが悔しくてこうして目の前で動画を観てやるのは、ちょっとした当て付けでもあった。

「でも名前ちゃんがしてほしいなら目の前で"名前ちゃんの彼氏のクロ"やってあげてもいいよ」
「そんな特別扱いしてファンの人に怒られません?」
「バレなきゃいいんじゃね?」
「うわっ!ファンを蔑ろにする気ですね」
「でも俺、彼女出来たらクロ辞める気でいるからね。そこは誠実ですよ」
「えっ」
「ん?」
「辞めちゃうんですか…?」
「彼女できたら、な」

鉄朗さんはなんでもない風に言うけど、衝撃だった。鉄朗さんは配信とかでも彼女いないことを自称しているけど、今後もしそうじゃなくなったら引退するらしい。確かに動画配信者を本当に好きになっちゃう、ガチ恋と言われる人たちもいるし、彼女の存在を隠したところで余計な詮索されたりバレたら炎上したりすることもあるからある意味平和的な手段かもしれないけど…

「そっかぁ…」
「なーに」
「クロさんいなくなったら生きていけないです…」
「SNSでのHNさんは俺の大ファンだもんな?」
「だから鉄朗さん一生彼女作らないでください…」
「ひどっ」

そんなことを言いながらも鉄朗さんは楽しそうに笑っていた。

「で、やる?やらない?」
「何をですか?」
「だから、名前ちゃんの彼氏役」
「え」
「だってクロの彼氏動画好きなんだろ?」
「そ、そうですけど…でも…」
「でも?」
「恥ずかしい、です…」

だって鉄朗さんがクロさんとして私の彼氏役をするなら、私はその彼女役になるのだ。鉄朗さんはもう動画で慣れっこかもしれないけど、私はお芝居とかそういうのしたことないし、単純に恥ずかしい。

「ぶふっ…俺の前でそんな動画観るのは恥ずかしくないのに?」
「私もやるのは全然違いますよ!」
「そーゆーとこ面白いよな」
「面白がらないでください!」
「うそうそ、可愛い」
「からかわないでくださいー!」

冗談でも、鉄朗さんの「可愛い」の破壊力をもっと自覚してほしい。私は顔に熱が集まるのを感じて、パタパタと手であおいだ。それなのに鉄朗さんは構わず、グッと距離を縮めてくる。

「はい、今から敬語禁止な」
「えっ、ど、どうしてですか」
「彼女なのに敬語は変だろ?」
「私、やるなんて一言も」
「な、名前?」
「ひっ」

だから、それはずるい!思わず鉄朗さんを睨んでしまうけど、やっぱり鉄朗さんはお構いなしにニヤニヤしている。完っ全に遊んでる!

「名前はすぐ顔赤くなるよな」
「うう…」
「ほら、もっとこっちおいで」
「へっ!?お、お触りもありなんですか…?」
「ぶっ!くっ…ぶふ…っひゃっひゃっひゃっひゃっ!お触りって!!」
「い、言い方間違えました…」
「くくっ…いーよ、ほら、おいで」
「えっ!えぇ…」
「ハグいらねーの?」
「ううう…し、失礼します…」

長い腕を広げて私を待つ鉄朗さん。もう何がなんだかわからないけど、でも、今後こんなチャンスないかもしれないし…なんて。頭の中で自分に言い訳して、その腕の中に飛び込んだ。

「はい、ぎゅー」
「…ぎゅう…」
「はぁー、名前の匂い好きかも」
「えっ!?か、嗅がないでください」
「彼氏だからいいんですぅー。てか敬語やめて」
「は、はい…じゃなくて、…うん…」
「ん、いい子」

くしゃりと私の髪に触れた大きな手は、そのまま頭を撫でている。その優しい手つきとは裏腹に、私の胸は全力疾走した後みたいにうるさく鳴っていて苦しい。そもそも社会人になってから一度も彼氏ができたことのない私は男の人に対する免疫が低すぎて、今の状況に対する緊張とか、ドキドキとか、いろんな感情がごちゃ混ぜになってもうどうしたらいいかわからなかった。

鉄朗さんは、何を考えているんだ。鉄朗さんの腕の中で、恐る恐る見上げた鉄朗さんも私を見下ろしていてしっかりと目が合った。

「!」

いつも揶揄われてるからわかる、きっと私の顔は真っ赤になっていてひどいんだろう。だけど目が合った瞬間、鉄朗さんの眉がぴくりと動いて、いつの間にかさっきまでのニヤニヤした笑みは消えていた。空気が、変わった気がする。恥ずかしいのに、目が逸らさない。こわいけど、こわくない。ドキドキで胸が痛い。苦しい。

「鉄朗、さん、」
「…名前」
「……くるし、です、」
「ンンッ」

その距離がだんだん近くなっていたのは、きっと気のせいじゃない。私の一言で鉄朗さんはパッと腕を離してくれて、やっと息を吸えた気がした。

「…名前ちゃん」
「えっ」
「…反則だわ」

そこで初めて気がついた、手で隠してるけど鉄朗さんもちょっと赤くなっていることに。…どうして?わからないけど、初めて見る表情にさっきとは違う胸の高鳴りを感じる。鉄朗さんが、照れてる…?

「名前ちゃんって実は小悪魔系なの?」
「え?え?」
「さっきの目、他の男にしないでネ」
「ええ?」
「こういうこと。されるかもよ?」

唇が、触れると思った。触れるか触れないかギリギリのところでゴクリと喉を鳴らした鉄朗さんは、瞬きした一瞬のうちにもう離れていた。
何が起きたのかわからず、鉄朗さんを見上げることしかできない。

「じゃ、そろそろ俺帰ろっかな」
「えっ」
「名前ちゃん明日も仕事だし」
「あ、え、はい」

よくわからないまま立ち上がって玄関に向かう鉄朗さんを、よくわからないまま追いかける私。どうして急に?いや、確かにもうそろそろお開きの時間だったけども。何か怒らせてしまうようなことをしたんだろうか。でも、そんな感じじゃないし…

言いたいことが纏まらなくて、でもこのまま鉄朗さんを帰しちゃいけない気がして…「それじゃあおやすみ」なんて言ってドアノブに手をかけた鉄朗さんのシャツを咄嗟に掴んだ。振り返った鉄朗さんは、やっぱり怒ってはいないようだけど、苦笑いというか気まずそうというか…とにかく微妙な表情だった。

「あの、私何かしましたか…」
「まじ勘弁して名前ちゃん」
「す、すいません、私」
「いや、そのさ…この前言ったじゃん、別に俺は大丈夫だけど名前ちゃんはもうちょっと男警戒したほうがいいよって」
「は、い」
「…あれ嘘。襲っちゃうから、俺でも。てか俺が。それでもいいなら、さっきみたいな顔していーよ」
「え、」
「…それだけ。…つーかなんか俺ばっか悔しいんですケド…」
「…ど、どういう…」
「さあね?…それじゃ、おやすみ名前ちゃん」

そう言い残して、今度こそ、止める間も無く出て行ってしまった鉄朗さん。謎は謎を生むばかりで、結局よくわからなくって。さっきまでの時間が夢だったみたいにどこかふわふわした感覚。

私、鉄朗さんに名前呼ばれて、それで、抱きしめられて、頭、撫でられて、それで、それで……

「ンンンンンッ」

思い出すだけで赤面案件。私はしばらくその場で蹲って動くことができなかった。


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20.6.28.
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