離れられない夜
「〜〜〜〜〜ッッッ!」
バイト帰りの二十一時。声にならない叫びは別にご近所さんを気にしてのことではなかった。
遭遇は家に入ったその瞬間。人感センサーが反応して玄関の灯りが付くと同時に目の前を横切った、黒光りするソレ。一人暮らしの、女の子の、人類の、敵。
えっ無理無理無理、どうしよう!?
得意な人なんてそうそういないと思うけど、虫は大の苦手。一人暮らしを始めて三年、今まで家で出たことなかったのに!
幸いにも常備している殺虫剤は玄関の棚の中なのですぐ手の届くところにあるけど、こんなのただのお守りに等しい。自分の手でかけるどころか近付くことすら出来ない。
え……えっ? 本当にどうする!?
帰ってくるまでで冷えた身体に、一気に汗が滲むのがわかった。
ずっと視界に入れておくのは嫌なんだけど、どこにいるのかわからない状態になる方が怖い。泣く泣くヤツを見張りながら無意味にネットで検索をかけているのはパニックになっているから。
あっでも業者に頼むって方法もあるんだ……なんでも屋さんみたいなのってこの時間でも来てくれる? それって虫が出たぐらいで呼んでもいいの? ……えっちょっと待って高い! 無理! 今月そんなにバイト入れてないもん、払えないよ……!
詰 ん だ
これは本格的にやばい。自分で対処するしかないらしい。既にヤツを眺めながら三十分は経過しているけど、怖くて動く気にもなれなかった。明日も一限からあるのに。疲れてるから早く寝たいのに。
だけどどうしても自分一人でどうにか出来る気がしない私は、やはりダメ元で友達に連絡しようと再びスマホをタップして開いたメッセージアプリ。
一番上には、数分前にメッセージを受信してまだ開いていない、黒尾くんとのトークルームがあった。
★
「普通にびっくりしたわ」
「ごめんなさい……」
「いやいいんだけど。苗字さんから電話とか初めてだったし、いざ出たら泣いてるし、何事かと思うだろ」
「ほんと、申し訳ない……」
黒尾くんに連絡したのは、もうほとんど勢いだった。だって普段の私なら、慣れてきたメッセージならまだしも通話ボタンなんて絶対に押せない。
ダメで元々。なのにすぐに出てくれた黒尾くんは「苗字さん? どうした?」って、急だったから驚いていることがわかる。半泣きで説明しながらもヤツの動向に騒いでいる私に、黒尾くんは「五分で行くから待ってて」とだけ告げて切れた通話。
五分後。本当にうちまで来てくれた黒尾くんは、私が一時間近く見張ることしか出来なかったヤツをあっという間に処理してくれた。
「ごめんね、本当にごめん、黒尾くんも疲れてるのに……!」
「帰ってるとこで良かったわ。家いたらもうちょい来るのかかったし」
「もうほんと……なんてお礼すればいいか……」
「いいって。そんな気にすんな、大丈夫だから」
「ごめんね、ありがとう黒尾くん……」
「どういたしまして。じゃあ俺帰るけど、」
「あっ待って! お茶しかないけど良かったら、」
「……いや、」
「お願い、せめてものお礼だからっ」
「……じゃあ、貰ってくわ」
お礼の気持ちがあるのも本当だけど、さっきまでヤツがいた部屋に一人でいるのがなんか嫌なのもちょっぴり本音。引き止めてごめんなさい黒尾くん。
私の出したお茶を一気に飲み干す黒尾くんは、走って来てくれたせいか少し汗をかいていた。申し訳ない気持ちでいっぱいの私はすぐにおかわりを注いで、黒尾くんはそれに苦笑しながらお礼を言ってくれる。
私はというと恐怖でずっと身体に力が入っていたのか、もう安全だとわかった瞬間一気に全身の力が抜けていくのがわかった。
「黒尾くんいなかったら終わってたよー……もう暑くないし油断してた」
「女の子の一人暮らしって大変だよな」
「ほんと、死活問題。スプレー持ってても全然意味なかったもん」
「流石にそれがねぇと俺もすぐに倒せなかったから、意味はあっただろ」
そんな、苦笑いしている黒尾くんを見てはたと気付く。今、私の家に黒尾くんがいるんだって。
さっきまでは本当にそれどころじゃなかったけど、普段自分だけが寝てご飯を食べて生活している空間にいる黒尾くんは明らかに異質だった。
前に一緒に映画に行ってから一週間と三日。バイト帰りだったらしい今日の黒尾くんはラフな格好をしていて、今まで会ったときとはまた雰囲気が違う。
なんか、……もしかして私、結構大胆なことしてる……?
黒尾くんがいるだけで、部屋が狭く感じる。外で会うときより、黒尾くんとの距離が近く感じる。
意識しだすと途端にわかりやすくそわそわしてしまって、落ち着けと自分に言い聞かせてもそんなに上手くはいかなくて。目敏い黒尾くんはすぐにそんな私に気付いたのか、「苗字さん?」と伏目がちな私を覗き込む。
「わっ……」
ふわりと香った黒尾くんの匂いに、大きく心臓が跳ねた。
どうせまた揶揄うんだ、この前みたいに。それも嫌じゃないから困る。黒尾くんはこうやって一々ドギマギする私を面白がるけど、私はその一挙一動に一々ドキドキしちゃうんだよ。私が黒尾くんを好きだから、一人で勝手にドキドキしちゃうんだよ。
何もあるわけないけど、でももしかしたら……を期待してしまうんだよ。
「苗字さん、また緊張してる」
「う……」
ジッと目を見つめられながら告げられた言葉にひくりと喉を鳴らした。
慣れないから、苦手だから……そんな言い訳はもう通じない。それよりも黒尾くんとのこのシチュエーションに、胸が震える。次になんて言われるか、待っている自分がいる。
「いやでも今回ばかりは緊張して。つーかもうちょっと警戒して?」
「えっ……」
だからこの展開は、完全に予想外だった。
「えっ、じゃねーの。わかってる? 今回は非常事態だったかもしんねえけど、軽率にこんな時間に家に男を入れようとしちゃダメでしょうが」
「わ、わかってるよ」
「ほんとかねえ」
「ほんと、ほんとにわかってる」
「ならいいけど」
部屋に響いた、黒尾くんの呆れたような声。期待した甘さなんて欠片もない、淡々としたお説教。
あれ……あれ? どうしてちょっと怒られてるの?
眉を顰める黒尾くんに動揺して、学校で先生に叱られたときみたいにしゅんと気持ちが萎んでいく。
「……ごめんなさい?」
「怒ってんじゃねえの、心配してんの」
「あっはい……」
「今回電話受けて勝手に来たのは俺だけどさ。嫌なら嫌って言っていいし、それくらいじゃ怒んねえから」
「いやでも今日のは黒尾くん来てくれないと私が困ってたっていうか……」
「じゃあ俺以外には絶対やんないで。普通に危ないから、まじで」
「や、私黒尾くん以外の男の人の連絡先知らないし……」
「……」
「知ってても私が黒尾くん以外の男の人に連絡出来るわけないし……」
「……」
「……黒尾くん?」
「はぁ……」
そのため息の、意味はなに? もやもやと胸の中に広がる言いようのない不安に、私は無意識に視線を逸らしてしまった黒尾くんのシャツの裾を軽く引っ張った。
すると、ぐるんと勢い良くこちらを向いた黒尾くんが「コラ」って私の鼻を摘んで。
「っ、」
絡み合った視線。触れた手の熱さ。黒尾くんが小さい子を宥めるみたいに「ダメだって」と念を押すけど、突然のことに私はもうそれどころじゃない。
「黒尾くん」
「俺相手にもそういうことすんのは禁止です」
「ど、どうして」
「どうしてじゃない、さっきわかったって言ってただろ」
「黒尾くん以外にはダメって話だったよ」
「俺にもダメ」
「なんで、」
「俺が苗字さんに手出しちゃうから」
「えっ!?」
驚いて、思わず身を引くとアッサリと解放された。
言葉の真意も、黒尾くんの本心も私にはちっともわからない。
確認する暇もなく立ち上がった黒尾くんにもう怒っている感じはなくて、すっかりいつもの雰囲気を纏った表情はやはり私を揶揄っただけかもしれない。
「今のは男友達にする距離感じゃねーの。わかった?」
「……」
「わかった?」
「……わかんない」
「まっ、お母さんそんなこと言う子に育てた覚えありません!」
「黒尾くん私のお母さんじゃないじゃん」
「えっそんなガチレスする?」
言いながら、私の頭に手を置いた黒尾くんはずるい。黒尾くんだって触ってるじゃん。どうして私だけダメなのか、ちゃんと教えてくれなきゃわかんないよ。
私は靴を履く黒尾くんの背中を見ながら悶々と言葉を探すけど見つからなくて、結局、靴を履いて振り向いた黒尾くんを見上げるだけ。
「じゃ、俺が出たらちゃんと戸締りすること」
「……ハーイお母さん」
「あ、反抗期終わった」
「ふっ……ふふ、さっきの私反抗期だったの?」
「え、そうじゃねえの?」
結局流されて、誤魔化されて、何も言えないままだ。
「じゃ、おやすみ苗字さん」
「おやすみ、黒尾くん」
扉が閉まる瞬間が名残惜しく感じたのが、私だけじゃなかったらいいのに。さっきまでの黒尾くんの言葉と表情を何度も反芻して、一人顔を赤くして……どうしようもない私はまたそんなことを願ったりするのだ。