500,000 リクエスト企画

酸いも甘いも傷も痛みも



「苗字っ」
「は、ぁんっ……!」

 今まで見たことのない情欲を孕んだ目も、甘く強請るように私の名前を呼ぶその声も、まるで大切な人になったみたいに優しく触れてくる手も、何もかも覚えている。そして覚えていることをこんなに後悔したことはない。
 いっそ夢だったら良かったのに。呼ばれたことのなかった名前も、お互いに求め合った快感も、酔った勢いで事に及んでしまった事実も。

 目に沁みる朝日がどこまでも私を責め立てて……私は隣に眠る黒尾を見つめる。

 私と黒尾はただの大学からの友達だ。せめて相手が好きな人だったから良い、とは思えなかった。好きな人とこんなことになって、これからも普通でいられるわけがない。
 黒尾の気持ちがないとあの行為はただの一夜の過ちでしかないし、寝たんだから付き合ってなんて言う面倒臭い女にもなりたくない。
 つまり私のこの想いは、一生告げられなくなってしまったのだ。

「好き、だったよ」

 呟いた言葉は虚しく消えた。まるでそんなことはなかったみたいに、誰に知られることもなく。
 どれくらい経ったのか。もう一生こんな機会はないだろうからって、散らばっていた衣服だけ見につけ思考を放棄して黒尾の隣に寝転がっていた私に、不意に手が触れた。

「……黒尾?」
「……はよ」
「お、おはよ」
「なぁに、もう服着てんの?」
「えっ……!?」
「残念」
「なっ……馬鹿なこと言ってないで黒尾も早く着なよ!」

 私の横髪を耳に掛けてくれながらそんなことを言う黒尾に、私は少なからず動揺した。この雰囲気は何? 黒尾は驚いたり焦ったりしないの?
 どくんどくんときっと昨日の行為中にも負けず劣らずの心音。布団からちらりと見える黒尾の素肌が心臓に悪いんだってば。

 起きて、黒尾がどんな反応をするのか怖かったのに……この反応は覚えているくせに、それを普通に言ってくるなんて予想外だった。

「苗字サン」
「なにっ! 服着た!?」
「着たけど。なんでそんなツンツンしてんのよ〜」
「黒尾がおかしいの!」
「えー? ほら、お隣空いてますよ」
「ここでいいっ!」
「ぶふっ……ソウデスカ」

 くつくつと笑う黒尾の真意は分からないけど、私のことを翻弄するのはいつもと同じで。

 整理しきれていなかった頭はさらに混乱する。
 普通に昨日のことに触れてくるくせに、でも過剰に突っ込んでくるわけでもない。なんか……普通すぎない?
 これはこれからも友達として仲良く出来るってこと? なかったことにしてくれるの? そんな期待を胸に、私はそわそわと指先を遊ばせるしか出来なくて。だけど、

「さて。苗字今日の午後講義だったよな?」
「え? あ、うん……」
「一回家帰る?」
「う、うん……着替えたいし」
「だよな。じゃあ次はいつ会える?」
「えっ?」
「こういうのは改めて時間ある時に、ちゃんと楽しみたいじゃないデスカ。苗字いま余裕ないみたいだし?」
「そ、それって……」

 もしかして、……また昨日みたいなことをしようってこと?  抱いた期待はすぐに真っ逆さま、暗い穴の中に落ちていったみたいだ。
 どくん、どくん、と心臓が暴れているのは相変わらずなのに、さっきとは違う。変な汗が滲んで、……なんか苦しい。

 …だってそれって所謂セフレみたいじゃない? 黒尾は私とそうなろうとしてるの? 黒尾がそんな風に遊んでるのは想像出来ないけど、でも今のってそういうことだよね?

 にやにやと私を見下ろす黒尾の真意は分からない。
 すぐに確認出来なかったのは、もしそうだとして、……正直きっと私は断ることさえ出来なかったからだ。断って、二度と黒尾と一緒にいられなくなる方が怖かった。黒尾が好きだから、一緒にいられるなら例えセフレでも、なんて馬鹿なことを考えてしまった。

 そのあとは何事もなかったかのように雑談を挟みながら次に会う日を決めて、何事もなかったみたいに黒尾とホテルを出る。なにこれ。私の頭の中はクエスチョンマークがいっぱい。
 関係も私の気持ちも宙ぶらりんなまんま、次に会う時までに私は生きた心地がしなかった。

 だけどあっという間にやって来た約束の日。何故かあの日からどうでもいことでも毎日メッセージのやりとりを交わしている黒尾は久しぶりな気がしなくて、私は色んな意味でドキドキして。

「お。おはよ」
「お、はよ……」
「なに、緊張してんの?」
「はぁ!? な、なんで……」
「なんとなく」

 って。にやにや笑いながら会った瞬間から私の手を攫ってしまうから、ドキドキは加速する。どうして。なんで。
 普通セフレにそこまでする? 黒尾は優しいから、それ以外のところでもちゃんと優しくしてくれるってこと? もしかして結構こういうことに慣れてるの?

 考えても分からない、疑惑は増えていくばかり。だけど元々告白する勇気すらなかった私は、こんな彼女の疑似体験みたいな今の現状にこのままでもいいんじゃないかなぁ……なんて既に流さまくってる。

 ぎゅ、って握られた手に意識を持っていかれてもう何も考えられない。隣同士、ギリギリぶつからないくらいの絶妙な距離で黒尾と手を繋いで歩くことなんて、前までだったら想像出来なかったよ。

「さーて、どこ行きますかね」
「えっ」
「ん? どっか行きたいとこあった?」
「いや、……」

 ぶっちゃけホテル直行だと思ってた。なんて、流石に私の口からは言えなかった。
 黒尾はそんなに気にしていないのか、スマホをタップして何かを見ているかと思えば「よし」ってまた歩き出す。

「ど、どこ行くの?」
「んー、まずは飯? 苗字が前に行きたいって言ってたとここ、今予約出来たからそこでいい?」
「え? もしかして、イタリアンの?」
「そうそう。すっげえ美味そうなチーズが乗ったピザがある」
「行きたいっ! あそこ、デザートのティラミスも美味しそうなんだよねえ」
「まじ? じゃあそれも食おうぜ」
「でも全部食べられるかな」
「一個ずつ半分ずつ食えばいいんじゃないですか」
「そ、っか」

 うわあ。やばい。私ってばめっちゃチョロい。食べ物に釣られて、黒尾の言葉にも喜んじゃってさ。
 黒尾の特別にはなれないけど、今この瞬間だけは一番近くにいるんだって。もうそれでいいじゃん。

 その後も黒尾が見たいって言ってメンズの服を見たり、私の新しい香水を選んでもらったり。友達でも出来るけど、どれも友達の時はしたことないことばかり。
 そうして日が傾き始めたあたり。夜はどうしようか、って。少しだけ慣れた、何故か今日ずっと繋がれっぱなしだった手をゆらゆらと揺らして、黒尾を見上げた私はどくんと今日一で心臓が跳ねた。

「……この後、俺ん家連れてっていい?」
「……うん」

 真剣な目に捕まったと思ったのも一瞬。少しだけソワソワしてるみたいに親指で私の右手の甲を撫でて、なのに私を焦がしてしまうくらいに熱を帯びた視線を注がれる。
 あ、ついに。そう思ったときに、『ホテルじゃないんだ』って冷静な自分と、『本当にいいの?』ってパニックになりかけている自分。良いに決まってるじゃん。私が、これで良いって思ったんだもん。
 この日のためにちょっとでもダイエットしたし、肌だって綺麗にケアして来た。例え身体の関係だけであっても、行為中は少しでも黒尾に良いように見てもらいたくて。

 覚悟して来たはずなのに私は途中のコンビニで適当にご飯と飲み物を買っている間も上の空で、いざそういうことをするってなると気が気じゃない。どんな顔して、どんな風に黒尾の前でいればいいのかな。
 ただただ手を引かれるまま。私の歩幅に合わせてくれるのは忘れない黒尾はどこまでも優しくて、何故か泣きたくなった。

「ここ」
「あ、……」
「……緊張してる?」
「し、してない?」
「なんで疑問系なんだい」

 初めてやって来た黒尾の家。こんな気持ちで来るだなんて思っていなかった。
 黒尾は朝と同じセリフに、揶揄うみたいないつもの笑み。なのに『いつも』にはもう戻れない、これからの私たちの関係。

 通された黒尾の部屋で、中学生かってくらいに好きな人の部屋に緊張してる。喉がカラカラに乾いて、ごくんと唾を飲み込んだ。

「あー……」
「?」
「腹減ってると思うんですけど。ちょっとだけい?」
「なに、……」
「今日一日ずっとこうしたかった」
「わっ……」

 カーペットの上に座った私を隣からぐいって抱き寄せて、黒尾はあっという間に私を腕の中に閉じ込める。ドキドキは早くもピークに達していて、黒尾は覗き込んで私の唇にちゅっと一瞬だけ触れた。
 私は何も言えない。だって黒尾が私を、まるで彼女にそうするみたいに見つめるから。

 胸に広がるのは複雑な気持ち。だってもしかしたら他にも黒尾にこうされてる子がいるのかもしれない。
 それでも私は黒尾が好きなのだ。だからもう一度唇を寄せられると、今度は自分からも少しだけ応えてみる。

 ちょっとだけ、って言ったのに。ゆるゆると擦り合わせるみたいに触れていた唇が角度をつけてどんどん深くなっていく。ぬるりと唇を舐められて、息を吐いたその瞬間を黒尾は逃さず捩じ込んできた舌。
 すぐに私の舌を捕まえ、ぢゅっと吸われると大きく身体が痺れる。
 
 静かな部屋で、どんどん荒くなっていく息が恥ずかしかった。
 私を抱き締めていた黒尾の大きな手がスカートにインしていたブラウスの裾を引き抜いて、裾から潜り込んでそろりとお腹を撫でる。
 それでまた私が大袈裟に肩を跳ねさせると、

「かーわい」

 唇を離して、だけどその瞳は至近距離で私を捕らえたまま。吐息混じりの特別甘えたような声でそう呟いた。
 カッと耳まで熱くなると同時に、……あれ。突然今のこんな自分にそう言われていることが、途轍もなく虚しくなるなんて。

「んん、……」
「わり、止まんねえかも」
「く、黒尾……あっ……」
「ん?」
「やんっ……、ちょ、ちょっと待って黒尾」
「んー?」
「ちょ、……ほん、と……」
「……………え!?」
「待って、ってば……」
「え、ごめん、え?」

 私の表情を見た黒尾が困惑したのが、分かった。

 それもそのはず。こんなタイミングで泣き出すなんて、黒尾からしたら意味不明に決まっている。
 だけど私だって意味分かんなくて、だって良いって思ってたはずなのに。覚悟して来たはずなのに。いざそうなると悲しくて、こんなことになっても気持ちは私からの一方通行なのが苦しくて。

 もしかしてこれからずっとこんな気持ちに耐えていかなきゃいけないの? 
 今日一日かけて感じた『本物の彼氏』みたいな黒尾は偽者で、もしかして私はこれからずっとこうやって心を消費させて黒尾の隣にい続けるの?

 言葉に出来ない想いが、大粒の涙となって溢れ出す。え、ちょ、って珍しく焦った黒尾はスッと手を引いて、降参、ってしてるみたいに上げられた。

「嫌だった?」

 眉を下げた困り顔は最っ高に情けない。さっきまでの黒尾のギラギラした雰囲気はなりを潜めて、ただただどうしたらいいのか分からないって感じ。
 ぐす、と鼻を啜った私は濡れた顔で黒尾を見上げ……口を開いて、だけどすぐに閉じた。
 なんて言えばいいの。自分のせいで余計に拗らせてしまったけど、黒尾が嫌なわけでも関係を断ち切りたいわけでもないのに。

 だけど私は思ったより黒尾が好きみたいで、……黒尾の気持ちがない関係には耐えられないみたいだ。それならいっそ、友達にも戻れない方がマシだと。そうなったらそうなったで後悔するくせに。

「……は、」
「……ん? なに?」
「せ、セフレ……は、嫌だ……」
「………………は?」
「く、黒尾とそういうことするのは嫌じゃないけど、セフレは嫌だぁ……」
「セフッ……はぁ!? 誰がそんなこと言ったんだよ!?」
「……くろお?」
「言ってねえわ!」
「いたっ!」

 べちんっ。

両頬を挟まれて、この場に似つかわしくない音が響く。最早ボロ泣きの私を真っ直ぐ見つめる黒尾は、それはそれは呆れた顔で「俺だってそんなの嫌なんですけど」って……ちょっと怒ってる?

「……苗字サンこの前のこと覚えてねえの?」
「お、覚えてる……よ」
「いーやその顔は覚えてねぇな。覚えてたらセフレとか意味分かんねぇこと言わないデス」
「…………なに、」
「……付き合ってって。苗字も頷いたでしょうが。好きって言ったし、俺も言われた」
「…………いつ?」
「苗字と俺がセックスしてるとき」
「セッ……そんなのノーカンでしょ!?」
「はぁ? 俺はちゃんとしたいって言ったのにやめないでって言ったのは苗字の方なんですけど!?」
「きゃあああ待って! 待って覚えてない! そんなの覚えてない!!」
「……つか俺のことそんな風に見てたの? 普通にショックだわ」
「だ、って……」
「俺はもうとっくに付き合ってるつもりだったのに」
「……私と?」
「それ以外いると思う?」
「私、黒尾の彼女ってこと……?」
「俺は、そのつもりだった」

 ……嘘ぉ。目の前がゆらゆら揺れる。さっきとは意味の違った涙が落ちて、それを拭ってくれる黒尾の親指から熱が広がって。
 両頬は挟まれたまま、そんな私を見て黒尾が少しだけ笑った。

「今日なんだと思ってここに来たの」
「……するんだなって」
「だとしたらわざわざ苗字の行きたかった店とか覚えてて予約して、とかまどろっこしいことすると思う?」
「黒尾だもん。セフレにもそうなんだなぁって……」
「どういう意味だコラ。そんなのいないから、いたことないから」
「……」
「……ちゃんと彼女として、大事にさせてくださいヨ」

 そこまで言われて、……ようやく全てが私の勘違いだったと。私は赤くなっていく顔を隠す術を知らなかった。
 黒尾はそれを嬉しそうに見つめて、それからさっきみたいに熱っぽい視線を惜しげもなく注いで。
 少し目を伏せるから、……私もそれを合図に瞼閉じる。

 ゆっくり触れた唇は、甘く優しい。好き、と。息継ぎの間に黒尾が呟いて、それに私は必死に頷いて。今度こそ忘れないように。
 もう一度肌を滑り出した手に、私は今度こそ全身で溺れることが出来るみたいだ。


22.08.23.
title by 炭酸水

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