500,000 リクエスト企画

夜明けに誓って



「ただいまー」
「……おかえりぃ」
「なぁーにまたぶすくれとんねん。今日の試合見た? 俺のサーブむっちゃキレッキレやったやろー!」
「見たよぉ、女の子にファンサしとるとこまでバッチリな」
「はぁ? そんなんしてへんわ、いつのどれ見てそんなん思ったん!?」
「朝、玄関の扉開ける前にしっかり女の子のほっぺた掴んでふっかぁーいちゅーしたとこまでバッチリ?」
「……それ自分やん」
「あれ? そうやった?」
「……なんや嬉しそうな顔しよってぇ〜! 可愛えなぁもう〜!」

 ちょっとだけ疲れた顔をしてたのをころっと蕩けさせて、ソファに座ってた私を半ば押し倒すように抱き締めるこの男。首筋にちゅ、ちゅ、ってキスを落として、その度に身震いする私を満足そうに見下ろすこの男。コツンとおでこを合わせて、しっかりと視線を合わせて。

「……おかえり、侑」
「おん、ただいま」

 宮侑。プロバレーボール選手。高校の頃から付き合って……同棲してからももう三年になる彼氏。
 誰よりもバレーボールを愛する侑のことが、私は今日も変わらずめちゃくちゃ大好き。

 もし叶うならこの先もずっとずっと一緒に居たいって、そう思って……



「ん……」

 ゆっくりと瞼を開けば、痛いくらいの静寂が私を包んでいた。肩やら首やら、色んなことがギシギシ軋むので私がダイニングテーブルに突っ伏して寝てしまったことを悟る。
 夢に見たのは覚えがある、つい一ヶ月ほど前の出来事。あのときの侑の視線も、声色も、温度も、まだ全部忘れてない。

 なんだかんだで侑は私をバレーの次に好きでいてくれるし、バレーの次に大切にしてくれるし、それはこれからもずっと変わらないと思っていた。
 私は私でバレーより好きになってとか、バレーより大切にしてとか思ったことはない。それも嘘じゃない、本当のことだった。

 ……せやのに現状がこれってなんなん。

 返信のないまま沈んでくトーク履歴。合わない視線。なくなった会話。一緒に住んでる分侑がイライラしてるのが直に伝わってきて、自分から話しかけるのも怖くなった。
 たった一ヶ月の間に、侑も、私と侑の関係も、何もかも変わってしまった。変われてないのは私だけ。

 目の前にラップがけされてる夕飯を見てため息。こうやって遅くまで帰ってこない侑を待っていても、どうせ前みたいな会話はなくてガッカリするのは私自身なのに。
 だけど突然そっけなくなったみたいに、また突然元に戻ってくれるんじゃないかなって……望みが捨てきれない。
 だってなんで急にああなってしもたんか、分からへんねんもん。

 ガチャン。耳に届いた鍵の回る音は、侑の帰宅を知らせる音。
 私は小さく深呼吸して、玄関までパタパタとスリッパを鳴らす。

「侑、おかえり」
「……おん」
「お風呂沸いてるで。それかご飯先食べる?」
「……風呂」
「うん、分かった。じゃあご飯あっため直しとくね」
「あー……今日ぼっくんと食うてきたから」
「え」
「飯、いいわ」
「あ……そ、なんや……先言うてくれたら良かったのに〜!」
「……」

 無理矢理上げて引き攣った口角と、上擦った声。それらを無視して浴室に消えてく侑に、口元はわなわなと震え出す。

「……なんで」

 侑が完全に見えなくなって、ぽろりと零れ落ちた涙と言葉。
 侑、もう私のこと好きちゃうん? なんで? 私、なんかした?
 同棲するときに毎日でも私のご飯が食べたいって言うてくれたのに。スポーツ選手のご飯なんかどうしたらいいか分からんくて、せやけど侑に喜んでもらいたくて必死に勉強したのに。今日は前に侑が好きやって言うてたメニューやのに。

 やりきれない思いの行き場がなくて、私は声を押し殺して泣いた。
 私自身はまだ侑のことが好きなのに、ある日突然それが一方通行になってしまったって事実に押し潰されそうで。
 胸がぎゅっと締め付けられるみたいに痛くて仕方なかった。

 そうしてずっと一人で耐えてきたけどもうどうしようもなくて、頼った先――――それは私も侑も共通の友人であり、高校の時はチームメイトでもあった角名。
 当時から角名は私の相談役だった。

 治は侑と近すぎて相談とかしにくいし、銀は優しすぎて侑にも気遣ってしまう。
 まぁ角名だったら無関心なようで意外とちゃんと人のこと見てるし、友達でも悪いところとかあったらちゃんと言ってくれるし、……それに今や侑とおんなじスポーツ選手な分、何か気付いてくれるかもって期待を込めて。だけど。

「いや……しょうもな」
「しょうもなくないわ!」
「……そんなに大っきい声出したら侑起きるんじゃない?」
「アッ……」
「巻き込まれるのはまじで勘弁なんだから、気を付けなよ」
「ご、ごめん……」

 侑がいらないと言った晩御飯を片付けた私は、静かすぎるリビングに座ってスマホの向こうの角名に謝った。
 お風呂から上がった侑は私と顔を合わせるんも嫌なのか、早々に寝室に戻ってしまった。

 私が話した最近の私と侑の話に、角名は面倒だって思っているのを隠さない声で「それで、苗字はどうしたいの」って聞いてくれる。
 高校の時から何も変わらない。侑と喧嘩した私が泣きつくのはいつも角名で、いつも最初にそう聞くから。

「前みたいに……また普通に笑って話せるようなりたい……」
「じゃあ侑にそう言うしかないじゃん。理由も分かんないんでしょ? 分かんないこと考えても仕方ないし」
「そ、やけど……でも……」
「?」
「な、なんか……侑、いっつもとちゃう気がして」
「いつもって?」
「私がなんかして怒ってるとか、そういうんじゃなくて……」
「うん」
「…………もう別れたいん、ちゃうかなぁって……」
「……」

 あ。その瞬間ぼろぼろと涙が落ちたのは、声に出すことでそれがより真実味を帯びてしまった気がしたから。どうしようもないことに、自分で言って自分で傷付いてしまったから。
 それは大きな粒となって、座っている私のスカートに染み込んでいく。

「ううっ……うー……」
「えぇ……泣かないでよ。てかそれはないでしょ」
「わ、分からんやんかぁ……」
「だってなんでそう思うの。別に理由はないんでしょ?」
「ない、けどっ……逆にないからって言うか……」
「じゃあ侑と別れるの?」
「ちょっとぉ! もうちょっと意見ちょうだいよー!」
「面倒臭……つか静かにしなよって」

 わかってるよ。今の私、めっちゃ面倒臭いって分かってる。
 だけど泣き始めた途端私の中のリミッターみたいなのが壊れてしまって、ここ一ヶ月ずっと我慢していたことが全部溢れ出してしまっているのだ。

 泣きたいわけじゃない。別れたくなんかない。でもどうしたら良いのか分からない。

「ほんまにもう、振られるんかもしれん……」
「は?」
「っ、」

 そのとき。私の言葉に重なった、私以外の声に大きく肩が跳ねた。

「……今の声、侑?」
「誰が振られるって?」
「あ、……」
「……これ角名か? 悪い、切るで」
「あ、ちょっ……」

 振り向いた先にはもう寝ているはずの侑がいて、大股で私の元までやってきたかと思えば取り上げられたスマホ。
 有無を言わさず通話を切られたのは相手が角名だからまだ良いものの、この一ヶ月の間にすら見たことがなかった何の感情も見えない侑の表情に私は血の気が引いていく。
 吃驚して涙も止まってしまった。

 今の、聞かれた? どっから? そんでそれを聞いた、今の侑の表情の意味は?
 侑の気持ちなんて分からない。私は呆然と侑を見上げて、……侑はそれにもう一度「振られるって、なに?」と呟いた。

「誰が誰に振られるて?」
「……」
「なぁ」
「……」

 ずいって詰め寄られて、それにすらバクバクと嫌に心臓が鳴っている。だってなに、最近こんな距離になることすらなかったのに。
 嬉しいとかじゃなく、頭の中はなんで? でいっぱい。

 ついさっきまで、もう私なんか興味もない、みたいな感じやったよ。少なくとも私はそう思ったよ。
 それなのに、「なぁ」って私を問いただす侑は何処か悲痛な顔をしていて。

「私、が……侑、に……」
「……振られるん?」
「そうなるんかなって……」
「なんで!?」
「えっ」
「なんでそうなんの!?」
「えっ!?」

 自分で言った言葉にまた傷付きかけたけど、その瞬間私を引き寄せた侑によってそれどころではくなってしまった。
 そのままきつく私を抱き締めた侑は、私が何かを言うまでもなく「そんなん絶対せえへんし!」ってやっぱり必死で。

「なんでそんなこと言うねん!」
「だ、だって侑……が……」
「なにっ」
「侑が、……最近全然笑ってくれへんなって……話してもそっけなくて、……」
「え」
「今日も、ご飯も食べてくれへんくてっ……も、もう好きちゃうんかなって……」
「え、お、ちょお、名前っ」
「もう振られるんかなって……っ」
「ちょお待って!」

 侑が聞いたくせに、私の言葉は侑によって遮られる。
 なによ、って思わないわけじゃないけど、私と視線を合わせようと覗き込んでくる侑と久しぶりに見つめあった私は何も言えなくなる。

 私、侑に嫌われたわけじゃないん? ……まだ、間に合う?
 答えが聞きたくて、でも核心に迫るのは怖い。そんな私に、侑は「誤解や」って弱々しく呟いた。

「……最近ずっと試合でも練習でも調子出えへんくて、この前も途中で外されたりとか全然上手くいかへんくて……」
「……それは知ってる、けど」
「!? 嫌やなんで知ってんの!」
「や、試合はテレビも配信も全部見とるし……」
「〜〜〜〜知られたくなかってん! 名前に!」
「……え?」
「こない格好悪いとこ、見られたなかってん! せやからはよ調子戻さなって毎日自主練やって、せやけど今日はやりすぎやって怒られてもうて、」
「……木兎さんとご飯は?」
「……行ってへん、ほんまは。真っ直ぐ帰ってきた」
「なんでっ」
「せやから! 名前に知られたなかったんやて!」
「そんなん今更やん!」

 だってもう付き合って何年も経ってるのに。一緒に住んでるのに。高校の時からずっと隣にいたんだから、侑のカッコ悪いとこなんていっぱい知ってるよ。だけどそんなとこも含めてカッコいいんだよ。って。
 まだ伝わってへんのかって感じやけど、侑だって大真面目に言うてるからこんなに拗れてもうたんや。

 それでも伝えたくて、私からも侑の背中に手を回す。
 いつもの自信満々な侑に戻ってよ。そんな自信なさそうなん、全然キャラちゃうやん、って。

「……侑、私のこと好き?」
「……はっ?」
「嫌いに、なってない?」
「な、なってない。なるわけない!」
「……ほんならええよ」
「……ええよって?」
「嫌いになってへんならもうなんでもええよ」

 あ、久しぶりに笑えた気がする。あんなに胸が苦しかったのが嘘みたい。
 なのに侑の表情はどこか晴れなくて。

「良くない」
「え?」
「良くないねん」
「侑?」
「俺、名前と結婚したいねん」
「……へ?」

 予想外の言葉に、私は息を呑んだ。驚いてジッと侑を見上げると、決まりの悪そうな顔して徐に私を拘束していた腕を解く。
 え。すぐそばにある棚から取り出したのはいかにもって感じの青い箱で、それを見た私がえ、え、って吐き出すのは意味のない短音だけ。だってこんなの。

「……ほんまは最高にカッコいい俺で言いたかった」
「なに……もしかして元からそのつもり、」
「思い付きでこんなん出てくるか!」
「だ、って……嘘ぉ」
「……左手出しぃ」

 まるでドラマみたい。侑が私の左手を持って、その薬指に添えられた輝き。指輪から、侑へ。視線を戻すと、さっきの情けない表情はどこへやったのか試合の時みたいな真剣な顔。
 ど、ど、ど、と今更緊張して心臓が暴れ出す。

「俺はバレーが一番大事や、それは変わらん」
「……知ってる」
「それでもお前の隣におる男は俺がええねん」
「……うん」
「名前、俺と結婚して」
「……うんっ」

 そこが限界だった。溢れた涙は先程とは意味が違う。だってこんなに嬉しいどんでん返し、想像してなかった。
 もうすぐ振られるかも、侑はもう私のこと好きじゃないかもって、頭はそれでいっぱいだったのに。

「はぁー……! 焦ったわほんま」

 今は目の前で脱力する侑を見られるのが、最高に世界一幸せで。
 もう何年も一緒にいるのに今更調子が出ないくらいでそんなに思い詰めていたのは、このため? って。そう思うと侑が愛おしくてたまらなかった。


22.08.19.
title by 草臥れた愛で良ければ

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