500,000 リクエスト企画

どろどろになるまで



ふたり怖いものなし続編


「なー」
「……」
「なぁって」
「……」
「いつまでそうしてんの?」
「ちょ、っ……待って待って、待って!」
「はい残念時間切れ〜もう十分待ちまし、たー……」
「待っ、て、てば……」
「……なんつー顔してんの」

 高校の同級生。三年間同じ目標を目指して過ごした仲間。好きだった、人。
 朝起きてそんな人と同じベッドに寝てました、しかもお互い裸でしたってそんなの冷静でいられるわけがない。ズキズキと痛む腰、それから二日酔いの頭を抑える。
 なに。なんで。殆ど記憶なんて残っていないくせに、黒尾が甘く私の名前を呼ぶ声だとか余裕を失くした表情だとか、さっきから本来私が知るはずのない嘘みたいな記憶の片鱗が頭の中を掠めて。

 ……しちゃったんだ、黒尾と。それ以上でもそれ以下でもない、もうとっくにいい大人である私はそれを受け入れるしかなかった。
 ベッドの周りに散乱していた衣類をかき集め、それらを身に付けた後は黒尾に背中を向けた。

 そこからは何を言われても『待て』を言い渡していたのに、そんな、いきなり振り向かせないでよ。目が合った瞬間黒尾の手が私の肩から滑り落ちていく。
 きっと私の顔は年甲斐もなくりんごみたいに真っ赤に染まっているんだろう。
 何て言えばいいのかわからない気恥ずかしさに溶けてしまいそうだった。

 黒尾が、私の目の前に回り込む。許されるならまたベッドに戻って頭から布団をかぶって、もう一生隠れていたい。それなのにそれを許してくれない黒尾の視線が、私を捕らえて離さなかった。
 そもそもこのベッドだって黒尾のもの。この部屋も、全部、どこにいても黒尾の匂いがするから、そうやって逃げても意味なんてないのだ。

「苗字サン」
「な、なにっ……」
「まだその反応? そろそろ次進んでい?」
「つ、次、とは」
「えー……これからのこととか?」
「これからのこと……」
「うん」
「……」

 とは!?

 カッと目を見開いた私に黒尾は昔から変わらない、独特の笑い声を上げる。笑ってますけどねお兄さん。私はほんとまだ全然受け入れられてないんだけど。
 普通気まずくなるこの状況でそんなにお気楽な意味とか、さっき黒尾が言った「あんなに愛しあったのに」的な発言とか、まだ何にも。
 少しだけ期待して、すぐにいやいやそんなわけないと首を振る。

「まず昨日のことだけど」
「や、待って!」
「……なに」
「その、……昨日、私と黒尾って……」
「うん」
「あの……そういう?」
「うん」
「や、やっぱり……?」

 向かい合って胡座をかいた黒尾が突然私の手を取るから、私は恥ずかしいくらいに肩を跳ねさせた。急に触らないでよ。そう言いたくても言葉が出てこない。
 だってそのまま私と指を絡めた黒尾は、安心させるようにぎゅっと握り込んでしまったのだから。

 目が合って、ドクン、ドクンと大きく心臓が跳ねて、昨日会う前に戻ってしまったみたい。ううん、もしかしたらその時より緊張してるかも。
 さっきまでと違って真剣な表情で私を見た黒尾の瞳に、私は悲しくもないのに泣きそう。

 いっそ嘘だったら良かったのに。私と黒尾はそういう関係じゃないから。昨日の覚えてすらいない行為のせいで、高校生から守っていた関係が崩れるのが怖かった。この先を聞くのが怖かった。

「正直に言って欲しいんだけど」
「うん、……」
「苗字は昨日のこと、後悔してる?」
「……」

 イェスともノーとも言い難い。なんて言うのが正解? って。
 私は黙って黒尾を見つめる。

「もしそうだったらもうこの話はしないし、今後苗字とは会わないし、……とにかく苗字が納得がいくようにする」
「えっ……」
「でもこれだけは知ってて欲しいんだけど」
「ちょ、」
「俺は後悔してないから」
「黒、尾」
「順番間違ったのは謝る。けど、俺は高校の時からずっと苗字のことが好きだったから」

 ドクン。息を詰めた。
 黒尾の視線は真っ直ぐに私だけに注がれている。今……なんて?
 目の前に広がるのは、高校生の頃に何度ももしもを想像したシーンで、それが今、現実に起こっているのだと。

「好きです。俺と付き合ってください」

 ハッキリと告げられた言葉はしっかりと私に届いて、繋がれている手にはキュッと力が込められた。ぱちぱちと瞬きをするけど、黒尾は目を逸らさない。
 「私も」って。そう言うだけでいいのに、緊張した喉は乾き切って、掠れた声しか出なくて。早く伝えたい、って気持ちだけが焦れて。

「……わたし、も」
「うん、」
「……ずっと、黒尾が、好きだったよ」
「ん」
「な、でっ……そんな顔してんの……っ」
「やー、やっぱシラフの時に言ってもらうのは違うなって?」

 なんて。さっきまで真剣な表情だったのにもうにやにやと笑って私を見つめてる黒尾に、私はほとんど悲鳴みたいは非難の言葉を吐いた。
 シラフの時、ってことは昨日も言ったってこと? だとしたら最悪、恥ずかし過ぎない!? 黒尾ってばこうなるってちゃんと知ってたってこと!? 
 無理、やだ、見ないで。そう言っても黒尾は見るのをやめてくれなくて、なんなら繋いでいない方の手を私の頬添えて固定してしまう。

 ふ、と溢れた息はすぐに塞がれた。黒尾の顔が、これ以上ないくらい近くにある。唇はくっついたまま絡む視線に、頬が熱くなる。そのまま黒尾はにやって笑って、角度を付けて私の唇を食む。

「ん、っ……」
「はっ、……かわいー」
「やだぁ……」
「昨日もそれ言ってたし」
「覚えてないもん」
「じゃー思い出させてあげる」
「ぜ、全然反省してないじゃんっ」
「してるって」

 全然してないじゃん。反論したいのに私は黒尾とのキスにいっぱいいっぱいで、黒尾の胸元に添えた手も押し返すことは出来なかった。
 目を開けたままっていうのも恥ずかしい。なのに今まで見たことがないくらい優しく見つめる黒尾からは視線を逸らせず、胸がぎゅうって締め付けられる。
 好き。大好き。あの頃言えなかったこの言葉を、ほんとは全部伝えたいけど。

 私にとっては黒尾との初めてのキスだけど、初めてって感じじゃないからやっぱり本当に昨日もしてしまったんだろう。黒尾の表情が嫌になるくらいそれを物語っていた。
 息をしたくて開いた隙間から分厚い舌が差し込まれて、ゆっくりと私の口内をなぞっていく。上顎を擽られるとゾワゾワして、ゆらりと揺れた身体は簡単に黒尾に抱き止められて。

「ふぁっ……んぅ……」
「ん?」
「んっ……」

 黒尾の右手が私の腰に回って、密着して触れているところからこのドキドキがバレちゃいそう。

「名前」
「っ、」

 ふと唇が離れて、呼ばれた名前に心臓が止まってしまうかと思った。起き抜けにも聞いた、黒尾の口からは聞き慣れないそれにハッと息を呑めば、もう一度「名前」ってとびきり甘く紡がれて。
 どく、どく、どく、と騒ぐ心臓に胸が痛い。ただの同級生じゃない黒尾ってこんな感じなんだ。恋人になった黒尾って、こんな感じなんだ。

 少し動くとまた唇が触れるような距離で甘えるみたいに名前を呼んで、私をどろどろに溶かしてしまうんじゃないかってくれいに蕩けた視線を私に注ぐ。
 起きたばかりだとは思えない色のある空気にどうしたらいいのか分からなくて、私は堪らず黒尾の胸に顔を埋めた。

「なに、照れてんの?」
「……照れるよ、こんなの」
「昨日はもっと凄いこともしましたけど」
「だから覚えてないんだってば……」
「名前も、何回も呼んだのに」
「嘘、知らない」
「嘘じゃねえって」
「名前」
「も、やだ……」
「名前」
「やめてよ……!」
「耳真っ赤」

 耳の縁をなぞられて、「ひゃあっ」って変な声が出た。反射的に顔を上げれば、やはり黒尾はにやにやと嬉しそうに笑ってる。
 黒尾だけ昨日の記憶があって、多分その中には今は考えられないくらい恥ずかしいこともいっぱいあって……そんなの狡い。私はなんにも覚えていないのに。

「じゃあね、頑張って思い出させてあげましょうかね」
「なにっ」
「もうそろそろ『待て』はやめてい?」
「はっ……?」

 さっきから全然待ってくれないくせに何言ってんの。そう言いたいけど、そのまま私を組み敷いた黒尾は何かを『待って』いたらしい。
 視界いっぱいの黒尾に、私の胸はもう限界。というか色々、全部限界だ。

「や、待って……」
「……もう何年も待ってんですけど?」

 それが最後。お喋りはおしまい、とばかりに塞がれた唇に私は甘く溺れていく。
 ゆっくりと肌を滑る黒尾の手の温度に、じりじりと知らない記憶が重なり合って。


2022.08.04.
title by 朝の病

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