涼風に揺る
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★本編『叶える』の一年後
青い空。白い雲。
「鉄朗、待って! 私もなにか持たせて」
「じゃー名前ちゃんはこっち」
「ねぇ軽すぎる……!」
「いいじゃないの、別に」
「鉄朗は持ちすぎ! 私全然往復出来るよ」
「いいからいいから」
「もー……」
「じゃあ俺の手でも持ってて」
「ちょ、っと、それは危ないからちゃんと両手で持って!」
「へいへーい」
降り立った、駐車場のコンクリートの上には砂浜の砂が混じり、サンダルの底が擦れてじゃりじゃりと鳴っていた。
今乗ってきた車の後ろから二人がかりで下ろすのは去年も見たバーベキューセットだ。
昨日の夜。「海でも行こうか」なんて突然の鉄朗のお誘いに、今年もあまり夏らしいことをしていなかった私は子供みたいに分かりやすく頬を緩ませて喜んだ。
「行く!」
「いいお返事」
私の反応を見た鉄朗の方が嬉しそうなのには笑ったけど、そしたら「何笑ってんの」って頭をぐしゃぐしゃに撫でられる。だって嬉しそうなの、可愛いよ。
きっとそれを言うと「名前ちゃんの方が可愛いですぅ〜」って無駄に張り合ってくるのは経験済みだから敢えては言わなかったけど。
まぁ、そんなこんなで。
今日は二人で、鉄朗の運転する車で海までやってきたのだ。
都内は今日も地球温暖化を顕著に感じる最高気温を叩き出していたけど、ここはまだマシ。
来るまでの景色を見ながら思い出すのは、去年サプライズで連れて来てくれた日のこと。そのときの感動。鉄朗はいつだって、私を喜ばせる天才なのだ。
「あっつ〜……」
「名前ちゃん、帽子忘れてる」
「あっ、ありがとう!」
「日焼け止めは?」
「いるー!」
「こっちおいで」
「はーい」
急なことでお互い水着は用意出来なかったけれど、濡れないようにメンズサイズのぶかぶかTシャツをワンピがわりにして、ショーパンとサンダルにキャップを被ったカジュアルコーデは今朝の鉄朗のお墨付き。
鉄朗に借りたTシャツは胸元に黒猫のワンポイントが入ってるのが地味に可愛いくて今までもたまに借りるくらいにはお気に入りなんだけど、毎回鉄朗がおじさんみたいににやにやしながら着せようとしてくるから、実は今日も自分で着る、着ないの一悶着があったりなかったり。
「名前ちゃん、あっち向いて」
「?」
「首んとこ塗れてない」
「あ、ありがとう……」
素直に後ろを向くと、腕と脚、それから鉄朗によってうなじの部分にもしっかりとジェル状の日焼け止めを塗り広げられる。
鉄朗の手が肌を滑ると身体がチリチリと熱くなっていくのは太陽のせいってことにして、それでも我慢出来ずに小さく跳ねてしまった肩に鉄朗がくつくつと笑った。
「ん?」
「なにも……」
「擽ったい?」
「……そんなことないです」
「そ? ……よし、塗れた」
その声、絶対に確信犯だ。
だって今の……焼けないようにって本当にただの親切心からかもしれないけど、でも、それにしても丁寧すぎる手付きは少しだけ夜の情事を思い出させるような。
……こんなの私が変態みたいじゃん!
悔しいから、私は勢い良く振り返りきゅっと唇を突き出して鉄朗を見上げる。突然のことに鉄朗はぽかんと口を開けて私を見下ろすけど、何も言わずに瞼も閉じてみる。そして『さぁどうぞ』と言わんばかりに、顎を少し上げる。
一瞬。躊躇ったみたいな間の後降ってきた口付けはこの日差しよりもずっと熱い。
離れる時にわざと立てたリップ音。そして目を開けると広がる、珍しくちょっとだけ照れた鉄朗の表情。
「あは、かわいー」
「名前ちゃんがね」
「鉄朗クンには負けますよ」
「いやいやうちの名前ちゃんが一番可愛いんで?」
「鉄朗クンより?」
「当たり前、世界の常識」
「えー世界?」
「そー世界」
「世界かぁ」
まるで、と言うよりもまんまバカップルのやりとりをしながら、指を絡めて恋人繋ぎ。久々のデートに自分が浮かれているのがわかる。
重い物は早々に全部運び出してくれた鉄朗にお礼を言って、私は目の前に広がる海に感嘆の息を漏らした。
「海綺麗っ! 私去年鉄朗と来た以来だよ」
「俺も、名前ちゃん連れて来た以来だわ」
「あっ日傘!」
「こちらにございます、お嬢さん」
「あ、待って今の感じのやりとりなんかの動画であったよね?」
「……相変わらずだねえ」
日傘に隠れてちゅ、とまた触れるだけのキスをして、眉を下げて笑う鉄朗に笑い返して。
「早速肉焼く?」
「んー……焼くけど、ちょっとだけ遊ばない? あっでもお肉傷んじゃうかな……」
「ん? まぁちょっとだけなら、クーラーボックスあるから良いけど」
「やった。じゃあこっち」
「うおっ」
鉄朗の手を引いて、走り出す砂浜。せっかくさしてくれた日傘も放り投げて、恥ずかしいくらいにベタだけど、ふくらはぎあたりまで浸かった水を蹴り上げて遊ぶ。
日差しは勿論暑いけど、髪を攫うくらいに強い海風と体温を下げてくれる海水が気持ち良くて、潮の香りは私たちに夏を存分に運んでくれた。
「鉄朗〜……わっ!」
「うわっ、……っと。……ちょっと、名前サン? 今ので転けたら俺ら着替えねぇのわかってる?」
「あっはっは」
「笑って誤魔化してますけど」
砂浜に、足を取られて。傾いた身体を支えた鉄朗は、苦笑いで私の腰を抱き寄せてそのままぎゅっと固定してしまった。薄いTシャツ越しに鉄朗の腕が熱くて、ドキドキする。
それに後ろから支えられて安定感は増したけど、これじゃ身動きもままならない。
「ありがと鉄朗、もう離して大丈夫だよ」
「ダメ。もう一生離さない」
「えぇ? プロポーズ?」
「何回プロポーズさせんの。まぁ、名前ちゃんがご希望なら何回でもしますけど」
「ふふ、うん。でもあのプロポーズが私の中で一番だから、いいや」
「うわっ振られた。悲し〜」
「えっ振ってないよ」
「振られたちゃったな〜」
「振ってないってばー」
鉄朗が穴場と言うだけあって、夏本番の海だというのにあまり人はいなかった。
人がいないとやはりいちゃつきたくなるもので、ぽたぽたと汗が落ちても気にせずくっつきくすくすと笑い合って。
「ねー鉄朗さん」
「……ん?」
「お腹すいたね」
「誤魔化したな?」
大きく噴き出し笑い出した鉄朗にしっかりと支えられて、砂浜へ。
そうして始まったバーベキューも、暗くなってきてからする花火も、まんま一年前のあの日をなぞったデートはあっという間だった。
暗くなると周りには本当に誰もいなくなって、大きな水たまりを前に世界で私と鉄朗だけになってしまったみたいだ。
花火の残骸や既に洗ってまとめておいたバーベキューセットを片付けている間も、波の音をBGMにさっきまでのことを思い出してはふにゃふにゃと口元を緩めてしまう。
別に二人でお休みを合わせるのがそんなに大変なわけじゃない。だけど、この場所はもう私にとって大切な場所になっているし、海に行くとなれば迷わずここに連れて来てくれたことも嬉しかった。
ちゃんと二人で思い出を共有しているんだな、と感じられたのが嬉しかった。
「来年も来れるかな?」
「勿論。あ、毎年来ることにする?」
「あは、ほんとに?」
もうすぐ今日という日が終わる。あとはもう、帰るだけ。帰る場所は同じだけど、付き合っているときから変わらずデートの帰りはいつも寂しくなる。
車に乗り込むと、鉄朗はシートベルトを締めてぽつりと呟いた私の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
潮風に晒されていた髪はいつもよりキシキシしているし、キャップを被っていたせいで変に癖がついている。だけど鉄朗は「普段の俺よりマシじゃね?」って笑って、飽きずに何度も撫で付ける。
「まだ帰りたくねえの」
「うぅん……」
「遠回りしてドライブでもしよっか」
「帰るの遅くなっちゃうよ」
「明日も休みだし、少しくらい良くね?」
「でも運転もずっと鉄朗だし、疲れちゃったでしょ」
「ぜーんぜん」
本当に楽しそうに言う鉄朗の優しさに、きゅっと胸が甘く締め付けられる。
「鉄朗」
「ん? あ、眠くなったら遠慮せず寝ていいからな」
「寝ないよ」
「いや〜どうかな」
「寝ないってば」
動き始めた景色。鼻に微かに残る、花火の焦げた匂い。車内はエアコンの風の音とラジオから流れる流行りの夏ソングだけが響いて、しばらく無言のドライブ。
帰りたくないなんて子供みたいなことを言ってしまった手前、少し恥ずかしくて鉄朗の方を見れない私はずっと窓の外を見つめていた。
2024.1.31
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