500,000 リクエスト企画

強烈なwaveを



「まだ残ってたの?」
「うわっ……!? 赤葦さん!」
「……今寝てたでしょ」
「ね、寝てない、寝てないです!」
「頬に跡付いてるよ」
「え、嘘っ……」
「嘘だけど」
「……」
「今日くらい早く帰った方がいいんじゃない? 昨日も泊まりだったんでしょ」
「どうしてそれを……」
「朝来たら誰かさんが仮眠室でぐーすか寝てたからね」
「あ、はは……」

 赤葦さんに見られてた!? もーやだ、なんでよりにもよって赤葦さん……
 静かなフロアに響く誤魔化すような乾いた笑いにも、赤葦さんの表情は全く変わらない。呆れたようにため息を吐いて、それから私のデスクに散らばった資料の束を一つ手に取り、隣の席に腰掛けた。

「赤葦さんはどうして戻ってきたんですか?」
「忘れ物したのを思い出して」
「へぇ……赤葦さんでも忘れ物なんてするんですね」
「忘れ物くらいするよ、苗字は俺をなんだと思ってるの」
「うーん……完璧人間?」
「はは、全然」
「そうなんですか?」

 首を傾げたけれど、赤葦さんからの返事はない。だけど私より三年先輩の赤葦さんは、いつも冷静で支持は的確、作家さんや編集長からの信頼も厚い。
 編集者としてはまだまだひよっこの私から見るとそれはもう出来る先輩で、ついでにちょっとだけ気になってる先輩でもあり。

 そんな赤葦さんが何かミスをするところなんてあんまり想像出来なかった。
 例えば作家さんの締め切りがヤバくて頭を下げているところは何度も見たことがあるけれど、赤葦さん自身が何かをやらかして怒られているなんてところは見たことがないし想像も出来ない。
 いつも涼しい顔して器用に淡々と仕事をこなしていく感じの……今担当しているあのバレー漫画の熱血感からも、真逆にいるイメージ。

 それなのに、赤葦さんは手に取った資料をパラパラと捲りながら「俺はどっちかっていうと不器用な方だと思うけど」なんて言うから私はさっきより更に大きく首を傾げた。

 赤葦さんが不器用? ううん、やっぱり想像出来ないんだけど。
 今だって、そこはかとなく感じる出来る先輩感。こう、オーラみたいなものからして私とは全然違う気がする。私も社歴を重ねれば赤葦さんみたいに……なんて憧れても、それは夢のまた夢みたいでちょっと落ち込むくらい。

「俺の話は良いから、自分の仕事終わらせなよ」
「あ、はいっ」

 だけどそんな私に赤葦さんは、ふと、少しだけ表情を緩めて……心配そうな表情で私を覗き込んだ。
 え。少しだけ縮まった距離に、それだけでちょっとときめくなんて……私は中学生かと突っ込みたくなる。

「……手伝わなくて平気?」
「え? あ、はい! 大丈夫です! すみません、仕事が遅くて……」
「別にそれは気にしなくて良いから。締切許す限りは苗字が納得いくまでやればいいけど、でも無理して身体壊さないようにね」
「それはもう……はい、気をつけます!」
「じゃあ、俺は帰るけど……」
「はい、お気を付けて!」
「苗字もね。お疲れ」
「お疲れ様です!」

 小さく手を挙げた赤葦さんに、私はお辞儀をして送り出す。その背中が見えなくなったところで……ようやくパソコンに向き直った。
 担当作家さんのネームを読んで、校正して、気になるところは抜き出して付箋にコメントをつけて……終わりが見えない作業に頭が回らなくなっていたところに赤葦さんの『納得がいくまでやればいい』で背中を押された気がして、やっぱり赤葦さんって凄いなと再確認。
 フロアは相変わらず静かだ。だけど少し赤葦さんと話したのが良い休憩になったのか、さっきより眠気は幾分かマシになった気がする。よし、頑張って終わらせるぞ!




 とにかく目の前の仕事を片付けるために集中して……がくん、と。浮遊感と、『しまった』と思ったのは同時だった。

 仕事が終わって、でも立つのがどうしてもしんどくって、五分だけ休憩して帰ろうと思って……そのまま眠ってしまっていたのだ。
 やばい、早く帰らないと。今何時? スリープモードに入っていたパソコンの画面を、マウスを動かして立ち上げたのと同時。

「あ、起きた?」
「わっ!?」

 突然降ってきた声に……私は大袈裟なくらいに肩を跳ね上げた。

「……ごめん、びっくりさせた」
「びっ……はい、……え? 帰ったんじゃなかったんですか!?」
「そうなんだけど……また戻ってきた」
「え、一回帰ったのに?」
「いや、駅で引き返してきたよ」
「えぇ……?」
「ごめん……自分で言ってアレだけど流石に今のはアウトだな」
「えっ、いや、え……?」

 動揺する私に、赤葦さんは少しだけ眉を下げて笑う。すぐに小さく咳払いをして、またいつもの表情に戻っていたけれど。
 
「終わった?」
「あ、はい……一応」
「じゃあ、一緒に帰ろう」
「あ、はい……?」

 何が起こっているのか、よく分からないまま。急かされてパソコンをシャットダウンした私は、急いでデスクの上に散らばった資料を整えて、それからせめてもと手櫛で前髪を直した。
 いやもう今更なんだけど……朝だけでなく、さっき寝てるところもバッチリ見られたみたいだし。
 それでもせっかく赤葦さんと二人、もうちょっとマシな顔にしたいけど寝不足でメイクもヨレヨレ、しかも昨日は会社に泊まった私にはこれくらいしか出来ない。

 赤葦さんの意図が読めず、変に緊張する私の歩き方はさぞおかしいだろう。だって……え? これってどういう……?
 赤葦さんが駅まで行ってわざわざ戻って来た理由も、今当たり前の顔して私の隣に並ぶ理由も、私には何も分からなかった。

「お腹減ってない?」
「お腹……空きました」
「なんか食べて帰る? って言いたいけど、多分それより早く寝たいよね」
「そう、ですね……」
「コンビニの肉まんとか。……は女子はこんな時間には食べないか」
「あ、いや、全然気にしないです、食べたいです……」
「じゃあちょっと寄って行こうか」

 赤葦さんの一つ一つの言葉を理解するのに、普段の二倍以上の時間がかかった。私は最初に躓くとそれを解決するまで先に進めなくなってしまうタイプなのだ。
 赤葦さんの言われるがままにコンビニに寄って、肉まんとペットボトルのお茶を一つずつ。赤葦さんは更におにぎりも購入していて。
 レジで財布は出させてもらえず、店員さんから受け取ったビニール袋を持つことすら許されない。

「あの、赤葦さんっ! やっぱり自分の分くらい、」
「あ、あそこ座れそうだね」
「えぇ……」

 紺色に散らばめられた星たちが、コンビニ近くのベンチに並んで座った私と赤葦さんを見下ろしていた。

 本当はきっと今日も会社に泊まった方がいくらか睡眠時間を確保出来る。
 それなのに私と赤葦さんはまだ家にも帰らず、外で肉まんを頬張っているなんておかしい。すっかりと睡眠不足で回らない頭でも、流石にそれくらいは理解出来た。

「美味しい?」
「まぁ……はい」
「良かった」
「……ご馳走様です」
「肉まんくらい」
「お茶もあります」
「俺的にはもっと良いものをご馳走したときに言ってほしいけどね」
「……そんなそんな」

 一瞬……まるで次もあるってことだと勘違いしそうになり、だけどすぐにただの社交辞令だと気付いた。恥ずかしい。
 それでも少し浮かれた気持ちは隠し切れず、そわそわと足を動かす。
 隣を向けば思っていたより近い距離で目が合う赤葦さんがいて、――――私は小さく息を詰めた。
 赤葦さんの、こんなに熱っぽい視線、初めて見たから。

 「え」……なんて、溢れた言葉はちゃんと音になっていただろうか。

「俺と食事に行くのは嫌?」
「……え?」
「一応、いま誘ってたつもりだったんだけど」
「い、嫌じゃないです……?」
「じゃあ来週末とか、どう?」
「大丈夫……です」
「ありがとう。じゃあそろそろ帰ろうか」
「え!?」

 気付けば私は、赤葦さんの袖を掴んでいた。だって全然理解出来ない。今夜はずっと『どうして』の連続で、それなのに当の赤葦さんは変わらない表情で、飄々と先を歩いて行ってしまうから。
 さっき一瞬浮かれた気持ちが、勝手に期待とドキドキを加速させていく。

 立ち上がりかけた赤葦さんが私を見下ろし、その目に映った私自身と目が合った。

「……か、帰るんですか?」
「え?」
「まだ、帰りたくない、です」

 自分でも大胆なことを言っている自覚はある。これ、あとで冷静になったら凄く後悔するかもしれない。
 だけど今日の赤葦さんはいつも会社で見る赤葦さんとは違う気がして、それがどうしてか、今を逃したら有耶無耶になって聞けない気がして。

 それに私の言葉を聞き驚いた表情をする赤葦さんがレアで、こんなときなのにちょっとだけ優越感を覚えた。

「……早く帰って寝たいって言わなかったっけ」
「そ、ですけど……」
「そんなこと、こんな時間に二人でいる男に言わない方がいいよ」
「だ、誰にでも言う訳じゃないです……」
「……苗字、いま眠くて頭回ってないでしょ」
「回ってないです。でも赤葦さんもですよね? 赤葦さんも最近ずっと遅かったはずです。宇内先生次は二話掲載だし、他の作家さんもあるし、赤葦さんもずっと寝てないですよね」
「……じゃあお今日はもうお互い帰って寝た方がいいね」
「じゃあなんで、戻ってきてくれたんですかっ」
「え?」
「赤葦さんだってお疲れなのに、どうして……駅から引き返してきてくれたんですか」

 赤葦さんの眉がぴくりと跳ねた。でもそれだけ。それしか私には分からない。
 苦しいくらいに心臓が胸を打ち付けていて、赤葦さんの袖を掴む手が震える。視線は絡み合ったまま、この場にはお互いの呼吸音とたまに前を通る車のエンジン音しかない。

 一秒が一分にも二分にも感じる。

 それでもやがて……赤葦さんが観念したように大きく息を吐いたことにより、その沈黙は破られた。

「…………少しでも好きな子と一緒にいたかったし、遅いからって理由があればどうにか自然に誘えると思ったんだ」
「……え」
「言ったでしょ。俺不器用だって」
「……すきなこ」
「苗字のことだよ」
「……わたし?」
「今言うつもりじゃなかったんだけどね」

 え。え? 困ったように笑う赤葦さんに、今度は私が驚く番だった。好きな子。赤葦さんはそう言った。しかもそれが私だって。
 さっきまでほんのちょっと……ううん、実は結構期待したくせに、実際に赤葦さんの口から聞くのとはやっぱり訳が違う。
 聞き間違えを疑うも赤葦さんはそんな私をジッと見つめて、それから「だから早く帰った方がいいって言ったでしょう」なんて今度は不敵に笑った。

 ……不器用なんて嘘だ、この人。絶対確信犯だ、これ。

 カッと耳まで熱くなっていく。赤葦さんが袖を掴む私の手をするりと解いて、それからいつでも逃げられるよ、とでも言うようにほんの少しの力で今度は赤葦さんの方から私の手に指を絡める。

「この話、また来週末にちゃんとさせてよ」
「あ、……ハイ」
「だから今日はゆっくり休んで、ちゃんと寝て」
「……ハイ」
「あぁ、でも家までは送ってもいい?」
「……赤葦さんが、いいなら」

 そう言うと、赤葦さんは満足気に今度こそ立ち上がった。
 ほら、やっぱり嘘だ。また来週末、なんて言いながら、私が頷くのを待ってからしっかりと手を引いてくれるこの人が不器用なわけない。どこからどう見ても私が知る、出来る先輩である。

 寝不足で肌も荒れてるし、メイクはヨレヨレだし、しかも今なんてきっと頬は真っ赤だし。少し前を歩き出す赤葦さんに、今は顔を見られないこの位置がとても有り難かった。


2023.07.01.
title by 草臥れた愛で良ければ

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