黒尾中編 インスタントロマンス fin

ビートは乱れっぱなし




「苗字ちゃーん」
「く、黒尾先輩!?」
「ちょっと良い?」
「ちょ、っと待ってください!」

 お願いだから廊下から直接私を呼ぶのはやめて……! みんなが注目しているのがわかって、みるみる顔が熱くなっていく。
 「なに!? どういうこと!?」なんて当たり前に興味津々なミーハーな友達に適当に言って慌てて席を立った私は、何回も他の席にぶつかりながらなんとか黒尾先輩のところに駆け寄る。

「ぶっひゃっひゃ! 大丈夫? 痛そうだけど」
「大丈夫です……ていうか来ないでくださいよ!」
「えーひどーい」
「先輩来ると目立つんです!」
「まぁまぁ、いいじゃん。ちょっと頼み事があってさ」
「またですか!?」

 こんな、先輩の彼女のフリをするという(出来ているのかは置いておいて)とっておきの頼み事を聞いてるっていうのにまだ更に頼み事っていうのはちょっと……ううん、だいぶ図々しくないですか!?
 そもそも黒尾先輩、こういうの予想出来たでしょ!? 少なくとも委員会で一緒に仕事するときの先輩は、こちらが吃驚するくらい色んなところに気を遣える人だったはずだ。

 だからこれは、多分わざと。じろりと先輩を下から睨むと、「んな怖い顔しないでよ」ってまた笑ってるんだから……ほんと、全然悪いと思っていない。

 周りからの視線に耐えきれなくなって赤く染まった顔を隠すように俯くと、先輩は「場所変えよっか」って私の背中に優しく手を添える。
 あああちょ、やめっ。途端にまた教室の女子から黄色い悲鳴が上がったのを聞いて慌てて身を捩ると、「ん?」って更にこちらを覗き込む黒尾先輩。

「ヒッ」
「あれ? 顔真っ赤だけど、大丈夫?」
「わっ……かってやってますよね!?」
「まぁな」

 って。黒尾先輩って……黒尾先輩って……! 先輩はにやにや笑っているけど本当に本当にもう限界だった私は先輩の手を引っ張って昨日と同じ、体育館裏にやって来る。
 昨日と違うのは今が昼休みで体育館には人がいないってこと。各々昼休みを楽しむ生徒たちの声は少し遠いところにあって、まるで切り取られたみたいに静かなここに先輩と二人いるのが更に異質だった。

「苗字ちゃんってばダイターン」
「は!?」
「こんなとこに連れてきて……俺をどうするつもり?」
「せ、先輩が……向こう行こうって……そもそも人がいるところであんなことするから!」
「いーじゃん、俺と苗字ちゃんの仲でしょ?」
「た、ただの先輩と後輩です……! 今は!」
「今は」
「い、今は……」

 先輩はなにが可笑しいのか私が言葉を発する度に笑ってて、動揺とか羞恥心とか、色んなものでぐちゃぐちゃな私はその腕を軽く叩くことしか出来なかった。

「痛い痛い」
「痛くないですっ」
「えー、苗字ちゃん怒ってる?」
「怒ってますよ!」
「怒んないでよ、悪かったって」
「絶対思ってないじゃないですか」
「いやほんと、ふざけすぎた。ごめんな?」

 ……ずるい。さっきから、顔の前で手を合わせて私を窺う先輩の思い通りになっているようでならない。
 だけど「もういいですから、頼み事はなんですか」なんて続きを促すと意外にちゃんと反省しているのか、先輩は苦笑いで「苗字ちゃん?」って私の名前を呼ぶ。

「もう、なんなんですかっ」
「ゴメンネ?」
「だからもういいですって!」
「名前ちゃん」
「なっ、……んですか」
「って呼んでいい?」
「な、え、……まさか頼み事ってそんなこと……?」
「ううん、それは別件。でもダメ? 彼氏だったら名前で呼んでも変じゃないっしょ」
「そう、……ですけど」

 まさかまた揶揄っているのかと思ったけど、そんな感じではない。ジッと私を見つめる先輩にちょっとだけ息が詰まって、だって先輩の口から溢れた聴き慣れたはずの名前は、先輩の声で紡がれるだけでまるで全然知らない音になって。

 理由不明のドキドキと、正体不明のソワソワ。それらが合わさって私はなんて言えばいいのか分からなかった。だって別に……嫌じゃない。

「いい、……です、けど」
「お、やった」
「で、でもじゃあ私も鉄朗先輩って呼びますよ!」
「えっ?」
「え?」
「……」
「な、……んなんですかその反応!」

 悔し紛れに口にしたのは先輩の下の名前。何がって言われたら困るけど……先輩にしてやられてばかりじゃ悔しくて。
 でも口にしてからこれくらいじゃ先輩にはどうってことないかもなって思ったのに、意外にも目をまんまるにして固まってしまった黒尾先輩に私の方が動揺してしまう。

「あの……先輩?」

 さっき先輩がしたみたいに、今度は私が先輩を覗き込む。あまりにも微動だにしないから、その頬をツン、と突いてしまったのはつい出来事で。

「ぎゃあっ!」
「もっかい」
「へ!?」
「もっかい呼んで」

 勢い良くその手を掴まれて女子にあるまじき声をあげてしまった羞恥心、そんなことは気にしていないのであろう黒尾先輩は相変わらず何を考えているのか分からない無表情でそんなことを言う。
 え、な、なんでっ。自分から言い出したことだけど、改めて言われるとなんか……恥ずかしい。でもすぐに恥ずかしがってる方が更に言いにくくなるって思い直して、小さく息を吸い込み口にした名前は緊張して少しひっくり返してしまった。

「鉄朗、先輩?」
「……はい」
「はいって……」
「いいじゃん、それ」
「えぇ?」
「今度からそう呼んでよ」
「……呼びます、けど……」
「ん」

 ん、って…… 。満足気な先輩のよく分からないこと。それがまたちょっと可愛いとか思っちゃうんだから私も私だ。相手は黒尾先輩だよ!? よく見て!?

「で、こっからが本題」
「は、はいっ」
「連絡先教えて」
「え!?」
「え? 知らないと不便じゃない? 昨日聞くの忘れたなーって」
「あ、そ、そうですね!? 確かに!?」

 ポケットからスマホを取り出すと先輩がQRコード差し出すから、私はそれを読み込んだ。トークアプリに表示されたアイコンと『黒尾鉄朗』の文字、それから新たに表示されたトーク画面とすぐに送られてきた黒猫のスタンプ。

 それがちょっと先輩に似てて、小さく吹き出した私を「こら」って全然怒ってない声で咎める先輩。

「今俺にそっくりだなーって思っただろ」
「ふふ、自覚して使ってるんじゃないですかぁ」
「可愛いくない?」
「ふはっ、……その顔で可愛いとか言わないでください、!」
「え、ひど」

 そんなこと言いながら、先輩も笑ってる。だけどスマホの画面に表示された時間はいつの間にか昼休みももうすぐ終わることを告げていて、それを確認した先輩が「そろそろ戻るか」って言ったのがちょっと残念で。
 その理由はまだわからないけど、先輩と二人の時間がちょっと楽しかったのは確か。

「名前ちゃん昼飯食った?」
「食べましたよ、流石に食べてないと午後辛いんで」
「だよな。いや急に行ったから、食えてなかったら悪いなって」
「それは全然……鉄朗先輩はちゃんと食べました?」
「ん?」
「え? だからお昼、ちゃんと食べました?」
「誰が?」
「え、鉄朗……先輩?」
「ん」
「なんですかにやにやして!」

 先輩絶対面白がってるじゃん! そんな反応されたら私も気にしちゃうし、なんか恥ずかしいのがぶり返してしまうのに。
 どくん、どくんって最近めっきり感じてなかった胸の高鳴りの正体はまだ分からない。

「ん? んんー?」
「な、なんですかぁ」
「いーや、下の名前で呼ばれることないから新鮮だなぁって」
「ええ、それじゃあ苗字に戻したいです」
「いやいやなんでよ、そのまま呼んでちょーだい」
「そんなこと言われたら呼びにくいんですもん……」

 チラリと見上げた黒尾先輩、……もとい鉄朗先輩はやっぱりにやにやしていて。何かちょっとぐらい言い返してやりたかったのに予鈴が鳴ったから、私たちは慌てて教室に戻ることになったのだ。


22.04.19.

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