黒尾中編 インスタントロマンス fin

インスタントロマンス




「ねー名前、ほんとにどうしたの? 最近全然黒尾先輩と話してないじゃんっ! 喧嘩でもした?」
「……前からこんな感じだったよ? 学年違うんだしいつも話すことないでしょ」
「でも二人付き合ってるんだし、」
「何言ってんの?」
「えっ」
「私、黒尾先輩なんかあり得ないって前にも言ったじゃん〜!」
「え? でも……」
「先輩はそんなんじゃないよ、私ほんとに黒尾先輩みたいなタイプ好みじゃないし!」
「、あっ」
「ほら、先輩って何考えてるか分かんないし、人の困ったところ見て面白がってくるし、それにー……」
「こらこら、先輩の悪口言うときはちゃんと周り見なさいよ」
「……!」
 
 なんだかすごく懐かしい気がした。頭に重みを感じて振り返ると、にやにや笑みを貼り付けた黒尾先輩がいたのだから。
 振り向いた私が驚いて言葉を失くしているのなんて気にしていない黒尾先輩は「つうか苗字ちゃん俺のこといつも悪く言い過ぎじゃね? そろそろセンパイ泣きそうなんですけど」なんて泣き真似をしてみせる。

 全然本気で思っているわけではないんだろう、ケラケラと笑うその表情にまるで身体が浮き上がりそうな高揚感。
 でもたったそれだけ。先輩はにやって笑い私の頭の上でぽんぽんと手を弾ませただけで、私はすぐに離れていくその手を未練がましく見てしまうくらいにはまだ気持ちを整理出来ていないのに。

 例えばまだ付き合っているふりをしていたら……そのまま去っていく先輩を追いかけることくらい、簡単に出来たかもしれない。いくらでも理由を付けて、その背中に触れられたかもしれない。
 だけど。あんなこと聞いちゃったら、……見ちゃったら。もう無理だよ。

 ぎゅうぎゅうと痛む胸が切ない。それでも目頭がじんと痺れだすのに堪えて友達と教室に戻ろうとした、……そのときだった。

「えっ」

 歩いて行ったはずの先輩が、パッとこちらを振り返った。予期せず視線が絡み合って動揺した私は、踵を返し大股で近付いてくる先輩にバカみたいに心臓が暴れ出す。
 私の前まで戻ってきた先輩が、私の手首を取り、それから「今、いい?」って。突然のことに頭が回らない私は、その表情が何を意味するのか予想すら出来なかった。

「いいです、けど……」
「話してえから」
「……話?」
「悪い、苗字ちゃん借りてってもいいかな?」
「あ、はい! いくらでも、どうぞどうぞ!」
「……」

 友達に見送られ、私を引っ張ってく先輩はどこに行くんだろう。手首を掴んでいた手はいつの間にかお互いの指を絡ませた、……まるでデートしたあのときみたいに繋がれている。
 そこから伝わる熱にドキドキして、一言も言葉なんて出てこなかった。口を開けば心臓が飛び出しちゃうんじゃないかってくらいに緊張していたし、たった数日しか離れていなかったのに先輩とこうするのはすごく懐かしい気がして。

 先輩は一度もこちらを振り返らず、だけど私に合わせてくれる歩幅に気付いてしまうのが嫌だ。
 どうしてこんなことになっているのか、未だ何も分からない私は先輩と繋いだ方の手に手汗をかいていないか気になって仕方なかった。

「あ、ここ」
「え、ここ入っていいんですか?」
「まぁ、今は使ってねえとこだし。別にいいっしょ」
「怒られたら先輩のせいにしますからねっ」
「ぶっ……はいはい、そうしてちょーだいよ」

 連れて来られたのは普段は使われていない空き教室。少し埃っぽいそこは自分の教室と同じように机や椅子が並んでいるもののそれ以外何もなくて、いつもいる学校とは違う場所のようだった。

 先輩が教卓のところに立つから、私は何となくその前、一番前の席に座ってみる。
 すると先輩は「今から授業を始めまーす。……なんつって」
とか笑うから、私も「はーいセンセー」なんてそれに乗ってみたり。

「わかんないとこありますかー苗字サン」
「……いきなり? そもそもこれ何の授業ですか」
「……道徳とか?」
「えっ、先輩に教わることなさそう……」
「こら。先輩じゃねえだろ、先生だぞ今は」
「ふっ……あはは、そこですか?」
「そこ大事ですから」
「えー……じゃあ黒尾先生、質問いいですかー?」
「はい、苗字サンどーぞ」

 緩く口角を上げた黒尾先輩扮する黒尾先生と目が合う。どきん。さっきからもうずっと、全力疾走してるみたいに胸が痛い。
 唇を開いて、……だけど躊躇って。私は机の下でギュッとスカートを握った。それでももう一度、声が上擦らないように至って普通を装い、カラカラの喉から声を絞り出す。

「黒尾先生は、……彼女とかいますかー?」
「……いませーん」
「先生ってモテないんですか?」
「はは、モテる。超モテる」
「……なのに彼女はいないんですか? 好きな人は?」
「……それはいるかなー」

 どきん。どきん。なにこれ? ずっと視線は絡み合ったまま。先輩が何を考えているかなんて、やはりちっとも分からなかった。
 だけどそこに熱がある気がして、そんなの気のせいだって思うのに私は目を逸らせない。

「……どんな人ですか?」
「えー……可愛い。めちゃくちゃ」
「……他には?」
「あー……結構素直で、一生懸命。あと笑顔が可愛い」
「……最後の、さっきと同じじゃないですか」
「え、まじ? でもそうですよ」
「へぇ、……」

 それって、あの人? それともまた別の誰かですか? だけどこれ以上聞いたらいけない気がして、私は曖昧に笑った。
 どき、どき、どき。もう勘違いなんてしたくない。だからそんな目で見ないでよ、先輩。

「もう聞いてくんねえの?」
「あは、もう……いいです」
「なんで?」
「……」
「聞いてよ」
「もう、いいですってば……」
「手繋いだり名前呼んだだけでめちゃくちゃに照れんのも可愛い」
「え?」
「なんでも言うこと聞くのにデートしたいって行ってくるとこも可愛いし、彼女のフリとか無茶振りも聞いてくれちゃうような、とにかく可愛い歳下の女の子なんですけど」
「…………え?」

 どっ、どっ、どっ、どっ。これでもかと言う程見開いた私の瞳には、苦笑いする先輩が映っていると思う。なんで。どうして。先輩が言ったことを頭で繰り返して、……だって先輩が言ってる人、一人だけ心当たりがありすぎるから。

「ほんとにもういいの?」
「え? それ、って……え?」
「名前ちゃん」
「えっ、せんせ、」
「先生じゃないでしょ」
「え? ……黒尾先輩?」
「じゃなくて?」
「…………鉄朗、先輩?」
「そ。やっぱ俺名前ちゃんにそう呼んでもらいたいみたい」
「な、なん、でっ」

 その先は言葉にならなかった。教卓の向こうから私の前にやってきた先輩が、机越しに私を抱き締めたから。先輩の香りが胸いっぱいに広がって、訳わかんないけど何故か泣けてくる。
 私にも負けず劣らずで跳ねる心臓の音が先輩のものだと気付いた時、……私は漸く先輩が言ったことを理解した。したけど。

「好きです、名前ちゃん」
「どうして、」
「今度は本当に俺の彼女になってください」
「どうして……」
「……先に返事貰っちゃダメですかね」
「……だって、」

 どうして、だって、ってそれしか出て来ない。少しだけ顔を上げて先輩を見上げた私に、先輩はやはり困ったように笑う。頬に溢れた滴を親指で拭って、それからそのまま両手で包み込むからそこからダイレクトに先輩の温度を感じて。
 ゆっくりと話し始める先輩に、私はなんとなく息を詰めて聞いていた。

「あんとき俺、名前ちゃんの気持ち気付いてたのに知らないフリしたんですけど。それはまぁ……あー……理由があって」
「……理由、って?」
「あの子、覚えてる? あのマネージャーの」
「……先輩、この前、音駒で一緒にいましたよね……」
「えっなになんで知ってんの?」

 焦り出した先輩に、私はぎゅっと胸が締め付けられる。そこにある理由がどんなものか分からないけれど、今まるで夢みたいなのはきっと本当に夢であれが現実だって、自分に言い聞かせるようにして。
 そう思わないと、私はもう二度と立ち直れない気がしたから。

 だけど「違うから! 絶対名前ちゃんが思ってるのとなんか違うから!」って、先輩らしからぬ余裕のない口調に少しだけ期待してしまう現金な私もいる。
 逃げ出したい気持ちを抑えて、私は先輩を見つめるしか出来ない。

「……俺、最初から名前ちゃんのこと、ちょっといいなって思ってたんですけど」
「えっ」
「え、それはなんの『えっ』?」
「だって先輩、好きになられたら困るとか私だったらそんな心配ないとか言ってたじゃないですか……」
「いやまぁそれはその……ね? 照れ隠しって言いますか、あんときまだ名前ちゃんと俺そんな感じじゃなかったし? これキッカケにもうちょい仲良くなれねえかなー、とか」
「そ、そんな感じだったんですか……?」
「でもそれから一緒にいるうちにあーやっぱこの子めっちゃ好きだわって再認識して、そしたらあの子が突撃してきたじゃん? あれ追い返してくれたの見て更に惚れ直して」
「それじゃあなんで、」
「だけど実はあのあとまだ、諦めてもらえてなくてさ」
「えっ」

 先輩が私の頭をゆっくりと撫でた。それはまるであのとき私が先輩にしたみたいに安心させるような手付きで。ゆっくりと髪をすり抜けていく指が擽ったくて、私は目を細めた。

「それまで以上に粘着されてるっつうか、軽くストーカーっつうか……まぁぶっちゃけデートしたときもあの子いたの見ちゃって」
「えっ!?」
「それで、今更好きな子のこと危険に晒してるのに気付いて後悔したワケで」
「だから、……あのときもう終わらそうって言ったんですか?」
「ん。色々精算してからとかまぁ考えてたんだけど、あの日あの子がいたの見てとにかく名前ちゃんがなんかされる前にもう別れたって思わせなきゃって思って」
「で、でもその日の夜も、その後学校でも一緒にいたのって……」
「ちゃんと何回か話し合って、今はもう納得してもらったっつうか諦めてもらえたから。それは大丈夫」
「でも……」
「学校にいたのは放課後練習試合入ってただけ。まじでそれ以上なんもない」
「そ、そんなの、諦めてもらえたって保証ないじゃないですか……」
「……それはまぁ。俺が今名前ちゃんに告ってるってのが証拠になりませんか?」
「…………えぇ、」
「いやなんかもうちょっと反応して、流石に恥ずいわ」

 だって。頭が追いつかないんですよ。先輩は実は前から私のことが好きかもしれなくて、それが好きになって、私が先輩のこと好きになったのもなんとなく気付いてて、だけど私のために離れて? そんなの、すぐに『はいそうですか』って信じられる訳ないじゃないですか。先輩、どれだけ私のこと振り回すんですか、って。言ってやりたいのに。

 それ以上に先輩の言葉が嬉しすぎて、言葉にならない。だって何それ? そんなの、先輩めちゃくちゃ私のこと好きじゃないですか。そんな自惚れ、しちゃうじゃないですか。
 「名前ちゃんも俺とおんなじ気持ちだと思ってるんですけど。じゃないと俺今かなり痛いやつじゃない?」なんて少しだけ弱気な先輩も愛おしくて仕方ない。信じていいの? 先輩、私のこと好きなの?

「さっきの、告ってるんです、か」
「え、伝わってない? うそまじで?」
「だって……」
「俺は名前ちゃんを彼女にしたいんだけど、名前ちゃんは? 嫌?」
「そんなの……」
「あのときみたいに可愛い顔してくれたら、もう俺名前ちゃんのこと手放すつもりねえけど」

 『あのとき』、って……? 思い出したのはデートした時。まさに今から先輩に告白されるんじゃないかって、そう思ったあの瞬間。
 思い出した私は一気に顔が熱くなって、なのに顔を逸らすことは許されない。先輩が、そうさせてくれない。

 先輩にも私の気持ちは気付かれていたんだって、あのときはそう思っていたのに改めて知らされるとそれってかなり恥ずかしい。
 でも今この瞬間、私に想いを伝えてくれた先輩は早く言って欲しそうに焦れた目で私を見つめるだけで。

「……好き、です」
「ん」
「鉄朗先輩が……好きになっちゃいました」
「……ん」
「私も、本物の先輩の彼女になりたい……っ」
「……可愛いすぎじゃない?」

 漸く言葉にしてそれを伝えた瞬間『あ、食べられる』って。降ってきたキスは極上に甘くて蕩けそう。本当本当に大切なものみたいに、何度も触れて、ゼロ距離で合った視線は私を逃してはくれない。
 未だ全部が信じられないけど、半信半疑で私からも先輩の背中に腕を回せば、間にある机が邪魔でもどかしい。先輩も同じことを思っているのか、出来るだけくっつこうと更に抱き締める力を強めてくれる。

 先輩のお願いから始まった関係、まさかこうなるだなんてあの時の私は思いもしなかったのに。今はこれが必然なんだと思える、それくらいもう先輩は私を離してくれそうにない。

 まだまだ聞きたいことは沢山あるけど今はとにかく先輩とこうしてたくて。
 だから後でもう一度。私が本物の彼女だって、ちゃんと聞かせてくださいね、鉄朗先輩!


22.06.20 fin.

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