及川長編 そんなものさいいもんさ fin
「……最高に笑えるマヌケ面だね」

あの日の私と徹が重なる。私は真っ直ぐと徹を見据え、徹はごくりと喉を鳴らした。

「本気で言ってる?」
「うん」
「ア、アルゼンチンってどこにあるか知ってる?遠いよ?文化も違うし、言葉も通じないよ?」
「うん」
「友達とか家族にも、会えないんだよ」
「うん」
「絶対分かってないでしょ……」
「分かってるよ」
「いいや、分かってないね。だって」
「それでも徹がいるもん」
「は、」
「徹と一緒にいられるもん」
「ご注文はお決まりでしょうか〜」

徹が何かを言いかけたところで、店員さんがやって来た。ハッと我に返ったような徹は慌てて自分の分を注文して、「名前ちゃんは?」と私に問う。何も決めていなかった私は目についたパスタセットを注文して、店員のお姉さんはそれを繰り返して確認した後にキッチンに戻って行った。

もう一度私に向き直った徹のその表情はなんとも言えない、苦虫を噛み潰したようなもので……私はそれを見て小さく笑ってしまった。

「……何笑ってるのさ」
「変な顔してるから」
「こんなイケメンに失礼な話だよ」
「そんな変な顔してるイケメンが好きなんだよ」
「…………ほんとにどうしちゃったの?名前ちゃん、そんなキャラじゃないでしょ」
「そればっかり。それで誤魔化す気?」
「そ、んなつもりじゃ、」
「……言われなくても、ちゃんとこれで最後にするつもりだもん」

静かに紡いだ言葉は、しっかりと徹に届いただろう。徹の目に私は余裕ぶって見えているんだろうか、実際はドクドクと心臓が飛び出してしまいそうなんだけど。むしろさっきまで落ち着いていたのが信じられないくらいだった。だってこれが、本当に最後。

こんなところで言うつもりじゃなかった。言うにしても、この後もっといい感じの雰囲気になるように持っていって、それで改めて告白するつもりだったのに。決めたらすぐに口に出してしまうなんて自分の無計画さに呆れてしまう。キャラじゃない?ほんとそうだよ。私が一番驚いてるんだから。だけどこっちだって、それなりの覚悟を持って言ってるんだ。

見つめ合った徹が何を思っているのかなんて分かるはずもなかった。徹が何を考えているのかなんて今まで一度だって理解できたことはない。いつも私は振り回されて、……そんな徹に少しでも私の気持ちが伝わって欲しい。

「徹のことが、好きだよ。ずっと」
「…………」
「どこまでだって付き合うから……こんな私にしちゃったのは徹なんだから。……徹が責任をとってよ」
「名前ちゃん」
「……私をアルゼンチンに連れてって?」

あぁ、……最後の最後で、声が震えた。次の徹の言葉までが、一生のように長く感じた。

「……帰りたいって言ってもすぐに帰れないよ」
「うん」

もどかしい。徹の言葉にそう思う。

「やっぱり嫌だって言ったって、ホームシックになったって、もうずっと離してあげられないかも」
「一回離したくせによく言うよ」

それでも徹がいいの。

「……ごめん」
「いいから、だから……」

だから、ねぇ。祈るように見つめた徹は、ゆらゆら揺れている。

「それでも良かったら……俺に着いてきてくれる?名前ちゃん」
「だからそう言ってるじゃんっ!」
「ははっ、……俺の負けだ」

今にも溢れ出しそうな涙を、必死に堪える。徹が困ったように笑って、観念したように頷いた。私を、受け入れてくれた。
夢みたい。……夢じゃないよね?辛くても悲しくても苦しくても、ずっとずっと好きで忘れられなかった人がまた私の手を取ってくれたことに信じられなくて震える。

「遅いよ、バカ……」

こんな、そこら中から子供の声が聞こえる家族連れも沢山いるようなレストランで、安っぽいテーブルクロスを挟んで手すら握れなくて、ムードもへったくれもない場所で。

「名前ちゃ、」
「お待たせいたしました〜。ハンバーグランチセットとパスタランチセットでございまーす!」

相変わらずのタイミングの悪さで運ばれてきた料理たちに全然格好も付かない。今の空気に不釣り合いな状況に、私たちは出かけた涙も引っ込んで笑い合った。


* * *


「……手繋いでいいかな」

レストランを出て、そのままどこに行くでもなく近くのベンチに座った私たち。さっきとは違う、隣同士に並んだその距離は近くって、もうこの体温だって分け合えてしまう。

今日会ってすぐの時から繋がれていたはずの手をまたそうするのに、今更緊張した面持ちで言う徹に私は呆れて息を漏らした。ちょっとくらい嫌味だって言いたくなるよ。

「さっき繋いできたのは徹でしょ?」
「そうだけど」
「一体どんなつもりで言ってたのか知らないけど」
「……名前ちゃんにとって、今日がちょっとでも良い最後になってくれたらいいなって……」
「はぁあ!?ほんっと……バカ!」
「い゛だっ!」
「ほんっと……ほんっとーに……バカなの!?」
「名前ちゃん、」
「どうしてそうやって昔っからバカなわけ!?良い加減にして!?」
「いだっ、いだだ、ちょ、名前ちゃんっ」
「…………もう離さないでよね」
「も、勿論。名前ちゃんのこと、ちゃんと俺が幸せにするから」
「はぁ?徹なんかの力を借りなくったって私は幸せになりますぅ」
「へ、」
「むしろ私が幸せにしてあげるんだから!覚悟しててよね」
「……名前ちゃん、ちょっとは俺に格好つけさせてよ」
「今更どんなことされたって言われたって格好良いとは思えないんだけど」
「……ほんとに俺のこと好きなんだよね?」

焦ったように私の顔を覗き込む徹に、頬がカァッと熱くなった。結局その顔に私は弱くて、ずっとずっと囚われていて、……これまでのことも全部許してしまうのだ。ああ、もう。ずるい。悔しい。

「……好き」
「……ははは……幸せでどうにかなっちゃいそう」
「バカでアホでバレーの事以外ポンコツナルシストな徹が、どうしようもなく好き」
「……んん?」
「もー……どうしよう、夢みたい……」
「可愛いんだけど……、抱きしめて良いかな」
「だから聞かないでってば、!」

ゆっくり、躊躇いがちに抱き寄せられた肩。どくん、どくん。聞こえる心音も感じた体温も、そんなに久しぶりなことはないのに……だけど本当の意味でこうしているのはきっと高校生の時以来。

時間が巻き戻ることはない。苦しくて悲しくて泣いた日々は、なかったことにはならない。だけど今こうやってまた同じ気持ちで二人いられることが、想像していたよりもずっと幸せで。

「……プロポーズは改めてさせてね」
「え、もういいよ」
「だめ。それに親御さんにも挨拶に行かなきゃ……やばい、俺殴られないかな」
「…………さぁ?」
「……そこはちょっとくらい安心してくれても良いんじゃないの?」
「だって私、徹にいっぱい泣かされたし」
「……名前ちゃんはこの数年で強くなったよね……」
「誰のせいよ」

あの春の日、「苗字ちゃん、俺のものになってくれませんか?」って言ってくれた徹に……私は今本当の意味で頷けた気がした。


八月、水槽の中の楽園




21.08.29.
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