及川長編 そんなものさいいもんさ fin
教室に戻ると、それはもう大変だった。先ほど私を囲んだ女の子たちは、羽よりも軽い口で及川が言ったことを言いふらしてくれたらしい。教室の中に入った瞬間好奇の目。「おい誰か聞いてこいよ」なんて言葉まで聞こえてきて、ここにいる全員が及川のあの発言を知っていることは明確だった。早い。情報が早すぎる。まだこのクラスになって二日目なのに、なんてげんなりとしている私の隣で、及川だけは満足そうに笑っていた。

"苗字ちゃん、俺のものになってくれませんか?"

「え、まじで何言ってんの?」
「そのまんまの意味で言ってるんだけど」
「いやいやいやあり得ないから。私が?及川の?無理、絶対無理」
「まぁ聞いて」

ふふん、と笑った及川に舌打ちをすると、それはスルーすることにしたらしい及川が続ける。

「偽装彼女になってほしいんだ」
「…どういうこと」
「だからそのまんまだよ。苗字ちゃん、たまにすごく頭悪いよね」
「こんなのわかる方がおかしいからね及川クソ野郎」
「苗字ちゃんに、俺と付き合ってる"フリ"してほしいんだよ」
「そんなことして、何のメリットがあるのさ」

最早なにかの凶悪犯と言われるぐらいの鋭さで睨んでしまうのは、許してほしい。だってこいつ、意味不明すぎる。

「俺、バレーに専念したいんだ。今年こそは、全国に行くつもりだし」
「それと私が彼女のフリするのに何の関係が…」
「彼女がいれば、言い寄ってくる女の子が減るでしょ?正直放課後告白のために呼び出される時間も惜しくってさぁ」
「ほんとマジで最低だよね、あんた」
「苗字ちゃんだって、俺がいることでさっきみたいに囲まれる心配もない。win-winだと思わない?」
「いや、私そんなにしょっちゅうあんな風に囲まれたりしないからね。てか初めてだし」
「でもこれからは俺が守ってあげる」
「いいよ、及川といる方が酷い目に遭いそうだもん」
「でも…さっき、俺のって言っちゃったし?」
「嘘でしたって言えばいいじゃん!」
「…昨日苗字ちゃんのお財布拾ってあげたのは誰だっけ」
「それ、は…」

言い淀む私に、シメた、とばかりに口端を上げる及川。

「ね、お願い。部活引退するまででいいんだ」
「………わかった」

どうして了承してしまったか、自分でもわからなかった。いつも私のことをからかって、何かあればバカにしてくる、大嫌いな及川。さっき助けてくれたのは不本意ながらも、昨日財布を拾ってもらったのだって感謝こそすれどその代償としては大きすぎるお願いだと思う。それでも、バレーにだけは一生懸命なのもムカつくけど本当のこと。それは3年間同じクラスじゃなくてもみんなが知っていることだった。

だから、もう半ばヤケクソだったのかもしれない。助けてくれたのは本当だし。いつも上から物を言う及川が、何故か私にお願いしているのだ。もしかしたら弱みの一つでも握れるかもしれない。


──────ここに戻ってくるまでの会話を思い出して、やはり選択は間違っていたのかもしれないと思った。

「な、なぁ、及川。お前、苗字と付き合ってるって、ほんと?」
「うん、名前ちゃんは俺の彼女だよ」

う、わぁ名前で呼ばないでよ。鳥肌立った。男子からは歓声、女子からは悲鳴。私も抗議の目を向けると及川はこちらを向いて、ぱちん、とウインクなんてして見せる。"名前の方が彼氏っぽいでしょ?"なんて風に。絶対そういう意味だ。

「でも及川と苗字ってそんな感じじゃなかったよな?」
「今まで名前ちゃんか恥ずかしがって言わせてくれなかったんだけど、バレちゃったらしょうがないかってなって」
「ええー!?そうなの、苗字!」
「う…うん、まぁ…」

よくもまぁそんな嘘がスラスラ出てくるもんだ。みんなの目を逃げるように視線を彷徨わせると、タカスギくんと目があってしまった。驚いてるような、気まずそうな、微妙な顔をしている。それにもなんだか申し訳なくって、私は俯くしかなかった。


昼休みが終わり、午後の授業も終わり、放課後。やっと、終わった。今日はとても長い一日だった。みんなからの色んな意味での視線が痛かったので、早々と教室を出た私。すると階段を降りる途中で後ろから及川が追いかけてきた。

「名前ちゃん!」
「ちょ、っと…!そんな大きな声で名前呼ばないでよ!」
「名前ちゃんは、呼んでくれないの?」
「は?呼ばないよ」
「あれぇ?もしかして俺の名前、知らない?」
「知ってるけど…」
「はい、じゃあ呼んでみてよ」
「なんで私が」
「だって俺が名前で呼んでるのに、名前ちゃんは苗字なんておかしいじゃん」

なに、その謎理論。

「別におかしくない」
「名前ちゃんだって、そういうちょっとした違和感で周りからツッコまれて目立つのは不本意でしょ?」
「……卑怯な」
「はい、リピートアフターミー、徹くん」
「………お…くん…」
「え?なに?きこえませーん」
「徹くん!!!こ、これでいいんでしょ!満足!?」

ヤケになって叫んでやれば、きょとん、とした及川。それもすぐにふにゃりと笑って「やればできるじゃん」なんて言う始末だ。

「もういいから、早く部活行きなよ」
「うん、そうする。明日からよろしくね、名前ちゃん」
「はいはい」
「あ、気をつけて帰ってね。この前みたいにお財布落としたりしちゃダメだよ、名前ちゃんちょっと抜けてるから」
「余計なお世話」

言い残して、帰ろうと振り返った時だった。

「あ、!」

瞬時に血の気が引くのがわかった。階段を、踏み外した。スローモーションみたいに地面が近くなっていくのが見えて、すると、ぐんっ!と腕が引かれて、気づいた時には及川に後ろから抱きしめられるみたいに引き寄せられていた。

「あ、ぶなー…ちょ、名前ちゃん、大丈夫?」
「ご、ごめ…びっくりした…」
「だから言ったじゃん、名前ちゃん抜けてるから気をつけなって」

その口調はさっきみたいなからかうものじゃなくて本気で心配してるみたいに聞こえたから、黙って聞き入れる。というか、そんなの冷静に聞いてられないくらい、頭は混乱していた。絶対落ちるかと思ったから、今になって冷や汗がぶわっと吹き出す。私を掴んだ腕や、引き寄せられて感じた体温は初めて意識する"男の人"のもので。

いや、なに意識してんの。相手は及川だし!!!
なんて言い聞かせてる時点で、私の頭は少しおかしくなっているのかもしれない。



悪魔は愛を孕まない




2019.12.02.
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