及川長編 そんなものさいいもんさ fin
「名前ちゃん待って!」
「おい、かわ」
「はぁっ、……良かった、間に合った……」
「なんで……」

懐かしい声が私を呼んだ。それだけで涙が滲むのに、久しぶりに対面した及川は眉を下げて笑うから余計に胸が苦しい。さっきから、ほんとなんなの。
振り向いてしまった手前せめてもの抵抗で私はその顔を睨みつけるけど、それでも及川は柔らかい表情で「名前ちゃん」ってまた名前を呼ぶ。

鼓膜を震わすその声に、ヒュッと喉が鳴った。

「なに」
「ちょっとだけいいかな」
「良くない」
「お願い」
「良くないってば」
「ね、」
「良くないってば、!!」
「っ、」

恐る恐る伸ばされた手を勢いよく振り払う。なんなの。どうしてそんなに勝手なの。及川もあの子も、どうして放っといてくれないの!?
勝手に別れを告げられて、離れていって、漸く少しだけそれにも慣れたと思ったのにまた振り回さないでよ。私の心を引っ掻き回さないで。

「……私は話すことないから」
「俺、来週こっちを出るんだ」
「だからっ、!」
「ごめん、でも最後にどうしても話したかった」
「……っ、」
「ごめん、名前ちゃん」
「……まじで勝手。そういうとこ大っ嫌い」
「……うん」
「……何がしたいの、ほんと……」

最後。その言葉に指先が反応した。及川はもうすぐいなくなる。私の知ってる意地悪な及川は、想像できないくらい大きな世界で私の知らない及川になってしまうんだろう。
それを受け入れられなかった私。受け入れたかった私。どっちの私も知った上で及川が別れるという決断をしたのは理解している。それでも。……これはひどいよ。

私たちの間に風が吹いて髪が揺れる。涙を堪えているせいでピクピクと痙攣する瞼にどうか気付かないで。これ以上何も言わないで欲しかった。

「さっき、あの子が名前ちゃんと話しているの見て、」
「……何にも話してない」
「聞いたんだよね?……こんな形で知られるとは思ってなかったけど……浮気なんかしてないよ。俺はずっと名前ちゃんが好き」
「……ひどすぎる」
「うん」
「……好きなのに、別れるの」
「うん」
「……でも私は及川のこと、嫌いだし?」
「……うん」
「……だから、」
「でも俺はずっと好きだから。名前ちゃんの幸せを誰よりも祈ってる」
「……なん、で、」

結局私と及川は堂々巡りなんだ。好きだから一緒にいたかった私と、好きだから離れる決断をした及川。
"好きだから"、たったそれだけでなんでもかんでもカバーできるとは思っていない。遠距離なんて、上手くいくわけがない。簡単に乗り越えられるわけがない。それは分かってても、それでも本当は離れたくなかったんだよ。

何度も何度も同じことを繰り返して、それでもこうなっちゃうんだから。せめてもう放っといてよ。

校門は出たけどまだ周りに青城生は沢山いて、そして私たち二人が注目を集めるのを分かっていてこんな話をしてきたなら、及川は悪魔だ。こんなところで意地でも泣いてやるもんか。
ギュッと目元に力を込めて、私は大きく息を吸った。

「……頑張って」
「えっ」
「……応援、してる、から」
「……名前ちゃん」
「バレーをしている及川は好きだった」
「名前ちゃ、」
「だった、だから!過去形だから!」
「…………」
「けど……応援ぐらいは、これからもしてあげてもいいよ」
「……ありがとう」
「ん。……元気でね、徹」
「うん。名前ちゃんも」
「……ばいばい」
「ばいばい」

名前を呼んだ瞬間、嬉しそうにはにかむのはずるいと思う。私はそれだけでどうしようもなく胸が痛むのに、……こんなの及川の自己満足に付き合ってあげただけなのに。最後だから。仕方なくだよ。
それでも健気に最後は口角を上げてあげた私に気付いてる?これ、相当無理してるんですけど。だって今更何を言ってもしょうがないなんて、すでに何度も思い知らされたから。

泣きたくなくて強がりで言った言葉たちは、決して嘘ではない。名残惜しそうに背を向けてまた学校に戻って行く及川は、どうせバレー部でまた集まるんだろうな。その大きな背中を見て、どうしようもない気持ちになって。
この感情に慣れることなんて一生ないんだろう。

「……ばいばい、徹」

無意識に呟いた言葉は、誰にも届くことなく消えていった。


* * *


「名前、今日は合コン行く?」
「えー、やめとく」
「なんで!?名前って誘っても全然来ないよね」
「だってそういうの好きじゃないし……」
「彼氏とか欲しくないの?」
「うーん……」
「そうやってまた誤魔化すぅ」
「あはは、みんなで楽しんできて」
「もう!イケメンがいて後で羨ましがっても知らないからね!」

大学で知り合った友達は、わざとらしく頬を膨らませて去っていく。それを笑顔で見送った私は、ちょうど通知を知らせたスマホに目を向けそれからまた一人で笑った。

「名前ちゃん、今日だけど大丈夫?」

あの日から何度も季節は巡って、また春を迎える。懐かしく感じるその名前にすら最初はこうして笑うことはできなかった。
そう思うと時間が解決してくれるっていうのは本当なんだな。なんて。私は一緒に添付されていた変顔写真をもう一度眺めて、それからうさぎが大きく丸を作っているスタンプを送って席を立った。

メイクだけ直して行こうか。まぁそんなに変わらないけど、イケメンの隣に並ぶのはそこそこ気を遣うしな。

大学を出てすぐ、私は目的の場所までの道を足早に歩く。思ったより時間ギリギリかも。カツカツとヒールの音が響く道には沢山の人が歩いていて、ぶつからないよう最新の注意を払いながらもスマホを確認して。あー、やっぱちょっと遅れるな。まぁいっか、許してくれるでしょ。

目的のお店に着いた頃には約束の時間を五分ほど過ぎていて、私は上がった息を整えるために二、三度深呼吸をしてからその入り口を開けた。
チリンッてベルが鳴る入り口、そこを潜って案内された暗い店内の奥の席。私を見つけた彼は小さく手を上げて口角を上げる。

「久しぶり」
「久しぶり、元気だった?」
「うん。名前ちゃんこそ?」
「これから就活が始まるんだなあっていう憂鬱な気持ちに負けないように日々生きてます」
「それは俺もだわ」
「あはは、あ、私も同じの飲みたい」
「へーい」

言いながら店員さんを呼んで、彼は私の飲み物とそれから適当に料理を頼んでくれる。……私は乱れた前髪を直しながら、そんな花巻くんの顔を盗み見た。

「なに?」
「え?」
「や、なんか名前ちゃんからのあっつうい視線を感じるなって」
「そ、そんなことないですけど」
「そ?」
「うん。花巻くんもう酔ってる?」
「まだまだこれからですよ」

そう言ってニヤリと笑った花巻くんは、すぐに提供された私のジョッキに自分のそれをぶつける。ガチャン、と多く音を立てたそれを口元に運び、喉を通っていくそれに私たちも大人になったなあ、なんて感慨深くなった。
高校を卒業して初めて連絡をくれたのは、半年くらい経ってからだっただろうか。あの時仲良くなったバレー部の面々で唯一連絡先を知っていた花巻くんが、久しぶりに会おうと言い出した。

正直まだ及川を引き摺っていた私はどうしようか迷ったけど、それでも久しぶりに友達に会いたい気持ちも勿論あって了承したのも既に懐かしい。その時は岩泉くんと松川くんもいたけど、結局その後も定期的に連絡をくれるのは決まって花巻くんだった。

「で?最近どう?あ、俺内定貰えそうなんだけど」
「え!?もう!?早くない?」
「三回の時からちょくちょくインターン行ってたとこ、結構気に入ってもらえてんだよねぇ。まぁ分からんけど」
「えーすごい、私なんか全然今からだよ」
「まぁほとんど皆そうでしょ。どういうとこにするかみたいな方向性は決まってんの?」
「んんん……なんとなく、かな」
「上出来上出来」

花巻くんって意外にちゃんとしてるよね。なんて言ったらまた失礼だって怒られそうだな。
四回生になった私たちが話すことといえば専ら就活のこと、それからバイトや学校の友達、昔の思い出話。例に漏れず今日もまた高校の頃の話になったとき……「あ、そういえば」と花巻くんは少し居住まいを正した。

「及川、今度帰ってくるらしいよ」
「へぇ」
「バレー部で集まるけど、名前ちゃんも来る?」
「いや、私そこにいたらおかしいでしょ」
「会いたいかなぁって」
「会いたくないですね」
「またまたぁ」
「花巻くんうるさ、」
「相変わらずひでぇ」

及川と会えるかもしれない。動揺は悟られたくなくて咄嗟にいつも通り振る舞うけど、でもきっと花巻くんにはバレているかと思えばため息を吐きたくなった。
流石にもう及川にそういう感情は持ち合わせていない。元バレー部の彼らでさえあまり知らない近況を私が知るはずもなく、及川がいなくなった生活に慣れない方がおかしかった。

所詮数ヶ月の間付き合っただけの元カレだ。本当に遠い人になってしまった及川は思い出に変わり、それなのに今更……会ってどうしろと言うのだろう。

「及川は会いたいかも」
「嫌だ。私及川嫌いだし」
「ぶはっ、相変わらずだねぇ」

思い出すと少しだけ胸が痛む、どうかあの日の甘酸っぱい記憶として葬らせて。そう思うのに、やはり少しだけそわそわとしてしまうのはどうしてだろう。

「……ほんっと、素直じゃないんだから」
「は?」
「こわいこわい」
「……今日花巻くんの奢りね」
「は?ちょ、名前ちゃん?」
「どんどん頼んでやろ」
「ちょ、待って、いまバイト給料日前だから!」

考えることすらめんどくさくなって、私はまた手元の苦い液体を口に含むと頭の中のソイツを追い払った。


春、膝を抱え込む




21.08.13.
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