及川長編 そんなものさいいもんさ fin
「名前〜なんかメッセージ書いて!」
「はーい。あ、私のも書いて」
「おっけ!」

桜は咲くどころかまだまだ蕾だし、ブレザーから見えるカーディガンの袖を伸ばし暖をとるくらいには肌寒い三月の上旬。今日私は、青葉城西高校を卒業する。

式が始まるまで各々が写真を撮ったり、アルバムの後ろにあるフリースペースにメッセージを書いてもらったり、連絡先を交換したり……好きに過ごしている今の時間は今日で高校生が最後だということを実感させるにはまだ早かった。
登校時に付けてもらった胸の花だけが、この場所にいられるのもあと少しだということを教えてくれている。

「じゃ、私他のクラス行ってくるから」

そう言って友達も教室を出て行ってしまい、私はどうしようかと悩む間もなく入れ違いで教室にやって来た人物。私を見つけて「名前ちゃーん」と手を挙げた花巻くんは、例に漏れずアルバムを持っていた。

「これ書いて!」
「いいよ〜……うわ、花巻くんのめっちゃ埋まってるじゃん。私どこに書けばいい?」
「えー?テキトーにじゃあ……このへんで」
「はー……い」
「ん?……あ」
「……わざと?」
「まさか。ゴメンナサイ」
「ぶっ……ふふ、嘘嘘。あ、私のも書いてよ」
「勿論、ペン借りていい?」
「うん、これ」
「ありがと」

ペンケースから予備のペンを出して手渡すと、私は元々持っていたペンで花巻くんのアルバムにメッセージを書き入れる。スペースが少ないせいで小さいし短くなってしまったメッセージの上には、見慣れた字で"及川徹"の名前が既に書かれていた。

「……にしても名前ちゃんって友達いねえの?全然あいてんじゃん」
「失礼な。花巻くんが異常なだけだからね?」
「岩泉とまっつんも後で来るって言ってたから書いて貰えもらえば?」
「あ、それは書いてもらいたいかも」
「…………」
「?なに?」
「……いーや。なんにも」
「?」

急に黙り込んだ花巻くんに疑問を抱きながらも、互いのアルバムをまた交換する。しっかりと私の手元に帰ってきたそれには、"色々ありがとう!卒業してもいつでもショッピングデートにお付き合いしますよ!花巻"と書かれていた。

「ふふ、なにこれ」
「俺と名前ちゃんの思い出じゃん」
「思い出ねぇ……」
「……及川には書いてもらわねえでいいの?」
「え」
「三学期の間もうずっと話してないんだろ?最後くらい、いいんじゃね?」
「…… 及川とは話したくない」
「…………」

突然放り込まれた及川の名前で反応する私に気付かない花巻くんじゃないけど、私は知らないふりをした。
二学期の終業式の日に別れてから一度も話していないし目すら合わせていない及川は、相変わらず廊下で女の子に囲まれている。今日が最後だからかいつもより多い取り巻きの中心でいつも通り胡散臭い笑顔を振り撒く及川に、私はチッと舌打ちをした。

一瞬だけ見たその中に、あの子はいない。私が及川と別れる前に二度一緒にいるところを見た女の子……と言ってもショッピングセンターで及川と一緒にいた子と放課後に及川のところに来ていた子が同一人物だと気付いたのは、別れてからだった。徹先輩と呼んでいたのだから後輩なんだろう、その後も数回見かけることがあったあの子。
見かけるのは決まって及川と一緒にいるところで、いつも徹に可愛い笑顔を振りまいていた。

及川との別れの直接的な原因があの子だとは思っていなかったし実際そうなはずなのに……あぁもしかして二人は付き合ってるのかな、だとしたら遠距離になるから別れた私ってなんだったのかな、なんて。考えれば考えるほど、益々及川が嫌いになった。……嫌いになるしかなかった。どうして私ばかり及川のことで頭をいっぱいにしないといけないの。

あの日別れた私たちに、花巻くんも、それから岩泉くんも松川くんも、皆何も言わなかった。もしかしたら及川は言われているかもしれないけど、及川経由で仲良くなった私に今まで通りに接してくれた三人に感謝しかない。それだけでも私の救いだったのだから。
なんなら今、別れて以来初めて及川について触れられた気がする。それほど事情を知る三人は私にとても優しかった。

「及川、来週日本を発つって」
「ふぅん」
「今日ならいけるんじゃねえの」
「無理だよ、何にも話すことないし」
「ほんとに?」
「うん」
「後悔しない?」
「……どうしてそんなこと言うの、花巻くん」

及川からまた花巻くんに戻した視線。花巻くんの目はアルバムに向けられていて、その横顔からは何も読み取れない。だけど笑ってはいないことだけは分かる。
どうしてそんなことを言うの。久しぶりに口にした「及川」という名前だけで、私はこんなに胸を震わせているのに。

「及川、あれめちゃくちゃ大事にしてるよ」
「え?」
「名前ちゃんが選んだクリスマスプレゼント」
「え……」

どうして。そんなことを言われても今更どうしようもないのに、だって突き放したのは及川の方なのに。
ゆらゆら揺れる心と視界、もう一度だけ及川の方を見ると「!」……一瞬だけ目があった気がした。

すぐに逸らされた、もしかしたら気のせいかもしれない。だって今はもう目の前の女の子たちしか見ていない。
それなのに花巻くんが「女々しい男だねぇ」なんて言うから、少し期待をしてしまう。

結局その後岩泉くんと松川くんも教室に来てくれて、その間に花巻くんは及川の方に行ってしまった。何も話せないまま、本当に最後が刻一刻と迫っている。

こんな気持ちのまま式に出席したせいで、何も頭に頭に入ってこなかった。式独特の空気も、校長先生の長い話も、たまに聞こえる誰かが鼻を啜る音も。
気付いたら教室に戻ってきていて、担任の先生も泣いていた最後のホームルームすら終わってしまって。

「じゃあな!春休み集まろうな〜!」
「今からカラオケ行く奴集合〜!」
「ちょっと待って、写真撮ろうぜ」

友達は皆自分が入っていた部活で送別会のようなものがあるらしい。ガヤガヤと賑わう教室で一人、私は取り残されたかのように黒板を見つめていた。

終わっちゃったな、高校生活。この気持ちをなんて表現すれば良いのか分からない。達成感とも喪失感とも言い難い今の感情をどうにもできなくて、だけどここにいればこの一年の色んなことを思い出してしまいそうで……教室の端でまた大勢の人に囲まれている及川から逃げるように教室を出た。この未練を断ち切りたくて。

「あの!」

階段を降りたところで、後ろから聞こえた声が私を呼んだ気がした。沢山人がいるから気のせいかもしれない。それなのに私は振り向いて、するとそこに立っていた……あの子を見つける。
ドクン。心臓が一度、大きく跳ねる。振り向いた私に安心したようなあの子は、小走りで私の元に駆け寄りふぅと小さく息を吐いた。

なに。なんて言って良いのか分からず、私はその子をジッと見つめるしかできない。三学期の間よく及川と一緒にいたその子と、私が何を話せって言うの。

「急に、すみません。苗字先輩」
「いや……」
「これ。お渡ししたくてっ」
「え……」
「苗字先輩に、持っていていただきたくて」
「……なに、これ」
「徹先輩の第二ボタンです」
「は?」

その子が差し出した手のひらに転がる、小さなボタン。うちのブレザーのボタン。それを及川のものだというその子が何を考えているのかなんて、私にはさっぱり分からなかった。

「どうしてこれ、……」
「あの、苗字先輩は勘違いされてます!」
「は?」
「徹先輩とうちの父、知り合いで!私の父、アルゼンチンでプレーしてたことがある元バレーボール選手なんです。全然有名でもなんでもないんですけど」
「はぁ……」
「それで、徹先輩が春から向こうに行くのに色々支援してるらしくて、……その関係で私も知り合って、ちょっと仲良くなって」
「へぇ、……」
「でも苗字先輩が思ってる感じじゃないんです!なんていうか、徹先輩はお兄ちゃんみたいっていうか、」
「それ」
「えっ」
「……私に何か関係ある?」

私の前で必死に説明するその子に、じくじくと胸が痛む。この子のお父さんと知り合い?向こうで支援してもらう?その娘だから仲良くなった子?……そんなの知らない。及川はそんなこと、私に言わなかった。どうして今更、この子から聞かなきゃならないの。

「えっ、と……苗字先輩は徹先輩と付き合ってらしたから……」
「悪いんだけど、私、もう別れてるから。……ごめんね、これもいらない」
「で、でも!徹先輩いっつも苗字先輩のこと見てて、」
「気のせいじゃない?」

それならどうして別れるなんて言うの。この数ヶ月、話かけてもくれないの。私は及川といるのが一番幸せだと、待ちたいと思ったのに。伝えたのに。

聞いていられなくて遮った私に、その子は目を見開いた。
どうして、寄りにもよってこの子に聞かなきゃいけないのか。私が言っていたのは、不安だって言ったのは、こういう風に人から及川のことを聞くのが嫌だってことなのに。結局直接言ってくれないのは、そういうことでしょう?

涙なんて枯れた。だってあの日から数え切れないくらい泣いたもん。そうしてギリギリのところで自分を保っているのに、こんな最後で台無しにしないで欲しい。

「あの、苗字せんぱ、」
「いらないから。そもそもそれ、及川があなたにあげたものなんじゃないの」
「……それは私が欲しいって言ったから、」
「じゃあそういうことでしょ」
「…………」
「……もう私と及川は関係ないから」
「あ……」

その子を置いて、私はまた踵を返す。悲しみや怒り、色んな感情がごっちゃになって息が苦しい。あの子が言っていたことにほんの少しだけ嬉しいと思ってしまっている自分に腹が立つ。揺るがないでよ。そんなこと言ったってもうどうしようもないじゃん。

足早に靴を履き替えて、そのまま校門の外まで走る。
桜は咲くどころかまだまだ蕾だし、ブレザーから見えるカーディガンの袖を伸ばし暖をとるくらいには肌寒い三月の上旬。今日私は、青葉城西高校を卒業した。

「名前ちゃん!」
「、え……?」


醒めない肖像を探していた




21.08.12.
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