及川長編 そんなものさいいもんさ fin
「名前ちゃん」
「あ、徹」
「帰ろ」
「うん!」

明日はいよいよクリスマスイブ。終業式のあと一緒どこかへ行こうという話は前にしたけど、今日まで具体的なことは何も決まっていなかった。
話すなら、この帰り道でしかない。あぁ、私ってば柄にもなく浮かれているんだな。もう一ヶ月は街のクリスマスムードに充てられて、すっかりその日を楽しみにしているだなんて。

なのに。どうしてこんなに嫌な予感がするんだろう。いつも通りに笑った徹が私の名前を呼んで、だけどどこかいつもとは違うという違和感。

「でさ、そんときに食堂のおばちゃんがー……」

明日のことを話すのだとワクワクしてしまっていたのが恥ずかしいくらいに会話が弾まなくて、無理に面白くもない話を捻り出している。どうしてこんなに気を遣っているのか分からないが、でも黙ったら終わりだと思った。
何が?何がかは、……それも分からないけど。

言葉を発するたびに出る白い息が、まるで私と徹の間を遮っているかのように、その不明確な水蒸気でさえ私たちの間に立ちはだかる壁のように。
ドッドッドッドって嫌に心臓が速い。私の話に相槌を打つ徹に私の名前を呼んで欲しくないと思ったのはいつぶりだろうか。付き合ってからは初めて。……ううん。こんな風に思うのは、初めてだった。

「……名前ちゃん」

ドッ…………

さっきまで煩かった心音が、止まってしまったみたいに。それくらい一瞬で音を無くす世界。勘違いだったらいい。そう思うのに、徹の次の言葉を聞きたくなくて私は隣を見れない。
でも徹はそんな私なんて気にしていなくて、またその唇から白い息が漏れた。

「別れよっか」
「え……」

あ……徹の方、見ちゃった。しっかり私を向いて、真っ直ぐに見つめる徹と視線が重なる。
きっと今最高に吃驚したような、酷い顔をしていると思う。だけど許してほしい。何を言われたのか、分からないんだもの。

「な、なに」
「……俺と別れてください」
「なんで……やだ、なんで?」
「…………」
「ねぇ、徹」
「…………」
「徹ってば!」

急すぎて言われたことが理解できない、そう思うのに身体は勝手に徹に詰め寄って、その両腕を掴んで揺さぶっている。だけど徹は勿論そんなのにびくともしないで、残酷にももう一度その言葉を吐いた。

「別れてください」

なんで。さっきと同じ言葉、同じトーンなのに、三度目の正直とでも言うのだろうか、漸くそこで目から涙がこぼれる。一度決壊した涙腺は止まることを知らなくて、ボロボロと落ちるそれはぐるぐるに巻いたマフラーや地面を濡らしていく。

いつもならそれをすぐに拭ってくれるのが徹だと思う。泣けばいい、そう思っての行動じゃ勿論ないけど、でもそうしてくれると思っていた。そうして欲しかった。
でも現実はそんな私を見ても困ったような顔して笑うだけで、触れてもこない。そういえば今日は学校を出るときから手を繋いでいなかったな……なんて、今更ながらに気付いた。

「……この前さ、思ったより早く用事が終わって追いかけたんだ。名前ちゃんのこと」
「えっ、?」
「まっつんと話してるの聞いちゃった」
「き、聞いてたならなんで、っ」
「俺の我儘で辛い思いさせてごめんね」
「違うっ、違うよ徹、」
「ずっと考えてたんだけど……やっぱり俺は名前ちゃんには幸せになってほしい」
「ねえ、聞いっ、て、よっ……!」
「勝手でごめん。でも俺、海外行きは諦めたくないんだ。」
「い、いいから……!それでもいい、私待ってる、大丈夫だから……っ!」
「……ううん。ここで終わりにしよう」
「っ、……!」

どうして。なんで。そればっかりが頭に浮かんでは消えていく。昂った感情のせいで、止まらない涙のせいで……過呼吸みたいに息が苦しい。辛い、痛い。
私がこんなことになるなんて思わなかった。徹だってそうでしょ。だからそんなに目を見開いて、それから苦しそうな顔をするんでしょ。早くいつもみたいに腕を引いて、抱き締めて、「嘘だよ、ごめん」って笑ってよ。今だったら許すから。怒らないから。だから。

「……一人で帰れる?」
「ひっ、……っ、く、っ、や、やだぁ……っ!」
「……家まで送る?」
「やだっ、やだ徹、っ、う゛っ、わか、れたくないっ」
「……ごめん」
「っうう、……っ、っ!っ……」

こんなに、まるでおもちゃを買ってくれない子供みたいに駄々を捏ねて、泣き叫んで、そりゃあ酷い有様だと思う。高校生のくせに、人通りはないにしろ道端で何してんのって自分でも思う。でも仕方ないじゃん。それぐらいもう徹のことが好きなんだよ。好きになっちゃったんだよ。

やっとそう言えるようになったのに。

「……及川?」
「……岩ちゃん」
「……苗字?」
「っ、ひ、っく……」
「……悪ぃ、取り込み中だな」

後ろから声をかけられて、そこにいた岩泉くんを振り返ると岩泉くんはそれこそさっきの徹みたいに目を見開いた。
あぁ、見られちゃった。最悪じゃん。ほんと最悪、最低、全部徹のせいだ。こんなの見られたくない。

なのに徹は、更に私に追い討ちをかける。
それを聞いた私は頭がおかしくなってしまったんじゃない?ってくらいにまた涙が溢れた。こんな、身体中の水分が全部なくなってしまうんじゃないかと思うくらいに泣くのは生まれて初めてかもしれない。制御出来ない嗚咽にくらくらと頭が揺れる。

「いや、……岩ちゃんごめん、ほんっとに悪いんだけど……名前ちゃんのこと家まで送ってってあげてくれないかな」
「や、やだっ、」
「はぁあ?なんで俺が、」
「ほんとごめん!……一生のお願い」
「………………はぁ。後で話聞かせろよ」
「うん。……それじゃあ名前ちゃん、俺、行くね?」
「やだ、やだやだ、徹、待って、」
「……ごめんね。……こんな俺と付き合ってくれてありがとう。幸せになってね」
「嫌だっ……!」

私がこんなに言ってるのに。どうしてそんなこと言うの。徹が分からないよ。私何かした?勝手すぎない?

そう思うのに、離れていく徹を追いかけることが出来なかった。縋り付いていた手をゆっくりと離された瞬間、周りの音が、色が、寒さが、もう何も無くなってしまったかのように思えて。
泣き過ぎて息が出来なくて、ただ小さくなっていく徹の背中を見つめることしかできない。

ガクンって力が抜けて、地面にしゃがみ込んだ。それに慌てて岩泉くんが駆け寄って来てくれる。

「大丈夫か、苗字」
「と、とおる、がっ、」
「落ち着け。ほら、大丈夫、大丈夫だから」
「ひっ、っ……っ、……く、っ」

大丈夫じゃないよ。背中をさすってくれる岩泉くんの手だけが温かくて、それが余計に辛い。
それでも、どれくらいそうしていただろう。徐々に息が落ち着いて、ヒクヒクと鳴る喉の音も先程より小さくなっていって。
頭に霧がかかったかのように色んなことを曖昧にしか感じられなくて、私はただただ徹が去っていった方を見つめるしか出来なかった。

その間もずっと背中に手を当ててくれていた岩泉くんが、「……ちょっと落ち着いたか?」って。その言葉に、ゆっくりと岩泉くんに視線を向ける。

「いわいずみ、くん……」
「おう。立てるか?何にしろここじゃ目立つからもう少し先の公園まで……」
「わたし、徹に振られちゃった……」
「…………」
「わ、別れようって、……徹が、私のこと、……っ、」
「チッ……バカじゃねえかアイツ……」

言葉を発しようとするとまた喉が震えて、ヒリヒリと痛む目が更に熱くなる。岩泉くんの声はどこか遠くで反響しているみたいに聞こえた。

その後も、せっかく収まりかけていたのにまたぶり返してしまった涙を流して、私の嗚咽だけが響いて、そんな中岩泉くんはずっと隣にいてくれた。

バカだと思う。ただの失恋でこんなことになって、世界の終わりなんじゃないかってくらいに何もかもが嫌になるなんて。
だけどそうやってここに浸って現実から逃げていないと自分を保てなかった。さっきの出来事は全部夢だったんじゃないか。
今になっても私を拒否する徹なんて信じられなくて……私から離れていく徹が嘘みたいで。

どうやって家に帰ったかも分からなかった。とっくに真っ暗になった帰り道、無言で隣を歩いてくれた岩泉くんはしっかりと家まで送ってくれて、その優しさにまた泣きそうになる。

きっと真っ赤になっている瞳で、重くなり過ぎた瞼を無理矢理押し上げて笑おうとしたけど……痛々しいものを見るかのようにグッと眉間に皺を寄せた岩泉くんの表情がその惨状を語っていた。

「……ちゃんと飯食って寝ろよ」
「ん……ごめんね、岩泉くん」
「おう」
「……明日、もう一回話してみる」
「…………」
「ちゃんと思ってること話すって。この前も松川くんに言われたのに、言えなかった」
「…………」
「それで駄目なら……もう駄目なんだろうね」

そう言って、もう一度私は笑う。だけど表情筋なんてなくなってしまったかのようにカチカチに固まってしまった私の表情は、やっぱり酷いまんまだった。

「……何かあったら話聞くから」
「うん。ありがとう、気をつけてね」
「おう」
「それじゃあ……ばいばい、岩泉くん」

さっきまであんなに泣いたのに、涙は枯れてしまったんだろうか。泣き疲れて重い身体が、考えることを拒否する。
私は家に入るとすぐに自室のベッドに倒れ込んで、そしてそのまま瞳を閉じた。全部夢でありますようにと願って。


頬を伝う音もなく夜は沈む




21.07.19.
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